その4
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【2019年7月27日】
「でさ、それからまたバスに乗って東京にもどって来たんだけどさ」
と、佐倉伊純は言った。時刻は午後4時43分をすこし過ぎたころである。
日向康花にふたたびソファを占領されたかっこうの彼女は、カーペットのうえに仰向けになって、水と氷のはいったグラスを胸の上に置いて遊んでいる。
「途中、高速に入るまえのバス停でさ、変なかっこうした男のひとが乗って来てさ――」
そう言うと彼女は、グラスの水をひと口飲もうと体を起こしかけたのだが、そこに康花が、「変なってどんな格好?」と、ソファのうえから彼女の頭をなでながら訊いた。
「変なのは変なのよ」と、伊純。そのまま水をひと口飲んでから、「あんた覚えてないかなあ?」そう頭のうえの右手に訊き返した。「物理の野毛先生」
「物理の? って、ゲゲゲの野毛先生?」
「そうそう。あのおじいちゃん」
「おぼえてるわよ、教えてもらったことは全部わすれちゃったけど」
「あのゲゲゲがさ、いっつも着てたジャケットあったじゃない? あの古めかしい感じの」
「あの茶色の?」
「そうそう。あのツイードの、ひじのところにツギなんか当てちゃってる」
「いかにも“物理”って感じの?」
「そうそう。あれにそっくりのジャケット着てたんだ」
「その男のひとが?」
「そう。まだ若い――たぶん20代前半だとか想うんだけどさ、水色のワイシャツにさ、そのツイードはおって、サスペンダーなんかも着いてて――」
「コナンくんみたいな感じ?」
「あれよりおじいちゃんぽかったかな? さすがに下は長ズボンだったし――クツはコンバースだったけど」
「うーん? でもいなくはないんじゃない?」
「でも全体の雰囲気もなんか変でさ、それこそ“いままさにタイムスリップでもして来ました”みたいな?」
「なによそれ」
「わっかんないけど、その時の私はそう想ったし、瑛さんも同じように感じたんだって」
「ふーん。まあいいけどさ、で? その男のひとがどうしたって?」
「で……? あー、そうそう。で、そのひとが真っ赤でおっきな蝶ネクタイしてたのよ」
「いよいよコナンくんじゃん」
「いやいやアレより……うーん? まあそれでいっか」
ここでふたたび伊純は、グラスの水をひと口ふくむと、
「そしたらこうさ、瑛さんがさ、私の袖を引っ張って来てさ――」そう続けた。
*
「イーちゃん、伏せて」
「なになに?」
「いいから、隠れて」
「どうしたのよ? いきなり」
「あの男のひと」
「男のひと?」
「きっとあいつはスパイだ」
「スパイ?」
「そう。CIAとかKGBとか」
「なんでそう想うのよ?」
「あの人のネクタイ」
「ネクタイ?」
「アレにはきっと、カメラが仕込まれている」
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ここで伊純はクスクス笑い、頭のうえの右手を握った。
「いまの言い方じゃ、わっかんないかも知んないけどさ、そこで私たちさ、バスのなかでさ、バッカみたいにさ、笑ったんだ。それこそ、その蝶ネクタイのスパイがびっくりするぐらいの大声でね」
すると、これはきっと気のせいなのだろうが、彼女たち二人には、この“バッカみたいにさ”のところで、一瞬だけ、時が止まったように、そう感じられた。
「分かるよ」と、ふたたび動き出した歯車のなかで、康花は応えた。「リョウちゃんもそんな感じだったもん。どんな時でもさ、直接じゃなくてもさ、電話とかでもさ、メールとかでもさ、特別なにがおかしいってワケでもなかったんだけどさ――」
そうしておいて彼女は、伊純の左腕の付け根に、すこし熱っぽくなったおでこを押し当てると、「分かるだろ?」と言った。「ただただ、一緒にいるだけでおかしかったんだよ」
「分かるよ」と、伊純が返し、
「な、やっぱもうちょっと飲もうよ」と、康花が言った。
「ダメよ、私もそろそろ帰らなくちゃ」
「いいじゃん、飲もうよ」
「だめ、千駄ヶ谷は遠いのよ」
「いじわる」
そう言うと康花は、ふたたびソファへと身を沈めると、そこのしろい天井に、小さな青っぽい染みが出来ているのを見付けた。「ある時さ――」と、彼女は言った。
「ある時ね、日比谷公園の噴水のところでね、春だったんだけどさ、私つまずいて転んじゃったことがあったんだよね。リョウちゃんがさ、噴水のところでさ、本読みながら待っててさ、私そこに駆け寄ろうとしてさ、それで転んじゃったんだけどさ、そしたらリョウちゃんがさ、「“かわいそうなひょこひょこおじさん”だね」って、そう言ったんだよね――」
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「“ひょこひょこおじさん”?」
「“かわいそうなひょこひょこおじさん”」
「なにそれ?」
「むかし読んだ小説に出て来たんだ」
「いまの私みたいなの?」
「かわいそうな感じがね」
「ひっどいなあ、こんなかわいい子つかまえて」
「カワイクて、カワイソウな感じが似てるんだよ」
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こんどは康花がクスクス笑い、天井の染みから目をそらした。
「いまの言い方じゃ」と、かのじょは言い掛けて、
「分かるよ」と、伊純は応えた。「バッカみたいに笑ったんでしょ?」
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【同年、同月、同日】
「じゃ、その時のクジラか? このかたまり肉?」
と、そんな彼女たちから離れること数十km南西、三尾漱吾は、適当に切ったジャガイモやニンジンを鍋に入れながら訊いた。
ここは、彼の友人である樫山泰仁の自宅兼仕事場の、一階キッチンである。
「いや、その時のクジラはちゃんと海に帰したから、これは、そのとき漁協のひとからもらった、また別のクジラの肉だよ」
と、こう言いながら、ティーバッグに入れたカツ節と昆布を彼に渡すのは、この家の主人、泰仁である。
「ふーん。じゃあそっちの“大将”は喰われずに済んだワケだ」と、漱吾が訊くと、
「僕らにはね」と、泰仁は答えた。「あ、冬瓜もそろそろ切っといて、適当でいいから」
「あいよ――“僕らには”?」
「だいぶ弱ってたしさ、潮には乗せられたけど、長くはもたないだろうって」
「皮、これぐらい剥いとけばいいか?」
「うん? あー、もうちょっと厚めでもいいかな――で、多分、しばらくしたら他の魚やエビに食べられるだろうって」
「それも“あの人”が?」
「うん。――あ、ちょっとどいて、タマネギ入れる」
「はいはい」
「“大将がそう言ってる”って言ってたけどね――“それでも感謝してる”ってさ」
「“感謝”?」
「“やっぱ陸よりは海で死にたかったらしいよ”ってさ――」
「ふーん。やっぱ変わったひとだな」
「うん。――なんか、こう、おとぎ話に出て来るようなひとだった」
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【同年、同月、同日】
「そこでさ、リョウちゃんがさ、私のおでこにさ、手を当ててくれたんだよね」
と、そう言いながら康花は、その時の彼の手の形を想い出しながら、その右手を自分の熱っぽいままの額に当てた。それから、
「そしたらさ、私さ、スーッと熱が下がった感じになっちゃってさ。 いや、ほんとに熱が下がったんだと想うんだけどさ、そのまま、こう、あったかい? やわらかい? そんな……こう、本物の? 眠りに落ちたんだ――分かるかな? 私の言いたいこと」
と、天井の染みから目をそむけながら続けた。
するとここで伊純は、彼女の質問には答えずに、
「旦那さんには話したの?」と、ある種唐突な感じに訊いた。「リョウちゃんとのこと?」
「……うん?」と、眠りから覚めかけた子どものように康花は応えた。「言いかけたことならね、一度ね」
「キチンとは話してないの?」
この言葉に康花は、伊純のほうを向こうとしたのだが、しかしそれでも、その目をふたたび閉じると、
「あのね、お姫さま」と、なかばからかい口調に言った。「もしもアンタが、もしもアンタが、もしもまだ結婚ってやつをあきらめていないって言うんだったら、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに、そんなこと言っちゃダメよ、分かる?」
「なんでダメなのよ」
「付き合い始めとかならまだいいわよ――やつら理解あるふりしてくれるからね。でもね、それでもね、男って生き物はね、ほかの男と比べられることをね、そりゃあバカみたいに嫌うもんなんだ。あいつらよりハンサムな子と付き合ってたんなら「でも、女の子みたいでちょっと苦手だったな」とか、あいつらより上の学校に行ってたんなら「専門バカで常識はなかったよ」とか、すぐに落としてやんないと、途端にやつら、不機嫌になるんだから」
ここまで言うと康花は、グラスのなかの水をひと口すすり、つむっていた目をさらに強くつむった。そうして、
「それがさ――」
と、続けようとして、その声の強さに自分でも驚いたのだろう、その薄い下唇をうえの前歯で軽く噛むと、「それがさ」そうちいさく言いかえて、続けた。
「それがさ、私が本気で好きになったひとのことなんか話してみなよ――」
伊純は、先ほどのからかい口調に、少しばかりの怒りを覚えてはいたものの、それでも、ゆっくりと体を起こすと、康花のほうへ近付こうとした。したのだが、ここで、
ピンポーン。
と、玄関チャイムを鳴らす音がして、彼女たちのこの会話は、ここで打ち切られることになった。
「ごめん」少しの間を置いてから康花が言った。「多分、和康だ」
「うん」と、こちらも少しの間を置いてから伊純は応えた。「想ったより早いんだね」
「ごめん」と、康花はふたたび伊純に謝ると、「代わりに出てくれないかな?」と、続けた。「私いま、あの子の顔見れるような感じじゃない」
(続く)