その3
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So long and thanks for all the fish.
So sad that it should come to this.
We tried to warn you all but oh dear.
*
【2019年7月27日】
「それで?」と、玄関からもどってくるなり康花が訊いた。「ご感想は?」
ちょうどこのとき伊純は、先ほど見かけた文庫本を手に取ろうとしたところだったのだが、その手を引っこめると、「ご感想?」と、彼女のほうに向き直りながら訊いた。「なんのご感想よ?」
「あいつの――あの子の顔よ。まじまじと見てたでしょ?」
「そうね」と、テーブルのうえにあたらしく置かれたポッキーに手を伸ばしながら伊純。「なんかちゃんと男の子っぽくなって来た感じね」彼女も康花に合わせ、ハイボールのグラスを麦茶に持ちかえている。
「もう6つだしね」
「でもえらいわよね、この時間から塾だなんてさ」
「公文ね。たまたま近所にあったからさ」
「でもえらいって想うよ、ほんとさ」
「最初は昼間に行ってたんだけどさ、先生から相談されちゃって」
「相談?」
「友だち同士で話し始めちゃうからさ、時間をずらしてくれって」
「それで夕方に?」
「そうそう。そういうところもあの人そっくりなのよ」
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You may not share our intellect.
Which might explain your disrespect.
For all the natural wonders that
grow around you.
*
「それで?」と、ふたたび、今度はテーブルの汚れた皿を片付けながら康花は訊いた。「ご感想は?」
すると伊純は、こちらはこちらで床に落ちたごみを拾い上げているところだったのだが、「ご感想?」と、こんどは床を向いたまま訊き返した。「ご感想ならさっき言ったでしょ?」
「あれ以外は? もうちょっと詳しく――だれそれに似てるかとかさ」
伊純の目の端に、カーペットのうえのオレンジパプリカが見えた。「八嶋智人?」
「ちょっと、マジメに訊いてるのよ?」
「ごめん。そうね――旦那さんにそっくりなんじゃない? まえ会ったときよりさらにそんな感じがした」
「そっか――」と、右手の親指で左目のしたをかきながらの康花。「やっぱそうだよね」
「でも、耳のかたちとかはあんたにも――」
「いいのいいの、分かってるもん。あのひとそっくりだって」と、口元だけで笑ってみせながらの康花。
「いやでも、ほんと耳のかたちとかはさ――」
「たまに向こうのお母さんが来るじゃない? するとレストランとかで三人並んだりするんだけどさ、まるで三つ子みたいだもんね、あのひとたち」
すると彼女は、テーブルに残っていた最後のフィンガーサンドを口に入れると、「私が欲しかったのはさ――」と言いかけて「なにこれ? ここだけマスタードが固まってる」そう言って泣きそうな声で苦笑した。「――私はさ、私に似てる人が欲しかったんだよ」
*
So long, so long, so long, so long, so long.
So long, so long, so long, so long, so long
So long, so long and thanks for all the fish.
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「“マーリン”?」そう髪をかき上げながら伊純は訊き返した。「“マーリン”って誰さ?」
「あの子の友だちだよ」と、そんな彼女のほつれた髪に手を伸ばしながらの康花。「いや、“友だち以上、恋人未満”って感じかな。どこへ行くにも、なにをするにも一緒。“マーリン”と一緒じゃなきゃオヤツも食べないの」
「熱々じゃない」そう言ってソファから起き上がると伊純は、もう少しだけ康花のほうへ身を乗り出した。「かずくん、彼女がいるんだ」
そんな彼女の表情に康花は冷ややかな目線をおくると、
ポンポン。
と彼女の頭を軽く叩いてから、「そうね、いるみたいね」と、続けた。「“彼女”かどうかは分からないけどね」
「それでもステキじゃない?」と、彼女のことばをはき違えたままの伊純。「苗字は? 外国の子なの?」
「さあ? 苗字は聞いたことないわね」
「どこの国の子?」
「もともとはイギリスだかウェールズだかの子らしいわね」
「へえ、お父さんのお仕事とかで来たのかしら?」
「さあ? でもお父さんはいないらしいよ」
「そうなの?」
「うん。“マーリンには一度もお父さんがいたことがない”んだって」
「どういうこと、それ?」
「さあね」と、注ぎなおした麦茶を飲みほしながらの康花。「あの子にしか分からないお話さ」
そう言われて伊純は、しばらくの間考え込んでいたのだが、ふっと、双子の片割れと最後に交わしたキスのことを想い出すと、
「あ、分かった」と、応えた。「“マーリン”ってのは空想のお友だちなんだ」
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The world's about to be destroyed.
There's no point getting all annoyed.
Lie back and let the planet dissolve
Around you.
*
「たしかにあんたにとっちゃそうかも知れないけどさ」と、ソファを立ち、台所へと向かいながらの康花。「私はその“マーリン”を一日中聞かされるんだよ? “マーリン”が席につくまで「いただきます」は言わない。“マーリン”が恥ずかしがるからって私や旦那とはお風呂にも入らない。ベッドだって「マーリンのため」って半分空けて寝てるんだから、たまったもんじゃないわよ」
そう言ってから彼女は、シンク台の上に置きっぱなしだったウイスキーのボトルに目をやったのだが、その流れのまま壁掛けの時計を確認すると、いまいましそうにそのボトルを手に取り、冷蔵庫の野菜室へとしまった。
「でもさ、その“マーリン”ってさ、男の子なの? 女の子なの?」
と、ここで今度は、そんな彼女のようすに気付きもしないかっこうの伊純が声を出した。
「男か女かだって?」と、康花。「知らないわよ、そんなの」
「でもさ、例えばどっかに好きな子がいてさ、その子のことを想って――っていうかその子の代わりに? ガールフレンドにしてるってこともあるんじゃない?」
「それはないわね」と、食器棚を開けながらの康花。「ガールフレンドなら他にもちゃんといるもの。年少のころから一緒だった子で、あっちもまんざらじゃない感じよ」
「そうなの?」
「あの年ごろは優しいだけでもてるからね」
「だったら“マーリン”は男の子かな?」
*
Despite those nets of tuna fleets.
We thought that most of you were sweet
Especially tiny tots and your pregnant women.
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【2016年4月1日】
「ほら、あそこ、あの白いの、ちょっと瞬いてる」
【ある日ある時ある海のうえ】
「どこですか?」
【樫山泰仁――と、ある女性の会話】
「ほら、あの黄色いののとなり、見えへん?」
「よく見えませんね」
「まったく、本ばっか読んでパソコンばっかのぞいてるからやで?」
「悪かったですね」
「メガネもはずしいや、その方がよう見える」
「ほんとですか?」
「そうそう。せっかくの夜や、生の目でじっくり見とき」
「たしかに……なんか瞬いてるように見えなくもないですけど……」
「だいぶ遠くの銀河なんやろうけど、新星ってよりは超新星っぽいよね」
「ほんとですか?」
「ちがうかも知れんけど、そう想う分にはタダやろ?」
「まあたしかに。夜の海がこんなに明るいとは想ってませんでしたね」
「そうそう。キレイなんだ」
「“星の海”ってこういうのなんでしょうね」
「取材、来てよかったやろ?」
「ええ。――この船には最初びっくりしましたけど」
「最初は暴れてた“大将”も落ち着いて来たみたいやしな」
「まさか“彼”を引っ張るのにこんな小さな船ですすむとは想いませんでしたけどね」
「まあ10メートルあるかないかやもんな」
「かたやあちらは……10トンとか20トンとかですか?」
「対策本部のおじさんに聞いたら30トンはあるんやないかってさ」
「なるほど。それがあのまま腐ってたら周りのひとはたまったもんじゃないですね」
「それどころか、これからあったかくなったらもっと悲惨やで」
「悲惨?」
「体のなかのガスが充満して膨れあがって、腸の中から……ドッカ―ン!」
「あー、それは――」
「町の人もそやけど“大将”も望まんやろ」
「ですね」
「だからさ」
「だから?」
「“感謝してる”ってさ。“海に返してくれて”って」
「……だれがですか?」
「うしろの“大将”に決まってんじゃん」
「しゃべれないでしょ?」
「あんな、このお姉さんをなめたらアカンで。“山川草木みんな友だち”――どんな生き物とでもコミュニケーション取れるからこそ、こうやって樫山センセの取材にも協力出来とるワケですよ」
「…………」
「あ、その目は信用しとらんな?」
「信用……してないわけじゃないですけど、ときどき想像のななめ上を行きますからね」
「ま、夜もながいし。センセも“大将”の声をゆっくり聞いたらええわ。――遺言っぽいものも残してくれるかも知れんし」
「……やっぱり、キレイですよね」
「お、やっとセンセにもあたしの美しさが分かって来たようやね」
「海のはなしですよ? あと、宙と」
「照れんでもええって」
「でもほら、ほんと、あそこの青いところと黒いところが重なってるとことか」
「あのちょっと白いところとかな」
「たしかに星も白くて青くて、瞬いたり渦を巻いてたり――」
「あー、ヴィンセントも似たようなこと言っとったよ」
「ヴィンセント?」
「知らない? オランダの絵描きさんでさ」
「オランダ人に知り合いはいませんよ?」
「前に一度ジンとワインおごったったらえらい感激されてさ。お礼にってあたしの似顔絵描いてくれて――“こんな美人には会ったことがない”って」
「はあ」
「ま、あんま似てないんだけどさ、こんど見せたげるよ」
「はあ」
キューイ。
「……いまのは?」
「ああ“大将”が、“私もこんな美人には会ったことがない”ってさ」
「…………」
「あ、やっぱ信用しとらんな?」
「いや、僕らもそろそろひと休みしませんか? さすがに眠くなって――」
「えー、さっき夜は長いって言ったばっかじゃーん。もうちょっと話そうよーー」
「はいはい。おやすみなさい――」
キューイ。
*
So long, so long and thanks
for all the fish.
*
(続く)