その1
*
【2019年7月21日】
ある日の日曜日。
佐倉伊純は、近所の子供たちの笑い声で目を覚ました。
その日の彼女は休日で、もう少し寝ていても良かったのだろうが、それでもそのまま、ぼんやりとした頭のままベッドを脱け出すと、ぼんやりとした頭のまま顔を洗い、ぼんやりとした頭のまま髪を整え、ぼんやりとした頭のまま、洗濯機をまわしてから、ぼんやりとした頭のまま、昨夜の残り物の朝食を済ませた。
そうして、しばらくすると洗濯機が終了のサインを送って来てくれたので彼女は、すこしはっきりとして来た頭で洗面所に向かおうとして、DVDの返却期限が今日までだったことを想い出した。
洗濯ものを干し、服を着替え、軽い化粧をして、マンションを出てから、ちょっとあくびをしようとしたところで、彼女はすこしおどろくことになった。
それというのも、道のところどころに、つたないが懸命な文字によるチョークの落書きが、あちらこちらと、施されていたからである。
そう。それはたとえば、
車のまえには“じようようしや”
電柱よこには“でんしんばしら”
手前のポストに“ゆうびんうけ”
といった具合で、色は多くても赤・青・黄の三色。この道のずっと先まで続いているようであった。
『なるほど、さっきの笑い声はこれか』
そう気付くと彼女は、これらの文字の行き先がレコード店とは反対方向であったにも関わらず、その落書きを追いかけてみることにした。
“かべ”
“こんびに”
“かいだん”
“ばいく”
“ほどうきよう”
“があどれいる”
“こうえん”
“ぶらんこ”
“てつぼう”
“ぶうげんびりあ”
“すべりだい”
と来て、きっと公園を飛び出して行ったのだろう。彼女がもうすこし追いかけたところで、
“ねこ”
と云う、白いチョークの文字が出て来て、この遊びは、不意に、終わったようであった。
*
【2019年7月27日】
また、ある日の土曜日。
佐倉伊純がやっとの想いでその駅にたどり着いたとき、壁の時計は、昼の1時近くになっていた。
彼女を迎えに駅まで来ていた日向康花に対して伊純は、家を出たときにはなにも問題はなかったこと、と言うか西船橋の辺りまではまったくもって電車も間違っていなかったこと、それなのに何故か“ユーカリが丘”とかいう異世界のような駅に送られてしまったこと、そうして、そこから行ったり来たりを繰り返しているうちに、こんな時間になってしまったのだ――という旨の弁解をした。
「なにあそこ、コアラでも住んでんの?」と、彼女は訊き、
「コアラはいないけど、コアラの電車なら走ってるわよ」と、千葉県北西部の住民以外には理解に苦しむであろう説明で康花は応えた。
そのうえで彼女は、前にも二度ほどこの街には来ているじゃないか、と伊純に言った。
すると伊純は伊純で、ちょっと泣きそうな声になると、エキナカのパイがどうとか、雑貨屋の店員がどうとかと言い訳めいたことを言いながら、手にした買い物袋を持ち上げてみせた。
なるほどたしかに。この季節にぴったりのオレンジチーズパイのいいにおいがしてくる。
「どう?」と、いまだ泣きそうな声で伊純が訊き、
「うん。これで乗り間違えたのね」と、康花は笑った。「なんかこう、あんたらしいわ」
しかしながらそれでも、こちらの料理は温めなおしになるし、とっておきのサラダなんかはちょっとしなびた感じになるけどね、と陽気な感じで康花が続け、伊純は伊純で、
「いずれにしろ、お腹ペコペコよ」と、答えるばかりであった。
そうしてふたりは、駅に隣接しているショッピングセンターの駐車場に向かって歩きながら、
「今日はなんでお休みになったの?」と、先ずは康花が訊き、
「休みが出勤になって、その後やっぱりお休みになったの」と、伊純は答えた。
「なによそれ?」
「佳葡さんって人がリンパ節炎だかヌッなんとか腫だかの手術でお休みを取ってたんだけどね――っていうか今日あっついわね」
「最近ずっとこんな感じよ。梅雨明けもまだなのにね」
「そうなの? 7月ももう終わるわよ?」
「仕方ないじゃない。決めるのは私たちじゃないんだからさ」
チリチリン。
と、ここでふたりは、反対側の歩道を全速力ではしっていく郵便局の自転車に一瞬目をうばわれそうになったのだが、直後伊純が、想い出したかのように、
「あ、で、それで――その佳葡さんの手術がなぜか延期になっちゃって」と、続けた。「で、彼女の代打で出勤になってた私の休みが、その後やっぱりお休みになったってわけ」
「はー」
「わかった?」
「わかったけど、わかりにくかった。――ってか、ヌッなんとか腫ってどんな病気?」
と、ここで今度は、
ピピッ。
という音がして、康花のワンボックスの扉が開き伊純は、自分も佳葡さんから話は聞いたけれどよく分からなかったこと、そうして多分、康花ならかかる心配のない病気だろう、と答えた。
*
それから15分ほどがして、彼女たちを乗せたワンボックスは、日向家真下の駐車場へと停まった。
「ほんとはうちの駐車場が使えれば良いんだけどさ」と康花は言うと、丘を削って出来たという住宅地の急坂を慣れた足取りで上っていった。「私の運転じゃ危ないし、この車じゃ小さいしね」
「でも、いい景色じゃない」と、そんな康花の後を上りながら伊純は応えた。「都内じゃこんなの無理よ――もちろん一軒家もね」
*
「違うよ」と、ソファのうえの細い足を組みかえながら康花が言った。「いじったのさ、ほんとは」
「でも、彼女のお母さんにそっくりだって聞いたよ?」と、伊純。彼女は彼女で、グレーの座椅子の上に両ひざを立てた格好で座り、手には二杯目となるハイボールを握っている。「なんとかって子が彼女のお母さんの写真を見せてもらったって言ってた」
「だから、それもそうなんだって」と、両方の手で両方の目をおさえながらの康花。「あの子のお母さんが、自分と同じかたちの鼻と口を、あの子に与えたのさ」
しなびたサラダのせいか少し濃いめのハイボールのせいかは不明だが、彼女たちは、かつての高校時代、同じ部活で同じ時間を共にしたクラスメート特有の、おそらく彼女たちでなければ通用しないであろう、口調と文法と文脈でもって語り合っているようである。
と言うよりも、彼女たちには、単なる同じ部活のクラスメート、という以上の深いつながりがあった。
「それで……結局なんの話だったっけ?」
「シオリのことでしょ? サトウ・シオリ」
「そうそう。麗しきシオリお嬢さまの鼻と口のお話」
「あの子も双子を狙ってたって知ってた?」
「どっちの双子よ」
「私たちとは付き合ってないほうの双子」
そう。
彼女たちは一時期、同じ遺伝子を持つ男性たちと、同じタイミングで恋に落ちていたのである。
康花の方は2006年の夏、彼女の二年生の年に、駒場図書館の3階で、新聞の縮刷版を読んでいた兄のほうに目をうばわれ、自分のほうから声をかけた。
そうして伊純の方は、これと同じ年の、同じ月の、実は同じ日のほぼ同じ時刻に、下北沢のとある中華料理店の片すみで、その彼の双子の弟――とは言っても、12分ほど母親の胎内にいる時間が長かっただけだけれど――と相席することになった。
それというのも、この薄汚れた中華料理店は当時、ある時刻になると、近くのシェルターから名もなき詩人たちの群れが押し寄せて来るために、大変な混雑を極めることになっていたからである。
「でもさ、華麗なるシオリお嬢さまは結局、貧乏な双子の――兄だか弟だかは忘れちゃったけどさ――とのお付き合いはあきらめざるを得なくなってさ、“親の決めたつまらない相手と結婚させられることになったの……”」と、件のお嬢さまの真似をしつつ康花が言い、
「そう言えば短大出てスグぐらいだったっけ? 彼女が結婚したの」と、伊純は応えた。
「そうそう。アンタ、あの子の結婚相手知ってる?」
「写真なら見たわよ、年賀状かなんかで」
「あのお嬢さま、まだクラスメート全員に送ってんのよね」
「ひとさまのダンナ悪く言うつもりはないけどさ、アレはツライわよね」
「ツライどころか、八嶋智人さんを太らせて小汚くした感じじゃない?」
ブッ。
と、飲みかけていたハイボールを吹き出しながらの伊純。「分かる、それ」
そうして彼女は、ひざに乗せていたタオルハンカチで口をぬぐうと、「“怪物くん”に出てたころのでしょ?」と言って、再びハイボールへと戻って行った。
すると、そんな彼女のすがたを見た康花は、「グラス貸して」そう言ってソファを降りると、主人にすり寄るネコのような格好で伊純のグラスに手を伸ばそうとしたのだが、
「まだ残ってるって」と、グラスを避難させようとする伊純にかわされることになった。
「私の分を作って来んのさ」と、さらに手を伸ばしながらの康花。「いっしょに作ったほうが手間が少ないだろ?――このピアスかわいいわね」
「これ?」と、この言葉に、右手の二本の指で、右の耳たぶを指す伊純。「ずっと付けてんじゃん――それこそ瑛さんのさ」
「そだっけ?」そう言って康花は、ほそながい右手で伊純のグラスをそっと盗むと、「じゃ、作って来るね」と言って彼女の耳たぶに軽いキスをした。
「ちょっと!」と、非難めいた口調で伊純が言い、
「分けてもらったのさ」と、投げキッスの形を取りながら康花は応えた。「私には、そういうの残してくれなかったからね」
(続く)
《登場人物紹介》
佐倉伊純:料理人。1989年12月24日生まれの山羊座、A型。
日向康花:主婦。1989年6月3日生まれの双子座、A型。伊純とは中学時代からの友人。