第132話 奥さんと、次は
「はーっ、楽しかったねー!」
「あぁ、めちゃめちゃ満喫したな」
満足げな唯華へと、軽く頷いて返す。
イルカショーの後、俺たちは再び順路に沿って水族館を回った。
色鮮やかな熱帯魚に目を奪われ、深海の不思議な生物に感心し、迫力ある海獣に圧倒され、舞い踊るように泳いでいく魚たちに目を輝かせた、楽しすぎる時間だ。
もちろん、サメもペンギンも見に行った。
水槽の中でも一際大きく見えるサメは圧巻だったし、ヨチヨチ歩くペンギンは可愛くて素早く泳ぐペンギンは格好良い。
イルカショーの他にもアシカのショーも見たし、イワシトルネードなんてのを見せてくれる場所もあった。
そういったステージ系の時間が度々あったこともあって、たっぷり半日は楽しんだだろうか。
「水族館、完全攻略って感じだ」
「えへへ、全部余さず見たもんねっ」
実際、端から端まで全ての水槽を見たと思う。
あえて言うならお土産コーナー的なのは残ってるんだけど、そこは流石に最後の最後だろう。
「さて、と……」
何とは無しに、腕時計へと目を落とす。
朝から来ていたこともあり、まだそこまで遅い時間ってわけでもなかったけど。
「そろそろ帰るか?」
「んー、そうだねー」
俺の問いかけに、唯華は顎に指を当てて考える仕草。
「……あっ」
そんな中、館内の照明と音楽の雰囲気が切り替わった。
「そっか、こっからは夜の部なんだ」
言ってもまだ夕方ってくらいの時間だけど、そういえばパンフレットにそんなことも書かれていたような気がする。
なんでも、『大人のデートに最適』だとか?
こういう雰囲気の中で、唯華と一緒にいられるなら……。
「せっかくだし、もう一周してみよっか?」
唯華のその提案に、別段他意はなかったろう。
「……おけ、そうしようっか」
しかし直前まで考えていたことのせいで、俺の返答は一瞬遅れ気味になってしまったのだった。
♥ ♥ ♥
昼の部の、明るくて元気な雰囲気もとっても楽しかったけど。
ライトもミュージックもゆったり目になって、しっとりとしたこの感じも好きだなぁ。
それに……なんだかこの方が、『大人のデート』って感じがするじゃないっ?
この流れで……なんてなんてっ、おへへへへ。
「……っ!」
良からぬことを考えていたところで、秀くんが手をギュッと握ってくれたから。
思わず、声が出そうになっちゃったよね……いや、変な意味でじゃなくて。
「水槽そのものは変わらないのに、結構印象変わるもんだなー」
「……そうだねー」
昼の時もそうだったけど、秀くんはなんだか平気な風で……ちょっと、ズルいよね。
確かに、手を繋ぐなんて子供の頃には当たり前にやってたことで。
あの頃は、私の方から握ることに何の躊躇もなかったけど。
今は、自分から手を繋ぐのはちょっと尻込みしちゃってさ。
秀くんから繋いでくれると、すっごくドキドキしちゃうのに。
「昼の雰囲気も好きだけど、こっちも好きだな」
「……私も」
同じことを考えてたんだって思うと、とっても嬉しくなっちゃう。
それに……秀くんの口から「好き」って言葉が出てくる度に、心臓が跳ね回る。
そうじゃないってわかってるのに……私のことが、って勝手に脳内変換しちゃうんだもん。
秀くんはきっと、何気なく言ってるだけなんだろうなー。
「おっ、ここに夜の部の説明が書いてくれてるな。ペンギンとかオットセイとかはウトウトし始めちゃうんだってさ。逆に、オオサンショウオとかはむしろ活発になるのかー。どっちも見てみたいけど、どっちから行こうか?」
あぁもう、さっきから変に意識しちゃってあんまり話に集中出来ない……!
せっかく、秀くんが色々と説明してくれてるのに……!
「唯華は、どっちが好き?」
「秀くん」
………………んおっ!?
なんか私、明らかに今ミスらなかった……!?
選択肢をミスったというか、選択肢にないものを選んでしまったというか……!
だって今、「好き」って言ったらそれしか頭になかったんだもん……!
「うん?」
あっ、良かったなんか呼びかけただけって思ってくれるみたい……?
なら……!
「秀くんの、好きな方でいいよ」
よし、どうにかリカバリ出来たはず……!
……出来たよね?
「そっか、じゃあ居眠り組の方から見てみよう。活発組の方は、これからどんどん元気になってくんだろうしさ」
「オッケー」
頷いて、移動を始めながら考える。
そもそも今日は、私が行きたいなって感じを出してたのをきっかけにこうして水族館に来たわけで。
秀くんが付き合ってくれてるんだから、ちゃんと楽しまなきゃだよねっ。
私がそんな風に決意を固めて、オットセイの水槽の前に来たのとほとんど同時。
「最後! 最後にもっかいペンギンさん見てこっ!」
「うん、いいよ! 行こっ!」
イルカショーの時にもいた男の子と女の子が、こっちに向かって駆けてくるのが見えた。
やっぱりお互いの存在に夢中なのか前はあんまり見てないみたいで、私たち……というか、私にぶつかりそうなコース。
「っと」
「っ……!」
何気なく避けようとしたのと同時に、秀くんが私を引き寄せてくれる。
きっと、秀くんにとって何気ない行動だったんだと思う。
だけど私が動こうとしたタイミングと重なったのと、引き寄せてくれた腕が思ったより力強くて。
「わぷっ」
私は、顔面から秀くんの胸元に突っ込むみたいな形になっちゃった。
といっても秀くんが優しく抱きとめてくれから、痛みなんて全然ない。
むしろ、思わぬゼロ距離接触のせいで別の意味で事故りそう……!
「おっと、ごめんね?」
だから、何でもない調子を装って離れようとする……名残惜しさを、どうにか隠しながら。
「唯華」
だけど、その動きが止められた。
全然、無理にって感じじゃなくて。
むしろ、小さく呼びかけられながら肩に手を添えられただけ。
なのに私は、動けなくなっちゃった。
私の名前を小さく口にしただけの声に、なんだか声量とは裏腹な熱量が込められているような気がして。
肩の触れられた部分が、どういうわけか熱くなったように感じられて。
「俺は」
短く言ってから、秀くんは口を閉じた。
それからもう一度口を開いて、今度は何も言わずに閉じられる。
そんな様を、私は何をするでもなく見つめていた。
すぐそこにある瞳に映る私の表情は、呆けたようなちょっぴり間抜け顔。
それを見ているとなぜだかそうしなきゃいけない気がして、とりあえず半開きになっていた唇を閉じた。
それしか出来なかったし、それしかする必要を感じなかった。
そうしていると、私の顔が……それを映す瞳が、どんどん近づいてきて──
♠ ♠ ♠
ほとんど無心に、半ば以上無意識に、前方に向けて顔を傾けていた俺だったけれど。
「………………っ!?」
ふと横合いから視線を感じた気がして眼球を動かすと、二対の瞳と目が合った。
思わぬ事態に、身体が反射的にさっきまでとは別方向に動く。
更に数瞬遅れて、状況を理解した。
俺達が今いるのは、オットセイの水槽の前。
ここには、水槽の二箇所を繋ぐ形で透明の管が通されている。
泳いでいるオットセイの様子を観察するための仕掛けだ。
管の中は、両側から観察出来るようになっているんだけど。
反対側から、俺たちのことを四つの瞳が見つめている形だ。
「……あっ、さっきの」
吐息を漏らすかのような小さな声を、唯華が漏らす。
そう、イルカショーの時とさっきにすれ違った子たちだった。
引き続き、二対の瞳には興味津々って感じの光が宿っている。
オットセイたちがウトウトしていて泳ぎだす様子もない中、彼らが観察しようとしているのは……まぁ、そういうことなんだろう。
「あーっ、っと! オットセイのうたた寝も見れたし、そろそろオオサンショウウオの方に行ってみようか!」
夢から醒めたような気分で恥ずかしさやら気まずさが急激に込み上げてきて、半ば上ずった俺の声量は明らかに必要以上に大きかった。
「そ、そうだねっ。きっと、今ならすっごい活発なんじゃないかなっ」
唯華の方も声が少し掠れ気味で、薄暗い照明の下でも頬は上気して見える。
そうして俺たちは、明らかな空元気と共に足早に水族館の中を進んでいくのだった。
♥ ♥ ♥
うん……うん???
いや……うん……うーん……?
……うん。
極力冷静になるよう心がけて、振り返ってみたんだけどさ。
今の、どう考えてもそういう感じだったよね!?
流石に今回だけは勘違いじゃなくない!?
えっ、つまりは……秀くんも、私のこと……を……!?
いや待て待て、肝心な時こそ今一度冷静に……。
仮に、他の可能性が考えられるとすれば……うーんと……例えば……ほら……。
さっきのは、私の方から触れに行った形にはなるわけで。
私が無意識にそういう雰囲気を出しちゃってから、秀くんは仕方なく受け入れてくれた……とか?
うーん……秀くんはいつも私のこと必要以上に気遣ってくれてるようなとこはあるし、ワンチャンあり得る……のか……?
………………うん、まぁ、仮にそうだとしても。
つまりは、押せばいけるということなのでは?
♠ ♠ ♠
いや、うん、危なかった。
危なかった、というか……唯華さえ受け入れてくれるのなら、あのままの流れでも……いやいや。
なんか今にして思えば、俺が押さえつけてたみたいになっちゃってた気もするし。
仮に……仮に、唯華もそうであってくれたとしても。
いずれにせよ、順番が前後するのは最善とは言えないだろう。
……まぁそもそも、結婚というある意味ゴールから今の俺たちはスタートしてしまっているわけだけど。
俺たちのこの関係は、利害の一致から始まったと言っていい。
その始まりは今更変えられないし、変えたいとも思わない。
今から考えても、ベストな選択だったと思う。
だけど当時の感覚としては、他に選択肢がなかったのも事実で。
だから次に俺たちの関係性が変わる時は……あるいは、俺たちの関係性に何かが加わる時は。
きっといずれにせよ、不可逆なものになるだろうから。
消去法でも、なし崩し的にでもなくて。
それが最高の選択だって、胸を張って選びたくて……選んでもらいたいから。
その時のことも、ちゃんと考えたいと思うんだ。
ここまで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。
「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけましたら、少し下のポイント欄「☆☆☆☆☆」の「★」を増やして評価いただけますと作者のモチベーションが更に向上致します。
コミックス4巻、本日発売です。
https://www.kadokawa.co.jp/product/322502001185/