03:かえりゆく
「秀一!」
あれから俺は度々そこを訪れた。
約束するわけでもないのに何故かあきらはいつもそこにいて、相変わらず絵を書いていた。
初めこそ警戒していたあきらだが、だんだんと俺に心を開いてくれているようで今では隣に座って持参した菓子を食べながらお喋りをするまでになった。
と言ってもあきらはまだ小学生で、俺は一生懸命話すあきらに適度に相槌を打ちながらビールを飲んでいることが多かった。
それでも十分満足している自分がいるから驚きだ。
もし自分に子供がいたらこんな感じなのか、などと考えながら「それはないな」と完全に否定する自分がいた。
彼女はいないんだ。
だから俺には一生子供はいない。
所詮他人の子。
我が子となれば心境も言動も違うはずだ。
経験がないからはっきり断言できないが、それでも違う。
そしてそれは死ぬまで経験することはない。
転生、そんなものありえるのだろうか。
「あきらはどうしてこの場所でいつも絵を書いてるんだ?」
ビールを飲み干しながら、俺はあきらの横顔を見た。
あきらは色白だ。
近所で見掛ける同じ年頃の子と比べても随分白い。
無意識に「由利子とそっくりだ」なんて呟きそうになった時は思わず笑ってしまい、あきらに不審がられた。
「お母さんが嫌いだからだよ」
「嫌い?」
「うん。あきらは大好きだけどお母さんは嫌いだから好きになってほしくて」
自身を名前で呼ぶが母親はきちんと「お母さん」と呼ぶところを見ると、礼儀や作法は厳しいのかもしれないと思う。
しかしまだ子供ということで完全ではない。
現に第一声は「君だれ」だ。
俺の推理はあまり当てにならないようだ。
「秀一は好き?」
ふいの問いに俺はあからさまに動揺してしまった。
好き?
ここは好き嫌いの次元じゃないのは確かだ。
でもただ単純に辛く悲しい場所でなくなったのも確かだった。
安心感、だろうか。
ほんの少しの安らぎは感じる。
あきらに出会ってから変わったのは紛れも無い真実だった。
「今はまだ……嫌いかな」
「どうして?」
子供特有の返答。
気遣いなど一切無い無邪気な疑問。
だからこそ素直に白状できるのか。
目の前の身も心も真っ白な生き物に。
「俺の大好きな人が俺を置いて行った場所だからかな」
本来なら出会うはずがなかった。
あの時俺はこの美しい場所で永遠になるはずだった。
由利子と。
最愛の人と。
あきらは一体何者だ。
何故俺はここにいる。
何故。
俺は一人この世にいる。
「その人は帰ってこないの?」
「そう……だな……帰ってこないかもな」
「ずっと?」
「ああ」
「寂しいね」
寂しい、のか。
由利子を失って俺は寂しいのか。
懺悔にも似た会話。
俺は胸の奥底、それよりもまだ深い誰も知らない場所が貫かれた感覚に陥った。
こんな子供に。
俺は一瞬の殺意を抱いた。
「あきらも大好きな人がいなくなったよ。でもあきらがお母さんを守らないといけないから」
「あきらは女の子だろ、女の子は守られたらいいんだ」
「お母さんも女の子だよ、それに」
「あきら!!」
声。
声が聞こえた。
空気を、心を、体を、頭を、胸を、魂を震わす声が。
「お母さん!」
俺には向けない清々しい笑顔で駆け寄ろうと立ち上がったあきらの腕を掴んだ。
多分そこに理性だとかそんなものはない。
本能。
それは俺にあきらを行かせてはいけないと告げたのだ。
「お母さんだよ。痛いから離して」
「駄目だ」
駄目だ。
この手を離さなければ。
離そうとすればするほど力が入る。
あきらの細い腕など簡単に折れてしまいそうな。
「どうしたのあきら!」
また。
「秀一が手を離してくれない」
ほら。
「秀……一……ですって?」
声が。
「話したでしょ、あきらの友達の秀一だよ」
もう会うはずないと。
「あきら! こっちに来なさい!」
見るはずないと。
「どうしたの? お母さんも秀一も変だよ」
もう。
「早く! 言う通りにしなさい!」
由利子に再会するなどないと。
どれほど願ったか。
どれほど後悔したか。
どれほど望んだか。
どれほど迷ったか。
どれほど。
愛していたか。
「あきら……本当にあの人がお母さんなんだね」
「そうだよ、だから離して」
「無理だよ」
「なんで? 離してよ」
「無理なんだ」
あきらが由利子の子である限り。
そして俺は鍵を音も無く外す。
扉は開く。
全てを大切に壊しながら。
愛しながら。
憎みながら。
零れる水は元には戻らないのだ。
ただ開け放たれた方向へ、巻き込みながら。
そして還る。
あの懐かしい場所へと。
深い場所へと。




