お嬢様スイッチ『あ』は、悪役令嬢の『あ』
「あら、これは何かしら」
ある日の事。貴族の令息であるノーバートは、婚約者のレアと貴族街にある店でデートをしていた。
店内でレアは何か変わったものを見つけたらしく、不思議そうな声を上げた。「どうしたの?」と尋ねながら、ノーバートもレアと同じ方に目を向けた。
この店は主に舶来品を扱っている。店内には、珍しい昆虫の標本だとか、グネグネと曲がった形の時計だとかが置いてあった。
だが、その中でレアが見つけた品は、ある意味で異彩を放っていた。
「これ……空き箱かな?」
ノーバートはその商品を持ち上げてみた。
紙のような材質でできたそれは、直方体をしていた。
天井を向いている面には、丸い形に切り取った厚紙が五枚貼ってある。そこに描かれているのは『あ』『い』『う』『え』『お』――ノーバートたちにとっては見た事もない模様だった。
また、箱の横からは先が意味深に曲がった、ツルツルした素材の筒状の物体が伸びていた。
「それは、遠い国に伝わる、相手の行動や思考を操る事の出来る装置ですよ」
ノーバートたちが商品を手に首を傾げていると、店の奥から店主がやって来た。
「私が仕入れた先の者たちは、確か『お嬢様スイッチ』とか呼んでいましたな」
「あら、店長さん、また変なものを騙されて買わされてしまったんですね」
話を聞くなり、レアは失笑した。ノーバートも笑ってしまう。
この店の店主は人が好く、商人たちの話を鵜呑みにして、呪いの仮面だとか幸運を呼ぶ指輪だとかをたまに仕入れてくる事があるのだ。しかし、それが本物であった試しなど今まで一度もなかった。
「いいえ、今度こそは本物です」
自分が騙されやすい事は自覚しているのか、店主は少々ムキになって反論した。
「何なら試して御覧なさい。箱の横にアンテナとかいう棒がついているでしょう。それをお嬢様に向けながら、模様が書いてあるボタンを左から順番に押していくのです」
「はいはい」
やれやれと思いつつも、半笑いでノーバートはレアに装置を向け、『あ』のボタンを押してみた。レアも貴族出身なのだ。
『悪に目覚めたお嬢様』
すると、驚いた事に天から無機質な男性の声が聞こえてきたではないか。ノーバートは目を見開いた。
「い、今のは……!?」
ノーバートは困惑した。この子どもの工作のような物体が喋り出したのだろうかと思ったのだ。
ノーバートは信じられない気持ちで『お嬢様スイッチ』をまじまじと見つめた。
だが、いつまでも驚愕している事はできなかった。突然、レアが叫び出したのだ。
「大変、ノーバート! わたくし、何だかとっても悪い事がしたくなってきたわ!」
「ええっ!?」
ノーバートは素っ頓狂な声を上げた。
レアは心優しい女性だ。その彼女が、『悪い事がしたくなってきた』なんて発言をする日が来るなんて思ってもいなかった。
だが、ノーバートは、すぐにそれがレアの演技であると結論付けた。
(そうか……きっと騙されたと知ったら店主さんががっかりすると思って、装置が効いた振りをしているんだな)
さすがは心配りのできるレアだ。ノーバートは自分もそのお芝居に付き合う事にした。
「悪い事って何だい?」
「何でもいいわ! でも、どうせなら派手な事をしましょう! ……そうだわ! このお店に火をつけて、黒こげにしてあげるなんてどうかしら?」
レアは、これは良い事を思い付いたとばかりに目をキラキラさせた。
近くに置いてあった店名入りのマッチ箱から中身を取り出し、そこに火をつけ、テーブルにかかっている布に近づける。
「レア!」
ノーバートは飛び上がって驚くと、慌ててテーブルから布を引き抜いて思い切り踏んづけて火を消した。その際、テーブルに置いてあった他の商品が飛び散ったが、今はそんな事を気にしている余裕はない。
「何をしているんだい!?」
「あら、何もかも燃やし尽くそうと思っただけよ」
レアは火が消えた事に不満そうな顔をしながら、何でも無さそうに返事する。演技にしてはやりすぎである。ノーバートは嫌な予感を覚えて店主の方を見た。
「ほら、効果があったでしょう?」
店主は自分の店が燃やされそうになったというのに、至極愉快そうにしていた。
「やっぱり本物は違いますなあ。まあ、ゆっくりお楽しみください」
今まで偽物ばかり掴ませられてきた店主にとっては、本当に不思議な力を持つ品を手に入れられた事は、何よりの喜びであるらしい。レアを止めようともせず、そのまま足取りも軽く店の奥へと引っ込んでいった。
「次は何を燃やそうかしら?」
レアはマッチ片手に楽しそうにしている。そして、「あっ、良いものがあったわ!」とはしゃいだ声を出した。
呆然としていたノーバートはぎょっとなった。彼女が目をつけたのは、『ワクワク! 火薬の詰め合わせ!』と書かれた商品だったのだ。
「だ、駄目だよ、レア!」
何でこんな物騒極まりないものが平然とその辺に置いてあるんだという疑問が浮かんでくる前に、ノーバートはレアに飛びついた。あれに引火したら、下手すればこの店ごと吹き飛んでしまうかもしれない。
「どうして邪魔するの?」
困惑するレアとノーバートは揉み合いになった。ノーバートはまだ『お嬢様スイッチ』を握ったままだ。その内に、彼の指が『い』のボタンに触れてしまう。
『意志が固いお嬢様』
しまったと思ったがもう遅い。天からのアナウンスに呼応するように、レアは「いやよ! わたくし、どうしてもあれに火をつけたいの!」とヒステリックに叫んだ。
(くっ……。どうやったら元に戻るんだ……)
こうなったのも全部『お嬢様スイッチ』のせいである。だとするなら、元に戻す機能も付いているのかもしれないと思い、ノーバートはでたらめにボタンを押してみた。
その指が『う』に触れる。
『穿った見方をするお嬢様』
またしてもアナウンスだ。レアが叫ぶ。
「あなた、わたくしが嫌いなんでしょう!? だからわたくしの楽しみを取り上げようとするのね!」
「違うよ! 僕の一番は君だよ!」
ノーバートも叫び返しながら隣のボタンを押してみた。
『偉そうなお嬢様』
「いいえ、嫌いなんだわ!」
レアは高圧的な態度になる。
「嫌いだからわたくしの邪魔をするのよ! でも、今ならまだ許してあげるわ! 地べたに頭を擦りつけながら謝ったらの話だけどね!」
レアは高笑いを飛ばす。まるで悪鬼のような表情だ。
ノーバートは考えを改めた。この『お嬢様スイッチ』は事態を悪化させこそすれ、決して良くする事などないのだ。
「こんなもの、こうしてやる!」
ノーバートは『お嬢様スイッチ』を床に叩きつけた。しかし、装置は特に壊れた様子はない。ノーバートは戦慄した。
「ただの空き箱のくせになんて丈夫なんだ……!」
ノーバートはやけくそになって箱を踏みつけた。恐るべき事に、その衝撃で最後のボタンが押されてしまう。
『親分になるお嬢様』
最後の力を振り絞ったような、掠れ声のアナウンス。「そうだわ!」とレアは何かをひらめいたようだった。
「一人で悪い事をするよりも、他の方にもわたくしと同じ道を歩ませる方がよっぽど素敵だわ! そうと決まれば早速……」
レアは同志を作るべく、床に転がる『お嬢様スイッチ』を見つめた。
だがそれは、アンテナがもげ、箱もひしゃげていて原型をとどめていない。つまり壊れているのだ。
「君を悪の親玉になんかさせないよ」
肩で息をしながらノーバートは勝利を確信していた。何とか被害者が増える前に元凶を潰す事に成功したのだ。レアを元に戻す方法については、後でゆっくりと考えようと思った。
だが、悠長に構えていられたのはそこまでだった。一瞬膨れっ面になったレアが、たちまちの内に微笑みだしたのだ。
「あら、こんな所にもあったわ!」
レアは棚の下の商品のストックが保管されている場所に、他の『お嬢様スイッチ』が置かれているのを目聡く発見した。
「婚約者のよしみよ! まずはあなたから同胞にしてあげるわ!」
レアはノーバートに向けてボタンを押した。響く、『悪に目覚めたお嬢様』の声。あまりの事にノーバートは立ち尽くしてしまった。だが、彼は慌てはしなかった。
「レア、僕は男だよ。だから『お嬢様スイッチ』なんて効く訳が……」
余裕ぶっていたノーバートだが、体を駆け巡る奇妙な衝動に気が付いて言葉を切った。脳がむずむずするような感覚。悪魔の声を聞いたように、ノーバートは無性に悪い事がしたくなってきた。
実はこの装置は、ただの『お嬢様スイッチ』ではなかった。その名も『お嬢様スイッチ(お坊ちゃまも可)』。『お嬢様スイッチ』のグレードアップバージョンである。
そうとは知らないノーバートは、うっとりと囁く。
「レア……。僕がどうかしていたよ。悪いって最高だ」
「でしょう? さすがはノーバートだわ。よく分かっているのね」
レアは理解者ができて嬉しそうだ。
「さあ、早く子分たちを増やしに行かないと!」
「ええ、いっぱい作りましょうね!」
悪に目覚めたお嬢様とお坊ちゃまは、手を繋いで仲良く店の外に出た。その手には、もちろん『お嬢様スイッチ(お坊ちゃまも可)』が握られている。代金は払っていないが、二人は気にした様子もない。
「そう言えば、今日はどこかで舞踏会が開かれているんじゃなかったっけ?」
「本当? それならこのアンテナをもっと増やして、一度にたくさんの子分を作れるようにしましょうよ!」
二人は楽しげに話す。この一台の悪魔の装置によって、この国の貴族が悪に染まるのは、そう遠くない未来なのかもしれない。
しかし、後に『か行』の『お嬢様スイッチ』が開発され、『改心したお嬢様』の声と共に皆が正気に返る事を、この時の二人はまだ知らなかった。