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昔が懐かしい話

作者: 山葡萄

イソップ物語を思い出していた。小さい頃は小学校の本棚にあったのを読んでいた。懐かしいことだ。あの頃の私は、本を読むのが得意だった。目も良かったし集中力もあって、今じゃ比べ物にならないくらいのエネルギーを本に割いていた。運動も計算もできないことはたくさんあったが、本の世界に入り込むのだけは、今の私とは比べ物にならないぐらいよくできていた。


あれは何のお話だったろうか。狐がでてくる、そう酸っぱいぶどうだ。狐が森で葡萄を食べようとするんだ。でも食べられない。木に登れないからだ。そうして狐は言い出した。あの葡萄は酸っぱいのだって。一口も齧れてないのに言い出す狐のおかしさ。太陽と北風、空まで伸びる豆の木。幼い私は文字を読むと夢中になって、彼らの世界に入り込んだのだ。本の世界は楽しい。頭の中で動く映像が、文章から感じる風の音が、草木の香りが私の体を支配した。楽しくて楽しくて、大人になったら本の世界はもっと素晴らしいものになると信じていた。


あの頃、本の世界は暖かかった。童話の中、マッチ売りの少女が冷たい雪の中で死んでいても、人魚姫が空気の精になっている時も、本の世界は孤独な私を頭からつま先まで包んでくれた。学校がつまらなくても、本がある限り大丈夫、生きていける。いや、大人になったらもっと自由だ。今よりもお互いを理解し合える人に出会えるだろう。そうしたら人生はきっと今より面白くなる。そう思っていた。


もう本は読めない。文字を追っても追えない。利き目の視力が落ちてから、すっかり読むのが苦手になってしまった。いや、これは言い訳だろう。もう、あの頃のようにはいられない。ただただ、その事実が私を打ちのめしていた。私と本の世界を切り分けた衝撃。大人になって分かったことがある。私は上手に生きていけない人間だった。上手に生きていくのに、あの頃の感性は何一つ役に立たない。むしろ不要品の類だった。


社会は孤独な私にとって荒野だった。ごつごつとした石があたり一面を覆い、草木一本生えはしない。普通の人には楽しいところだったが、生まれたときから色々失敗した私は、残念なことにやわらかい野原だとか薫り高い花畑を歩くことはできそうもない。生来の頑固さや人と向き合えない性分で、社会そのものに馴染めない。私は人生にすっかり躓いてしまった。


大学の恩師がさらっとメモに書いて渡した "like a roling stone” というのが私という人間を指し示している。転がり続けて落ち着きがない。本の世界に入れなくなった私が手にしているのはブルーライトが騒がしいパソコンだとかスマートフォンだった。タッチひとつでニュースも読めるし、ゲームで遊べるし、連絡だって簡単に取れる。これ以上ないほど便利だったが、私の時間は幼いときよりずっと乾いてしまったような気がする。しかし、それはこの便利な道具が悪いのではない。これを使いこなせず、使い倒されている私自身が問題だからだ。


紙の本を手に取る。なめらかな感触が指の腹を通して伝わってくる。機械的に印刷された味気ない文字が目にぱちぱち跳ね返りながら網膜を超えようとしている。目が悪くなってからというもの、図書館の書庫にひっそりと納まっている活版印刷の本が懐かしくてたまらない。古本が癖になったのは大学生の時分だった。論文をまとめるのに必要な文献を探していたあの頃。少し焼けたページとインクの揺れにひどく癒されたのだ。チョコレートのような甘い香り漂う本たちは、かすかに文字が滲んでいて、そのほこりっぽさと一緒に役立たずな目にそうっと覆いかぶさり、昔よりもずっとつまらなくなった私の脳みそにじんわりと染み込んできてくれた。


今は本を買うことがあっても読むことが減った。興味や嗜好の変化もあるだろう。けれども最初の数ページを読んで、すぐ読書をやめてしまう。集中できない。そもそも私は読書が好きだったのだろうか。大人というものになってから、自分のことが疑わしい。私がかつて愛した世界は、どこにいってしまったのだろうか。そもそも私は本の世界の何に引き込まれていたんだろうか。


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