離婚届
〝帰る場所はちゃんとあるんだからね〟
俺の帰る場所は愛子さんの所ではなかった。
母さんはいつもどんな時でも俺を迎えてくれた。
反抗期で口をきかなかったときも、仕事で遅くなったときも変わらず…
温かいご飯と味噌汁を作って待っててくれた。
帰りが遅いって分かると、おにぎりにして…
「久しぶりに…母さんのぬか漬けが食べたいな…」
婿に入って三年。おふくろの味が恋しくなる。
愛子さんの生活に合わせようと無理をしていたんだろう。
〝落ち着いた大人の男性〟になろうとして。
「本当に、めっきり家に帰って来ないもんだから。久司が好きだった人参漬けとくから…辛かったらいつでも帰っておいで。」
「うん…ありがとう。母さん…」
今日、愛子さんに渡そう。離婚届を。
大丈夫。今なら渡せる…そして、愛子さんを解放しよう。
✽✽✽
「お待たせいたしました。久司さん。」
葬儀が終わって、夜。愛子さんと二人で話す最後の晩だ。
愛子さんは俺と目すら合わせない。
「…いえ、こちらこそお時間を取らせてしまい申し訳ありません。会長が亡くなったばかりで申し訳ありませんが、今後の事がありますので。」
「おっしゃる通りです。お一人で手続き等して頂きありがとうございます。」
愛子さんは〝お父様〟が亡くなったばかりなのに泣きもしない。
「まず、会社の事ですが、会長の遺言書に私の次は結仁が継ぐよう記載されておりますので、この書面があれば、間違いなく結仁が次期社長となります。」
「はい。」
決定事項を伝える。
「結仁の次は愛子さんと結仁とで話し合って決めてください。私は婿養子で意見する立場にありません。会長の血を引く愛子さんと会長の意志を継ぐ結仁とで決めた方が良いでしょう。」
俺は…少し夢を見させてもらった流し者だ。
「あと、こちらを…」
意を決して離婚届を差し出す。
もう、愛子さんは〝お父様〟にも、俺にも縛られなくてもいい。
「こ、これは?」
目の前に出した離婚届に愛子さんは驚いたようだ。
「…もう、会長は亡くなりました。つまり、愛子さんは自由です。」
もう自分の意見を主張していい。
「愛子さんは…自由です。もう、何にも縛られなくて…いいんですよ。」
制約を受けることなく、笑って欲しい。
「こんなおじさんと無理して、夫婦ごっこをしなくても…いいんです。」
俺に甘い夢を見させてくれた。…幸せだった。
「私の欄は記入しておりますので、愛子さんがお手隙の時にご記入下さい。私からは以上です。…不明点や何かありましたら、キヨさんでも通して下さい。」
もう散々泣いたのに、まだ涙が出そうになり、慌てて話を纏める。最後くらい、愛子さんの理想の男になろう。
「では…お世話になりました。お元気でお過ごし下さい。…お嬢様。」
お別れだ。
席を立ち、扉まで向かう。
全神経を背中に持っていく。
…俺は愚かだ。
最後とか、これで終わりとか、何度も自分に言い聞かせたのに…
もしかしたら引き止めてくれるかもと、やっぱり期待して、
―――全神経を背中に集中させている。