帰る場所
会長はもういよいよ長くない。山場だろう。
ハンバーグを作ってもらって以来俺達は元の挨拶だけの生活に戻った。
あのとき、俺が食事を提案しなかったらこんなことにはならなかった。
今更後悔したところで、後の祭りだ。
俺はいつも、自分が分からない所で愛子さんを苦しめる。
それは、愛子さんを分かっていない証拠だ。それは夫として決定的に必要なものが足りない。
…それでもこの結婚生活が改善しないかと考える俺は、愛子さんにへばりつく蛇のようだ。
……
もう…いいじゃないか。
初めて愛子さんを見て一目惚れして、結婚した。
充分、幸せだった。
それでいいじゃないか。これ以上望むのは、強欲だ。
愛子さんに…笑っていて欲しい。
愛子さんの笑顔が見たい。
愛子さんを笑顔にすることを俺は、出来なかった。
不甲斐なさと、後悔と…
愛子さんを笑顔にすることの出来る男は他に…いる。
愛子さんは若いんだし、その、これから出会うであろう男に嫉妬しても仕方ない。
〝お父様〟がいなくなった愛子さんを無理やり拘束するのは、もはや監禁に近い。
嫌われると思うとどうしても悲しい。そんな未来を作りたくない。
こんなにも、胸が苦しいのは今だけだ。
思い出があるじゃないか。
結婚しないと出来なかった思い出が。
だから、もう…
(愛子さんを、解放してあげないと…)
俺は意気地がない。
離婚届に記入しようとペンを持ったままもう30分が過ぎた。
(これを書いたら本当に終わる…)
解放しようと決めたのに、俺は女々しい。
〝久司さん〟
初めて名前を呼ばれた日を思い出す。
「…う…ぅ…」
止まらない涙を思いきり流す。
〝落ち着いた大人の男性だと〟…それが、愛子さんの好きな人。
こんなに陰でメソメソ泣く様な男は幻滅だ。
泥沼で、愛子さんから嫌われて終わる様な事はしたくない。
ボロが出る前に離れよう。せめて、いい人だったとか、そう思われて別れたい。
…だから、お願いします。…今だけ、誰も見ていないので、
泣かせて下さい…
✽✽✽
会長が亡くなって火葬場までやってきた。
俺と愛子さんと結仁と、俺の両親と弟と妹。
「久司、愛子さんは?」
火葬場の控室から姿を消した愛子さんを母が尋ねる。
そういえば忽然といなくなった。
「探して来るよ。」
そう言って立ち上がろうとして、ふと、立ち止まる。
(…俺といるのが嫌なのかな。)
ジクジクとした感情に支配される。
「私が探して参ります。どうぞ、旦那様はそのままで。」
一瞬立ち止まった俺より先に結仁が探しに行く。
(俺が行くより、結仁に来てもらった方が愛子さんもいいだろう。)
あぁ、いよいよタイムリミットが近づく。
「兄さん!あのガキ、誰!?何者なんだよ!」
弟が強い口調で俺に聞く。
結仁が養子に来て半年。俺の家族は納得していない。
「だから、養子だって。」
「なんでまた養子を!?お義姉さんは23歳でしょうよ!子供は出来ないの!?」
妹が尋ねる。
「そう。」
俺と愛子さんには子供は出来ない。そもそも会話すらない。
「久司…身体がどこか悪いの?痩せたみたいだし…」
母が心配する。
(孫が出来ないのは俺の身体が問題だと思われているのか。)
「どこも悪くない。至って健康。」
「じゃあ、愛子さん?愛子さんが原因なの?」
「違うよ。」
俺の…不甲斐なさだ。
「だって久司が悪く無くて子供が出来ないって。原因は愛子さんってことでしょう。病院には行ったの?検査は?愛子さんは元々ひとりっ子だしもしかしたら…」
〝愛子を責めないでくれ〟…会長と約束したのに。俺の家族が愛子さんを責める。
「違うって言ってるだろ!」
泣きたい。俺のせいで俺の家族が愛子さんを責めてる。
「…久司…。何かあったの?」
母が続ける。
「何も無いよ。」
そう何もなかった。俺と愛子さんの間に縁なんかなかったんだ。
「久司…もしも久司に何かあっても、お母さんは久司の味方だからね?」
「?」
「ごめんね、お母さんつい言いすぎちゃって。あんまり久司が辛そうだったからつい…」
「母さんが謝るなんて珍しい。」
「…久司、辛い事があったら帰って来なさい。お母さん達は久司の家族でしょう。だから、頼っていいんだからね?」
「…。」
「久司の帰る場所はちゃんとあるんだからね。」