名前
消えたのは壁ではなく、塔全体だった。
俺と女性だけが両手を繋いで宙に浮いている。いや、浮いていたのはほんの一瞬で、もう落下が始まっている。何年か前のアニメ映画で、こうして手を繋いで落下するシーンがあったことを思い出す。あの映画にも竜が出てきていたような。
海面までおよそ100メートル。水面までの時間は5秒もないだろう。しかし、こうして思考を進められているのはなぜか。
落下する速さが遅くなっている? 空気抵抗をほとんど感じなかった。
まっすぐ前を向くと、彼女の後ろからシリウスが迫っているのが見えた。食われる、と思ってしまったことは後で謝らなくてはいけない。
シリウスは俺たちを羽毛で覆われた背中で受け止める。爬虫類よりは鳥類に近いらしい。
「……助かった?」
「そうみたいです。とりあえずは生きてるみたいです」
もう一度は死んでるけど。
シリウスの背の羽毛は他の箇所に比べて薄く、普段からここに人が乗っているようだ。翼や頭にはもっと多く、大きい羽が散りばめられている。
こんなにも巨大な生物が存在するとは……。
「未確認生物の観察もいいけどさ、自己紹介でもしとこうか。何ヶ月か前にもしたような気がするけど」
そういえば、この女性の名前をまだ知らない。俺自身名前を思い出せないように、彼女も覚えていないだろうと思い、聞かなかった。
やはり俺の思った通りで、彼女は名前を思い出せないでいた。
「まぁ、とりあえず、名前を思い出せるまでは好きなように呼んでよ」と言うと、脳内にしゃがれ声が響いた。
“お前の名前はハヤカワ・サキネ、だ”
「……そうだ。なんで忘れてたんだろう。私、咲音。そう、咲音だ」と彼女は儚げな表情で遠くを見て呟いた。その数秒後、表情は一転し、驚きに変わる。
「って、今のシリウス!?」
「俺たちの言ってることが分かるのか?」と俺も尋ねてみる。聞きたいことは山程ある。
“私に名前はない。お前たちの言っていることは分かる。男、お前はミブ・カオルだ”
その名前を聞いたとき、なぜだか懐かしい気がした。
そうだ。確かに俺は壬生馨だ。これまで何千回何万回とその名前を呼ばれ、書き留め、自ら発してきたはずなのに、なぜだか懐かしく感じた。
「そっか、馨君ね。よろしく」と、早川咲音は右手を差し出してきた。美しく、白く、細い指だった。爪には赤いマニキュアを塗っていた痕跡が見える。剥がれかけているが……。
「よろしく、咲音さん」
俺も特筆すべきことがない右手を差し出し握手を交わした。
「ていうか年いくつ? 高校生とか?」
「17です。咲音さんは?」
「23。24になっている可能性もある」
「なんですかそれ」と俺が問うと、彼女はぼんやりとした顔で答える。
「私の誕生日、1月1日なの。私が死んだのはクリスマスだったから、この世界でも年を取るならもう24歳ってこと」と、1という数字が出るたびに人差し指を強調し、最後にはくるくると回してみせた。
「それと、別に敬語じゃなくてもいいよ。あんまり年も変わらないしさ」
後半の文には疑問が浮かぶが、その気遣いは嬉しかった。
「で、どこに向かってるわけ?」と彼女は呟いた。黒竜は旋回し西へ向かっているように思えた。帆船が来たのも西からだし、そっちに大陸や島があるのかもしれない。
“西の大陸だ。あと5分程で着く。港町に落とす。落下速度は調節するから案ずるな。黄色い屋根の家に住む黒いフードの男に助けを求めろ。そいつはお前たちの味方となるだろう。こうして会話をできる時間も少ない。この世界のことはそいつから聞け”
「黄色い屋根の黒フードね。オッケー。助けてくれてありがと。お礼にあなたに名前をあげる。シリウスよ。この世界ではどうだかわからないけれど、私が知る限りで最も明るい星の名前」
“……名前は必要ないのだがな。しかし貰っておこう”
名付け親の権利を咲音に取られたのは悔しいが、まあ、いい。シリウスはそれ以降返事はせず、脳内への言葉もなかった。
西の大陸が見えた頃にはもう暗くなっていた。港町の明かりが何よりも嬉しかった。
咲音の目に涙が見えた気がしたが、彼女が港町を見て笑う頃にはもうその涙も消えていた。
シリウスのおかげで名前を思い出せて安心していた。
しかし、まだ何か忘れていることがある気がした。
一瞬前の咲音の仕草を見てそう思ったが、シリウスから振り落とされた頃にはそんな感情は消えていた。
あ、謝るの忘れてた。
違う。