個人的立川談志論
立川談志という人は、現代の社会から見ると異端児という事になるだろう。多くの人は立川談志の才能は認めるかも知れないが、彼を遠ざける。明石家さんまの方が大衆に都合が良く、有吉の毒舌の方が痛快だろう。人は自分の認識によって物を見るが、そうなると、立川談志という人物は人々の認識からはみ出る。
談志は、自分が疑問に思っていた事が落語によって答えが出た、と言っていた。それを僕なりに理解すると、次のようになる。
この世界というのは基本的に不合理なものである。非合理と言ってもよいが、様々な混沌、未知、狂気というものが渦巻いている。だが、人間は理性を持ってこの世界に働きかけるのであり、それによって秩序的な世界ができあがる。
人が、倫理として、正論という形で言っているのは、これらの秩序的な世界の「要請」である。「こんな事はあってはならない」とは、世界は我々の認識に収まるもの、我々のコントロール可能なものでなければならない、と言っているのだ。彼らは現実を極限する。世の中に非合理なニュース、嫌なニュース、怖ろしい、ネガティブなニュースばかり氾濫するのはそれが事実として起こっているからではなく、我々がそれを起こってはならない、と現実を枠にはめて(はめようとして)いるからである。だから、枠からはみ出た現実がクローズアップされる。
この枠組みは年々狭まっているし、それが息苦しさを生んでいるのだろうが、今は関係ないので置いておく。
この枠組みによって人は物を認識する。そして、この枠組みに自分がいると感じる事によって安堵する。常識人、健全な人というのは、認識が正にこの枠組みとぴったり一致している為に、これを問う事ができない。彼らに、この枠組みの話をしても無駄だ。彼らはこの枠組みによって認識し、それを生き、それによって安堵しているのだから。
談志が疑問を持ったというのは、こういう「枠組み」に対してであろう。談志が苛ついて、毒舌を吐くのもこの枠組みに対してだろう。談志はこの枠組みに対する答えとして「落語」があると、どこかで直感したのではないかと思う。それは、ユーモアであり、笑いが倫理の外側に現れるというもので、滑稽さというもの、人はどこかで「笑わざるを得ない」地点に到達する。その妙味を談志は「落語」に発見したのではないかと思う。
例えば、安倍政権を支持するか、支持しないか、というのは二者択一的な判断である。人と話すと、常にこれらの判断こそが大切であるという表情に接するので、自分としては適当に茶化したりするわけだが、ここには滑稽さや笑いは現れてこない。安倍政権を支持するにしろ、支持しないにしろ、そこには真面目なものがある。だが、政治というものそれ自体に限界、人間には限界というのがあり、安倍政権が完璧な政権であったとしても、あるいは安倍政権に代わる政権が素晴らしい政治権力だとしても、それでも、そこに政治そのものの限界があり、人間にも限界があって、結局、人は滑稽で悲惨な存在、馬鹿馬鹿しい事には代わりがない、と認識すると、人は笑うしかない。
文学の話をすると、シェイクスピアにも、ドストエフスキーにも、セルバンテスにも、滑稽さというか、どこか「人間こんなもんだよ」という諦念と自嘲がある。シェイクスピア作品の巨大さは、人間存在を俯瞰で見下ろす作者の精神の大きさによっているが、シェイクスピアは「人間はこんなもんだよ」と半ば呆れると共に、そういう存在を愛おしく思っているように感じられる。人間の生活には、合理性や秩序で押していっても、ある限界というのがあって、その限界を越えた時、人は「笑う」しかない。
今のお笑い芸人の笑いは、今の大衆の反映であるから、そのような笑いではない。笑いを、生活を飾るものとして感じている。ある種の事柄に関しては、不可侵的なものがあると人々は感じており、また苛立っていて、笑いにそれを汚す事は認めない。笑いは、あくまでも「人々の為」でなければならないと信じており、自分にも一票投じる権利があると人は考える。そこで、笑いは自分達を笑わせてくれる為にあると考える。
僕はいつも「人々」というものの傲慢さを感じるのだが、これは僕という人間の傲慢さが指摘されるという結論に終わる。人々には人々は見えないから、見えるのはそれに「逆らう」人間である。「お前は自分勝手だ」とよく言う人というのは、大抵、本人が自分勝手なのだが、本人だけにはどうしてもその自分勝手は見えない。本人は、正しい事をしているつもりでいる。これと同じ様に、人々は自分達の存在が見えないから、絶えず、自分達を賑わし、喜ばせてくれるものを欲し、それに称賛を送る。そうなると、有吉の毒舌は痛快だが、談志の毒舌は居心地が悪いという事になるだろう。談志の毒舌は、我々の核心に触れているから。
立川談志が「落語」によって見つけた答えとは、人間の不合理さ、この世の無秩序さ、混沌に対しては、「笑う」という消極的な答えしかない事であると思う。この時、談志が笑いたがっているもの、滑稽とみなしているのは、立川談志という人間を含んだ全ての人間であって、それらの人間が滑稽で、不合理で、こんなもんだ、と言っている。人はこの笑いには耐えられない。人は自分を違う場所に移そうとする。人は、自分達を笑いたがってはいない。彼らは、自分達とは違うものを笑おうとする。それによって、自分達の正気という名の狂気を保とうとする。
立川談志の笑いには不穏なものが含まれていて、それを多くの人は本能的に避けるか、敬して遠ざける、という風になる。しかし、そこに不穏なものが含まれているのは、彼が反逆的だからではなく、反逆的という衣装を纏いながら真実に触れているからである。人は真実など欲せず、幻想を、陶酔を求める。ユーチューバーから異世界小説まで、全ては陶酔であって、人は陶酔に半時間、もう半時間を正論を吐き、後は人生を忘れるか、忘れたがる。
談志がこの世界を不合理と見る事と、それが笑いと滑稽に結びつくのは繋がっている。この紐帯が忘れ去られ、笑いはただ、僕たちの日常の隙間を埋めるものとなりつつある。談志は現在から見れば異端児であろうが、談志の場所から見れば、我々の方が異常なのだと思う。しかし、それは僕らには理解できない。談志の言っている事すら「正論だ」と言われる。「正論」とは正しい論と書くから、結局、「正しさ」という論理を信じるという論理はどこまでも続く。談志のユーモアはその正否の上を行こうとしているように見える。この事は、現在においても語り得ないものとしてどこかに安置されたままになるのだろうか?