小説を「書こう!書こう!」と思えば思うほど書けなくなっていくあの現象
小説を「書こう!書こう!」と思うと、書けなくなってしまう。気負えば気負うほど、何も書けなくなっていく。特に、「いい作品を書いてやろう!」「史上最高傑作を生み出すんだ!」「もっと!もっとだ!もっと質を高めなければ」なんて思った日には、途端に筆がパタリと止まる。パソコンのキーボードを叩く指が全く動かなくなってしまう。
それとは逆に、「もういいか。小説なんて、適当でいいか…」「ああ~!もう、やめだやめ!小説なんて書くのに疲れた!」などと気をゆるめたり、途中で放り投げてしまってベッドに寝転がったり散歩に出かけたりした時に限って、突然素晴らしいアイデアが天から降ってくる!
あの現象。なんと名づければよいのだろうか?
名前はなくとも、こんな経験、誰しも1度や2度は味わったことがあるだろう。いや、数え切れないほどだろうか?
かといって、本当に放り投げしまうと、それはそれで書けなくなってしまう。
小説を書くという行為そのものを心の底からあきらめて、小説について何も考えず、全く関わらず、頭の隅からも追い出してしまう。そんな時には、もう酷い目に遭う。
絶不調!極大スランプ!何週間どころかヘタをすると何ヶ月もの間、1行も進まなくなってしまう。そうして、日々の雑務に追われ、仕事やら遊びやらの中に埋没し、無為に時間ばかりを過ごしてしまう。
気がつけば、もう年末。
「ああ、今年も何もできなかったな。大したコトはできなかった。ただ時間ばかりが過ぎていってしまった。また1つ年を重ねただけだ」
などという目も当てられないほどの惨状と化してしまう。
*
剣の達人は、ゆらりと構えるという。
全身の力を抜きながら、それでも戦うことはあきらめない。心の底の底では燃えるような闘志を持ちつつも、表面上はそれをおくびにも出したりはしない。
それは、剣だけではなく拳法の達人でも同じだろう。あるいは、一流の書道家や将棋や囲碁の棋士であっても、そうかもしれない。
ならば、小説もまた同じようにあるべきではないのだろうか?
「いい小説を書こう!」「もっとレベルの高い作品を!」「常に質を上げ続けなければ!」
心の底にそういう思いを抱え込んでいるのはいい。むしろ、そうあるべきだ。だが、あまりにもその思いが前面に出すぎると、逆効果となる。
そうではなく、表面上はゆらりと構える。表層心理ではもっと適当でいい。
「小説なんてものは、そんなに大したものではない」「適当でいい。適当に思いついたコトを書きとめていけばいい」「気軽でいいんだよ。気軽で」
そのような態度でのぞむ。
これができた時、人は最初の瞬間を思い出す。一番最初に小説を書こうと思い立った時を。
アレはいつだっただろうか?子供の頃?まだ小学生か、あるいは幼稚園に通っていた頃だっただろうか?もっと遅いかもしれない。中学か高校か、20歳を過ぎてから?
それは人によって違う。人それぞれ。
いずれにしても、一番最初に「小説を書こう!」と思い、実際にそれを行動に移した瞬間だ。
その時は、どうだっただろう?
きっと、気持ちよかったんじゃないだろうか?楽しかったのでは?心の底から純粋に楽しめたのでは?
人の評価だとか、アクセス数だとか、ポイントだとか、そういうのは一切関係なしに、ただ単純に小説を書くということが楽しかったのでは?
では、なぜ、その気持ちを忘れてしまったのだろうか?
様々なしがらみがあったから?読んだ人にいろいろ言われたから?
「お前の小説はツマンナイんだよ!」
「才能ねぇよ!さっさとあきらめちまえ!」
「ゴミだな、こりゃ」
そんな言葉の数々が、君を傷つけたからだろうか?
あるいは、自分自身で傷つけた?自らの能力のなさを自覚し、自然と書くのが苦痛になっていき、ついには何も書けなくなってしまった?
いいや、この際、理由なんてどうでもいい。思い出しさえすれば、それだけで。
*
さあ、書こう!
筆を取ろう!
キーボードの前に座ろう!
思い出したならば、それでいい。
おおげさな気持ちで構える必要なんてない。
ゆらりと構え、気軽な気持ちで打ち込めばいい。
そうすれば、きっと戻れるはず。小説は答えてくれるはず。
一番最初に純粋な気持ちで小説を書いていたあの頃のように。