第1菓 赤と青
「道とは、生きること――人生そのものである。道と名の付くものは凡そ、其の人間の人となりを赤裸々に映し出す。武道然り、茶華道然り――そして、《菓子道》も亦た、生きることと同義である。」
――彩鳴館館長・功刀鉄山
***
葵咲良の疲労はすでに頂点に達していた。
「なんで……私が、こんな……」
登山を開始してからかれこれ三十分以上が経つ。が、一向に目的地に着く気配はない。
咲良の目の前には、これまで登ってきたのとなんら変わり映えしない無常なる石階段が延々と続いていた。
「大体、山の中に学校なんて作る方がどうかしてるのよ……。平地に作りなさいよね、平地に。創設者の神経を疑わざるを得ないわ」
頂点に達していたのは疲労だけでなく、イライラもまた限界だった。
咲良は大きくため息をつくと、とうとう足元の石段に腰を下ろした。見上げれば、若葉の芽吹いた深緑色の木々が、水色の春空を背景にしてさわさわと揺らめいている。
「本当に……なんで私がこんな所に来なくちゃならないのかしら……」
葵咲良は、京都の和菓子屋の娘だった。
葵屋洗心堂。
言わずと知れた、京都を、いや、日本を代表する京菓子の老舗である。
咲良は、現当主・葵一心のたった一人の孫娘であり、葵屋洗心堂の跡取りだった。幼いころから祖父をはじめとする一流の和菓子職人の背中を見て育った咲良は、十歳を迎えるころにはすでに調理場に立ち、和菓子作りの才能を開花させ始めた。
血は争えない。
当主の孫娘が持つ底知れぬ才能に、職人たちは感嘆の声を漏らした。その才覚は、咲良の父である次期当主・葵徹をも凌ぐとも囁かれた。
咲良の前途は洋々であるかに思われた。
――つまらんな。
実に。
実に退屈そうに言い放った祖父の言葉が、咲良の脳裏をよぎった。
葵一心は、咲良に試練を与えた。
学校法人・彩鳴館。
政府によるCOOL‐JAPAN計画の一環として創設された、和菓子職人養成のための専門学校である。丸ごと山ひとつが範囲の膨大な敷地に、校舎・学寮・茶室・菜園などあらゆる設備が集結している。全国でも屈指の腕のいい職人たちが講師として迎えられており、日本中の和菓子屋の子弟が修行のために入学するが、卒業できるのはそのうちの約五パーセントともいわれる。ほとんどの生徒が数年の在籍ののち卒業資格を得ずに中途退学するのである。とはいえ、彩鳴館で修業したことがすでにその職人の肩書となり、まして卒業生ともなれば和菓子界の気鋭の新星として一躍注目を集めることになる。
一心は、咲良をその彩鳴館に入学させたのである。
だが、咲良にとって、それは屈辱でしかなかった。
和菓子職人の養成学校などより、洗心堂の調理場で学べることの方がはるかに多いと咲良は確信していた。そうして技術を磨き、研鑽を重ね、誰もが認める葵屋の当主になることを信じて疑わなかった。
祖父は、それを許さなかった。
咲良にとって初めての挫折だった。
「いけないわ……思考がどんどん悪い方へと流れてく」
咲良は邪念を振り払うかのようにブンブンと頭を左右に振り、勢いよく立ち上がった。
「そう……これは試練なのよ。おじい様が私に課した試練。これを乗り越えた時、きっと私はより完璧な和菓子職人になれる」
これまで積み上げてきたものに裏打ちされた強固な自尊心。それだけが今の彼女を支えていた。
そして、それだけで十分だった。
「……よし!」
咲良は意を決して一歩を踏み出した。
その時。
階段の上の方から、石ころほどの大きさの白い塊が転がってきた。咲良は、反射的にそれを受け止め、拾い上げる。
「……おにぎり?」
「うおおおおおっ! 危ねえ危ねえ危ねええぇぇッ!」
やや遅れて降ってきた声の方向に目を向けた時には、すでに手遅れだった。
声の主は勢いよく階段を転がり落ちてきて、そのまま咲良に激突した。二人はもつれ合いながらさらに転がっていき、数メートルほど落下したところでようやく止まった。
「いたたたた……」
涙目になりながら、咲良は後頭部にできたコブをさする。
「わ、悪い! 大丈夫か!?」
そう言って手を差し伸べてきたのは、咲良と同じくらいの年ごろの少年だった。制服を着ているところを見るに、彩鳴館の新入生、もしくは在校生だろう。咲良は少年の手を掴んで立ち上がると、目尻に浮かんだ雫を拭って少年を睨みつけた。
「もう……いったいなんなの!? おにぎりが転がってきたかと思ったら、いきなり人が降ってくるって……全然笑えないわよ! 本当、どういうつもり!?」
「や、その……あまりに校舎が遠いんで途中で休んで飯でも食おうと思ったらさ、手が滑って落としちまって。転がってくおにぎりを追っかけてるうちに、自分まで止まらなくなっちまって……へへ」
少年は照れくさそうに頭を掻く。その仕草が、咲良の苛立ちをさらに増加させた。
「そういうことを言ってるんじゃないわよ! 私が怪我でもしたらどうするつもりだったのって訊いてるの!」
「あ、怪我……とかしてないか? だ、大丈夫か?」
「怪我してたらこんなもんじゃ済まさないわよ! ……まったく、腕の骨なんか折れてたら日本の損失なんだからね!」
「……日本の損失? なんだそれ?」少年は不思議そうに首を傾げる。
「葵屋洗心堂! あなただって彩鳴館に来てるなら知ってるでしょう? 私はそこの跡取り娘なのよ。私が和菓子を作れなくなったら、葵屋の伝統が途絶えちゃうのよ?」
咲良はフンと鼻を鳴らしてふんぞり返った。だが、少年は相変わらず首を傾げたままだ。
「葵屋……せん、しん堂? ってなんだ?」
「え?」
「や、悪い。俺、あんまり和菓子の世界のこと詳しくなくってさ……えっと、その葵屋ってのは有名な店かなんかか?」
「あなた……葵屋を知らないの……?」
軽い眩暈に襲われ、思わずよろける。葵屋洗心堂を知らない人間がこの業界にいることが、にわかには信じられなかった。
「葵屋も知らないで、あなた、どうして彩鳴館に入ろうと思ったの?」
「? どういうことだ?」
「和菓子のことなんにも知らないのに、なんで和菓子の専門学校に入ろうと思ったのかって訊いてるのよ……」
「なんでって、そりゃ、和菓子職人になりたいからに決まってるだろ?」
当たり前のこと訊くなよ、とでも言いたげな表情で少年が言う。その態度に、咲良は怒りを通り越して脱力してしまう。
こんなド素人がいるような場所で自分はなにを学べばいいというのか。
暗澹たるもやが、咲良の心を締め付けるように覆い尽くしていく。
「あ、俺、朱月風雅っていうんだ。あんたも新入生だよな? 名前教えてくれよ」
「……葵咲良」
「葵……葵か! はは、奇遇。俺は赤で、あんたは青か。赤と青。俺たち、けっこう気が合ったりするかもな!」
「……気が合う?」
風雅の言葉に、咲良がぴくりと反応する。
「ふざけないで」
「……葵?」
「あなたみたいなド素人と一緒にしないで! いい? 私とあなたじゃ背負ってるものの重みが全然違うの! 生半可な気持ちで遊びにきた部外者が、知ったような口きかないで!」
「は、はあ? なんだよそれ……別に俺だって遊びにきたわけじゃ――」
「とにかく! 私は葵屋の跡取りで、これからの和菓子界を背負って立つ存在なの! 学校で机並べて和菓子のお勉強するあなたたちとは違うんだから! 気が合うなんて気安く言わないで!」
「……じゃあ、なんでお前は彩鳴館に来てるんだよ?」
「!」
不満そうに口を尖らせた風雅が発した疑問に、咲良は息を飲む。
――お前の作る菓子は、実につまらん。
祖父の言葉が咲良の耳元で響く。
「……あ、あなたなんかに話す義理はないわ」
精一杯平静を装って、咲良はその場を立ち去ろうとした。
「おい、葵」
「……なに?」
「そのおにぎり、どうすんだ?」
その言葉で、咲良は自分が今までずっと風雅のおにぎりを握りしめていたことに気付いた。一気に耳が熱くなり、顔が赤く染まっていくのがわかる。
「か、返すわよ!」
咲良は放るようにおにぎりを風雅につき返すと、速足で階段を登っていった。急がないと、入学式に遅刻してしまう。本当に、無駄なことに時間を費やしてしまった。
「うわ……けっこう砂ついてるな。まだ食えるか? これ」
ちらりと後ろに目をやると、風雅が懸命におにぎりの表面についた砂を取り除こうとしていた。
野蛮人め。
咲良は内心でそう毒づきながら、来るべき学園生活の憂鬱さを思って肩を落とした。
***
「菓子道とは!」
重厚ながらも日本刀のような鋭さをもったその声に、会場の空気が一気に張りつめる。
「――ただひたすらに孤高の道である!」
美波峻も、その男の放つ威圧感に唾を飲んだ一人だった。
壇上に立ちこの場を支配するその男こそが、彩鳴館館長・功刀鉄山その人であった。
「われら人間の命の営みの中で、菓子などは本来必要ないもの――いわば、嗜好品である。では、いったい何の為に菓子などというものは生み出されたのか。菓子によって、われわれは何を得ることができるのか。その答えは、精神にある!」
峻はただひたすら功刀館長の言葉に耳を傾けていた。
「こころ――精神の獲得こそ、われわれ人類が人類たる所以である。菓子とは、空虚な心を満たし精神性を高める為にある。己の人間性を極限まで窮め、尚も突き進んだその先にこそ、菓子の神髄を手にすることができよう。それは、過酷なまでに孤高であり、孤独な道のりである」
功刀館長の言葉に、その場にいる多くの生徒が顔を引き攣らせていた。明らかにドン引きである。想像以上に重い入学の祝辞に、完全に尻込みしてしまっている。
だが、峻はそうではなかった。
峻は、功刀館長の言葉に強い説得力を感じた。他人に、そしてそれ以上に自分に厳しいであろう館長の姿に、求道者としての理想形を見た。
『道』という概念は、いたく峻の肌に合った。
「辛い事もあろう。苦しいことも、悔しいこともあるに違いない。だが、願わくば、諸君ら若人には迷い、もがきながらもひたすらに歩んでいってほしい。この、長く険しい菓子道を」
そして、会場に静寂が訪れた。
「……以上で挨拶を終える」
峻が手を叩くよりも早く、パチパチと拍手を送った生徒がいた。そのことに若干の悔しさを覚えつつ、負けじと峻も後に続く。ひとり、またひとりと後に続き、やがて会場全体が大きな拍手の渦に包まれた。
演説の途中は気圧されていた生徒たちも、今や高揚した様子で熱心に手を叩いている。会場全体が異様な熱気に包まれていた。
「静粛に! 静粛に!」
館長に代わって壇上に上ったのは、見たところ四十代くらいの壮年の男性教師だった。
男性教師は全体が静まるのを待ち、やがて咳払いと共にマイクを手に取った。
「学頭の伊吹です。早速ですが、これより《選抜試験》を行います」
「選抜試験?」
何人かの生徒が図らずも口を揃える。入学式で試験を行う学校など聞いたことがない。いたって常識的な反応ともいえる。
とはいえ、ここは天下の彩鳴館。常識的なものさしでは測れないことは重々承知の上である。
選抜試験の存在を知っていた生徒もいるようで、そういった連中は「来たか……」というような表情を浮かべている。かくいう峻もそのうちの一人だった。
「ここではいささかスペースが足りませんので、場所を移そうと思います。生徒は教員の指示に従って移動するように」
入学式を行っているこの講堂も、十分に広いはずである。およそ五百人の新入生が悠々――というよりはむしろ、五百人のために使うには若干広すぎるきらいがある。おそらく、全校生徒約千人を収容してさらに余りある広さだ。
だが、教員に引き連れられて行き着いた先の建物の広さは別次元だった。
「なんだここは……!?」
そこは、巨大な調理場だった。
おそらくは武道館よりも広いであろう室内に、調理台が何百台もずらりと整列している。その様は、壮観というより他になかった。
伊吹学頭が、部屋の中央にある演壇に立つ。
「これより選抜試験を始めます。各自、指定された作業台につき、菓子を作ること。これが試験の課題です。制限は特に設けません。この場にある材料・道具を使用して、それぞれ自由に作品を仕上げてください。出来た者から審査を行うので、完成した生徒は挙手を」
伊吹学頭の言葉に、会場の一部からどよめきが起こる。
彩鳴館の生徒は確かに和菓子屋の子弟が多い。だが、峻のようにこれまで全く和菓子作りなどしたことがない生徒もかなりの数在籍している。政府主導のもと、若い和菓子職人を育成し日本独自の菓子文化を保護する――そうした理念に基づくこの学園では、それゆえに入学試験を行っていない。門戸を広く開いているのだ。
和菓子作りに関して素人の新入生たちが、突然「和菓子を作れ」と言われて戸惑うのも道理といえよう。
「作業台の割り振りはスクリーンに映した通りです。各自作業に移ってください」
事前に選抜試験の存在を知っていた峻は、あらかじめ和菓子作りの教本を読んで多少練習をしていた。付け焼刃かも知れないが、これで他の素人連中のように醜態をさらすことはない。
あらかじめ用意していたレシピを見ながら材料を揃え、峻は指定された作業台に向かった。
作業台の前にはすでに別の生徒が立っていた。どうやら二人で一つの作業台を使うようである。
「隣、いいかな?」
峻はいたって自然に声をかけたつもりだったが、思いのほか硬い声が出てしまった。和菓子職人の養成所とはいえ、学校は学校。学年はじめの友達作りは緊張するものである。
「ん? ああ、二人で一つってことか。悪い」
その男子生徒は実に愛想よく笑うと、少し横にずれて峻のためにスペースを作った。人当りの良さそうな少年と相席になったことに、峻は内心ほっとする。よく見れば、先ほどの館長の挨拶で峻よりも先に拍手をした生徒だった。
「僕は美波峻。君は?」
「俺、朱月風雅っていうんだ。よろしくな、美波」
「ああ。こちらこそよろしく、朱月」
ふたりはどちらからともなく手を差し出し、握手を交わした。
「……ところでさ、美波。お前、この選抜試験ってなんだか知ってるか?」
風雅は若干気まずそうに峻に顔を寄せてきた。おそらく選抜試験について知らなかったのだろう。戸惑い様を見るに、風雅も和菓子作りに関しては素人のようだ。
「ん、まあ多少はね」
「いったい何を選抜する試験なんだ?」
「……僕も人から聞いた話でしかないんだが」
峻は少しだけもったいつけてから話し始めた。
「この学校の授業形態は、どうも講義形式じゃなくてゼミ形式らしいんだ」
「ゼミ形式?」
「ああ。つまり、演習だ。生徒はそれぞれただ一人の教員のゼミに所属して、そこで実習形式の授業を受けるらしい。授業の内容は完全に担当教員の裁量に一任されていると聞いた」
「……つまり、そのゼミの割り振りをこの試験で決めるってことか?」
「まあ焦らず聞けよ。ここからが重要なんだが、そのゼミってのが、レベル別にランク分けされているみたいなんだ」
「ランク分け!?」
風雅の驚きの声は思いのほか大きくて、周囲の生徒たちの注目を集めた。
「悪い……」風雅は気まずそうに頬を掻いた。
「あー……ランク分けの話だったな。ゼミは全部で七十個近くあるらしいんだが」
「七十!?」
「……」
「わ、悪い」
「……全部で七十近くあるらしいんだが」
峻は苦笑しながら言葉を続ける。
「上から順に、紫・青・赤・黄・白・黒の六つに格付けされるんだ。一番上の紫級のゼミは《功刀ゼミ》ただ一つで、生徒は十人しかいない。その下の青も《伊吹ゼミ》だけ。それから赤・黄・白・黒と順に数が増えていく。大半は黒か白らしいぞ」
「はー……六色の格付けねえ」
風雅は感心したように目を丸くしている。
「まあ、僕や君のような素人は黒級ゼミからスタートだろうな。昇級試験に合格すれば上のクラスに上がれるそうだし」
「美波……お前、めちゃくちゃ詳しいな」
「そ、そんなことはない。自分が通う学校について、軽く調べておきたいと思っただけだ」
「いや、ほんと助かったわ。サンキュー。お前、頭硬そうに見えて実はいい奴だな!」
「ど、どういたしまして……?」
褒められたのか貶されたのか微妙なところだが、風雅の満面の笑みから察するに悪意はないのだろう。峻は照れ隠しでもするかのように鼻を擦る。
「ま、まあ時間制限はないとはいえ、話してばかりもいられないな。そろそろ作り始めないと」
「おう、そうだな! って、あああぁぁぁ~……」
威勢よく応えた風雅は、次の瞬間悩ましげなため息とともに頭を抱えた。
「ど、どうした?」
「み、美波……俺、俺……」
風雅は涙目になりながら峻にすがりつく。
「和菓子の作り方なんて知らねえよ……」
***
「ほう。鶯の《煉切》ですか。春らしくて結構」
伊吹城太郎はもともと細い切れ長の目をさらに細め、提出された一品を観察した。黄緑と白の煉切餡が、巧みな《張りぼかし》によって見事なグラデーションを見せている。黄色の瞳が全体の大きさに比していささか大きすぎるところも見ようによっては愛嬌がある。強いて難点を挙げるとするならば、デザインが独創性に乏しいところだろうか。
「基本的な技術は問題がなさそうですね。君は……菓子屋の出身かな?」
「はい! 沖原准平っす! 実家はあんみつ屋やってます!」
「あんみつ屋……道理で、餡の味わいが繊細だと思いましたよ。実に結構」
伊吹は満足げに微笑むと、沖原の提出した書類に黄色の判子を押した。
「君ならばすぐに赤級に昇格できるでしょう。精進してください」
「ありがとうございます! 頑張りまっす!」
沖原は飛び跳ねるように一礼すると、軽快な足取りで走り去った。
「ふむ、今の新入生はなかなかに活気があって良いな」
「館長」
功刀は真っ白な髭をたくわえた顎を撫でまわしながら、ギラギラした眼で沖原の背中を見ている。齢八十を過ぎてなお、有り余る生命力と活力は驚嘆に値すると伊吹は思った。
「どうじゃ、伊吹の。今年の新入生たちは」
「なかなかに粒ぞろいかと。今の沖原も含めて、化ければ青級――私のゼミくらいまでなら上がってきそうな輩がかなりいますね」
「重畳、重畳。そうこなくてはの」
「今年は久々の『当たり年』かもしれませんね。……大型新人もいるようですし」
そう言って、伊吹は調理場の中央付近でひときわ異彩を放つ少女に目を向けた。
「……葵のところの孫娘か」
「ええ……葵咲良。噂は耳にしていましたが……正直、彼女が彩鳴館に来るとは思っていませんでしたよ。てっきり本家で修業を積むものとばかり」
「ふむ。ま、葵のにも色々と思惑があるのだろうよ。なんにせよ、奴は儂らを信じて孫娘を送り込んできたということだ。儂らも手抜きするわけにはいくまいよ」
ニヤリと口唇を歪めた功刀の笑顔は、いっそ恐ろしくもあった。伊吹は気圧されそうになるのをなんとか堪えつつ、事前に提出されていた咲良の書類に目を落とした。
「葵咲良……我々次第で玉とも石ともなる器、ですか」
「かかか。ま、そう硬くなるでないわ。教師が肩に力を入れすぎるな」
「は……これは失態でしたね」
咲良は、入学初日にしてすでに彩鳴館のトップ2の注目を集めていた。
だが、彼らはまだ、調理場の隅で苦戦している眠れる才能に気付いていなかった。
***
テキパキと作業をする峻の傍らで、風雅は特にすることもなく峻の手つきを眺めていた。
「なあ美波、お前本当に和菓子初心者?」
「え……なんだよ急に」
「いや……なんかやたらと手際がいいっていうか、手馴れてる感じがして」
「あ、あー……」
その質問に、峻は少しだけ言葉を濁す。
「ん? なんかマズいこと訊いちゃったか俺?」慌てる風雅。
「いや、別にマズくはないんだが……」
峻は風雅に一歩近づくと、「あまり人に言わないでほしいんだが」と前置きしてから話し始めた。
「僕の父親、パティシエなんだ」
「パティシエ……って、あのケーキとか作る?」
「そうそう。美波傑っていうんだけど」
「美波……? 美波傑!? て、テレビとか出てる有名人じゃねえか! あの人が、父親? お前の?」
「ばっ、だから朱月は声が大きいんだよ!」
「わ、悪い」
「まあ、そんなわけでさ……小さいころから父親に鍛えられてたから、料理自体は慣れてるっちゃあ慣れてるんだ。和菓子作りはともかく」
「はあー……パティシエの息子ねえ」
風雅は物珍しそうに峻の全身をじろじろと眺める。そんなに珍しいものでもなかろうに。ことこの学校に関していえば和風パティシエの宝庫なわけで。
「ん? でも、だったらなんでパティシエじゃなくて和菓子職人なんだ? 親父さんの跡継がなくていいのか?」
「洋菓子ってさ、嫌いなんだよね……」
「ありゃ、なんでまた?」
「小さいころから洋菓子ばっかり食べさせられてたから……なんていうか……完全に食傷」
「なるほど……」
風雅は苦笑いを浮かべている。もっともな話だ。パティシエの息子が洋菓子嫌いなんて話、笑い話にもなりはしない。
そもそも、なんでこんな立ち入った事情まで話してしまったのだろうか。
風雅とは今日が初対面だ。初対面の相手になんの抵抗もなくこんな話をしてしまった自分を不思議に思いつつ、なんとなくやり返してやりたくなった峻は、さりげなく切り返してみた。
「朱月の親父さんは何やってる人なんだ?」
「俺の親父?」
きょとんとした顔で風雅が訊き返すので、峻はなにか変なことを訊いただろうかと不安になる。
「俺の親父は……和菓子職人だったよ」
「和菓子職人って……なら、朱月は素人じゃないじゃないか」
「職人の息子がみんな玄人ってわけじゃないだろ。それに、言ったろ? 『だった』って」
風雅はもの寂しげな微笑みを浮かべて言った。
「もうこの世にはいないからさ」
「あ……」
「俺が小三のときに、な」
「……ごめん」
「やめろって。別に全然気にしてないから」
風雅は峻の背中をぽんぽんと軽く叩いた。その感触が先ほどまでより勢いがないように思われて、峻はますます申し訳なくなる。
父親の話を愚痴っぽく語った自分が、少し恥ずかしかった。
「ま、でも、親父に憧れてここに来たってのはあるな。調理場で和菓子を作る親父の背中を、子どもながらにカッコイイと思っちまったんだな。もっとも、親父は一度も俺を調理場には入れてくれなかったけど」
「……そうだったのか」
「つうわけでさ、俺の親父は和菓子職人だったけど、俺は和菓子なんか全然作ったことないわけよ。親父に和菓子の作り方を教わったことなんて一度も……あ」
と、そこまで言って風雅は突然言葉を切った。そんな様子を訝しんだ峻が訊く。
「どうした?」
「あったわ、一度だけ……親父と一緒に和菓子作ったこと」
「……なんだって? 本当か」
「ああ……完全に忘れてたぜ……っていうかなんで忘れてたんだ俺? 思い出した今となってはなぜ忘れてたかが思い出せない……いや、思い出せないことを忘れていたことを思い出した……? ってあれ?」
「落ち着け。そんなことはどうでもいいだろ。それより、ひょっとしたらそれで何とかなるんじゃないのか? 親父さんと作ったその和菓子を提出すれば、選抜試験も……」
「ん、んー……どうだろうな」
だが、風雅の反応はいまいち芳しくなかった。
「なにか問題でもあるのか? さっき見た感じだと、大体の材料は用意されていたぞ」
「ご飯……」
「ご、ご飯?」
「それに、梅干しも欲しいな」
「う、梅干しぃ?」
峻は素っ頓狂な声をあげた。ご飯はともかく、梅干しを使った和菓子など聞いたことがない。大体、ご飯に梅干しの組み合わせと言えば――
「そんな組み合わせ、日の丸弁当くらいしかないだろう!?」
「……弁当?」
その言葉に、風雅がぴくりと反応する。
そして次の瞬間、風雅は口の端を釣り上げてにたあっと笑みを浮かべた。まるで面白い悪戯を思いついた悪がきのような笑顔である。
「なあ、美波。さっきあの先生、『この場にある材料・道具を使って』つってたよな……?」
「あ、ああ。確かそうだったと思う」
「よし! なら問題ないはずだ!」
風雅は嬉々として言うと、リュックサックの中身をごそごそと漁りはじめた。
「お、おい、朱月……何を?」
「驚くなよ美波。俺が使うのは……こいつだ!」
風雅が取り出したもの――それがどんな和菓子に変身するのか、峻には想像もつかなかった。
「なッ!? そ、それはッ!?」
***
「これは……《御萩》、ですか」
朱月風雅が持ってきた作品に、伊吹は若干面食らった。出来栄えはいたって普通の御萩。だが――
(学園が用意した材料の中にうるち米は無かったはず……)
御萩を作るには当然ながら米が必要だ。もし米を使っていないのであれば、それは御萩ではなくただの餡子玉である。
「はい、御萩です!」
だが、風雅はなんのためらいもなくそう言い切った。
「君――ええと、朱月くん。ひとついいかな?」
「なんですか?」
「ご飯はどこから?」
伊吹の質問に、風雅は待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべた。その笑みを崩さないまま、何やらポケットをごそごそと物色する。憎めない生徒だ。なんとなく、伊吹はそう思った。
「じゃん! これです!」
「これは……おにぎりかい?」
「はい、今日の弁当として持ってきたやつです。残ってたんで使いました。あ、安心してください、口はつけてませんから!」
さらっと恐ろしいことを口にしていた気もするが、そこはスルー。
「なるほど……確かに私は『この場にある材料』と言いましたが……この会場内にあるリュックサックの中にあるおにぎりも材料として使っていいと解釈したわけですか」
「はい! 醤油じゃなく塩で味付けしてあったのが幸いでした」
そう言ってにやりと口元を歪める風雅に、伊吹は苦笑を禁じ得なかった。
子供じみた言葉遊び。そう一蹴するのは簡単だが、なかなかどうして、面白いことを考えるものだ。現に、この場にいる新入生五百人のうち、用意された材料以外を使って和菓子を作った生徒は風雅をおいて他にいない。
型にはまらない自由奔放さ――と解釈できないことも無い。
「ふふ……まあ、そういうことなら問題ないでしょう。もともと、口うるさく欠点をあげつらうような性質の試験ではありませんからね」
「ありがとうございます!」
「では、早速。頂きます」
御萩の身に楊枝を差し入れ、一口大に切り分ける。ふと、切り口から赤い何かが覗いて見えた。
(これは一体……?)
そう思いつつも御萩を口に運び、その途端、伊吹は衝撃を受ける。
「! す、酸っぱい、だと!? まさか、この赤いのは……」
「はい、梅干しです」
「梅干し!?」
口の中の御萩を慌てて飲み下し、伊吹は皿の上の御萩の切り口に目を凝らす。そこには、細くスライスされた梅干しの断片が、ご飯の中に混ぜ込まれていた。
「おにぎりの具に使われていた梅干しを、細かく切り刻んでご飯に混ぜたんです。その名も、『筧流・梅干し御萩』!」
「か、筧流……?」
朱月じゃないのかよ。誰だよ、筧。
そんなツッコミが喉まで出かかるが、そこをグッとこらえ、伊吹は二口目を口に運んだ。
「やはり、酸っぱい……が、それが決して御萩の甘さと衝突することなく、むしろお互いの良さを引き出し合っている……!?」
ご飯の塩気、梅干しの酸味、そして、小豆の粒が程よく残った《潰し餡》の甘味――この三者が相互に引き立てあい、かつてないハーモニーを生み出している。
「こんな組み合わせ……こんな御萩があったとは……! いったいどうやって……?」
朱月風雅は和菓子とは縁のない母子家庭の出身のはずだ。現に、試験が始まって暫くの間は勝ってもわからずおろおろしていたではないか。それが何故、こんな斬新な作品を作れるというのか。
伊吹は驚きと興奮に目を見張りながら、風雅の顔と書類を交互に見た。
「親父が……教えてくれたんです」
「お父君が……? でも君のお父君は、失礼だけど、確かもう……」
「ええ、僕が小学生のころ他界しました。これを教えてくれたのは、その一年ちょっと前のことです」
風雅は自分の作った御萩を見つめながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺……小っさいころ、嫌いだったんですよ。梅干しが。その酸っぱさが苦手で……どうしても食べられなかった。でも、ほら、小学生って給食があるじゃないですか。それである日、お昼ご飯に梅干しが出てきて……ひとりだけ梅干しが食べられないからって、クラスメートにいじめられて泣いて家に帰ったんです。
「そしたら、そんな俺を見た親父が言うんです。『泣くな、風雅。俺に任せとけ』って。それから三十分くらいどっか行ったと思ったら、この御萩を持って帰ってきて……最初は半信半疑だったんですけど、えいやって食べてみたらすげー美味くて……それがきっかけで、俺は梅干しが食べられるようになったんです。
「今でもはっきりと憶えてます。いや、まあ、実はさっきまでど忘れしてたんですけど……はは。でも、思い出しました。あの時の御萩、親父の掌みたいにあったかくて、やさしい味がしたなあって。それで、ああ、親父かっけーなあって思って。だから……だから、俺――」
「あ、朱月いいぃぃぃッ!」
「うおっ!? み、美波?」
いつの間にか現れた峻は、目を真っ赤に腫らして風雅に芸術的なラリアットを決めた。
「ぐぼハッ!?」
「お、おま、お前……いい、親父さんだなあぁぁ……」
「ちょ、やめろよ美波。恥ずいだろうが」
無理やり引きはがそうとする風雅に、抵抗してしがみつく峻。そんな二人を見ながら、伊吹は細い目をさらに細めた。
(『当たり年』ですか……いやはや、本当にいい人材が集ったものですね)
伊吹はコホンと咳払いをすると、いたって真面目な表情を作り直した。
「朱月くん」
「は、はい?」
「君の作品、確かに味わわせてもらいました。ごちそうさま」
「はい! お粗末様です!」
伊吹は黒色の判子を手に取ると、風雅と峻、ふたり分の書類に『認可』の印を押した。
「美波くんの作った紅白の《素甘》もなかなかの出来でしたよ。ですが、ふたりともまだ和菓子の世界では初心者も初心者、産まれたての赤子のようなものです。ぜひ、一からじっくりとこの世界のことを学んでいってください……この彩鳴館で」
「「……はい!」」
風雅と峻、ふたりの返事が同時に響いた直後のことだった。
「なんで私が『青』なんですか!?」
それよりもさらに大きな声量で、少女の声が会場に響き渡った。
***
葵咲良は憤慨していた。
「納得がいきません! なぜ私が『紫』ではないんですか? 納得のいく理由を説明してください!」
「かかか。そう喚くな、葵の孫娘」
咲良が突っかかっているのは、あろうことか功刀館長その人だった。
「どうしました?」
騒ぎを聞きつけた伊吹が駆けつけてきた。その脇には、登校時に遭遇した野蛮人――朱月風雅もいる。咲良はさらに頭に血がのぼるのを感じた。
「私の作品は完璧だったはずです。どこか欠点があるなら言ってください。それが妥当だと判断すれば『青』級のゼミに所属することも厭いません。ですが、はっきりした理由がないままなのは納得がいきません!」
「とまあ、こんな調子でな。どう思う、伊吹の」
館長はわがままな小娘でもあやすかのように咲良からの抗議をあしらう。館長からしてみれば実際に咲良は小娘なのだが、それがいっそう咲良の神経を逆なでする。
「ふむ。葵さんの作った菓子はどれですか」
「……これです」
「失礼。……ふむ、桜をモチーフとした外郎ですか」
伊吹は咲良の作品をまじまじと見分したあと、楊枝を立て口に運んだ。味わうように咀嚼し、ごくんと音を立てて飲みこみ――そして、ふたきれ目には手をつけずに楊枝を置いた。
「……なるほど。やはり葵さんは『青』です」
「なんで!?」
咲良は半狂乱になって叫んだ。その気迫に、伊吹の横に控えていた風雅と峻がびくりとする。
「なんで、ときましたか……出来ればその理由は、彩鳴館での学びを通じて自分で気づいてもらいたいところですが」
「そんな説明では納得できません!」
「……やれやれ、困りましたね。……まあ、強いて言うならば、欠点がないところが欠点――いえ、『欠点がないと思っているところが欠点』、とでも言いましょうか」
「? どういう意味ですか?」
言葉遊びのような伊吹の答えに、桜は苛立ちを隠せない。
「では、逆に問います。何故、欠点があってはいけないのですか?」
「……? それは、当然じゃないですか? なんでも欠点がないほうが良いに決まってます」
「――だから、あなたは『青』なのです、葵咲良さん」
「……!」
伊吹の声は、それまでとなんら変わる所はなかった。そのはずだった。
だが、その声はそれまでの数倍も凄みのあるものだった。
「……朱月くん、先ほどの御萩、まだ残っていますね?」
「え? あ、はい……」
突然の問いに、風雅は素っ頓狂な声をあげる。
「葵さん、食べてみてください」
「なっ、なんで私がこんな奴の作ったのを――」
「葵さん」
「……はい」
伊吹に押し切られ、咲良はしぶしぶ御萩を口に運んだ。
「……!? なにこれ……酸っぱい?」
「その御萩には梅干しのスライスが混ぜ込まれています」
「はあ!? う、梅干し? なんで……」
咲良は目を丸くして一気に御萩を飲み下した。
「御萩に梅干しって……訳が分からないわ」
「感想はそれだけですか?」
「そ、それは……」
言いよどんだ咲良が風雅の方に目を向けると、風雅は風雅で戸惑いの表情を浮かべて固まっていた。咲良は小さく舌打ちし、憮然とした表情で言葉を続ける。
「まあ、悪くはなかった、けど……でも、わざわざ梅干しを入れる必要性を感じないわ。普通の御萩で問題ないじゃない」
「そう、入れなくても問題はない……でも、問題はそこじゃないんです。そこに気付けないあなたの作品は、ある一面においては、朱月くんの御萩に劣る」
「お、劣る!? あ、葵屋の跡継ぎの、この私の作品が? こんな右も左もわからない野蛮人が作った虚仮嚇しの和菓子もどきに――」
「おい!」
風雅が咲良の肩を強引に掴んだ。
「いたっ……」咲良が小さな悲鳴をあげる。
「俺のことをどうこう言うのは別に構わねえけどよ……親父が作ってくれた、この御萩のことを悪く言うのは許さねえ」
そう言って咲良を睨みつける風雅の瞳は、これまでにないほど真剣だった。
「…………フン」
咲良はつまらなそうに鼻を鳴らすと、肩を掴んだ風雅の手を払いのけた。そのまま踵を返し、調理場の出口へと速足で向かっていく。
「かかか。どうした、葵の孫娘。京都の本家にでも逃げ帰るか?」
「逃げません!」
挑発的な館長の言葉に、咲良は顔を真っ赤にして振り向いた。
「必ずあなたたちを黙らせるような和菓子を作ってみせます! 相手が先生だろうと容赦はしません! 覚悟しておいてください!」
「いや、容赦はしないって……戦う訳じゃないんだし」思わずツッコミを入れる風雅。
「うるさい野蛮人! 二度と私の前に現れないで!」
葵咲良は捨て台詞を残し、今度こそ調理場から姿を消した。
***
「まったく……なんなんだ」
風雅は心底疲れ切ったため息をついた。隣を歩く峻が慰めるようにぽんぽんと肩を叩く。
「災難だったな、朱月」
入学式、選抜試験も無事に終わり、その後、学生寮の発表が行われた。彩鳴館がある長尾山には、約五十棟もの学生寮が点在している。生徒たちは全員入寮を義務付けられ、どの寮に入るかは学園側がランダムで決定する。
偶然にも、風雅と峻が所属する学生寮は同じ寮。
手渡された入寮案内を見比べて、ふたりは顔を見合わせ大爆笑したのだった。
「いやあ、しかし、寮でも朱月と同じだとは思わなかったよ」
「な、すごい偶然。でもちょっと安心だ。同じ寮の仲間が変な奴とか嫌な奴だったら萎えるもんな」
「まったくだ。他のメンバーも付き合いやすい人たちだといいのだが」
そんなことを話しつつ目的地にたどり着いたふたりは、ふたりが配属された学生寮『老松荘』の外観を見て青ざめた。
「……なあ、美波よ」
「なんだ? 朱月よ」
「本当にここで合ってる? 地図、読み間違えてたりしない?」
「残念ながら僕は生まれてこの方道に迷ったことがないんだ」
「まじか。それはすげえな……」
『老松荘』は、その名の如く、今にも倒壊しそうな古さびた木造建築だった。まさに幽霊屋敷と呼ぶに相応しい、そんな建物だ。
「……」
「ま、まあ、見かけは確かにあれだけど――」
峻よりもはやく衝撃から立ち直った風雅が、なんとかフォローの言葉を紡ぐ。
「だ、大事なのは見た目よりも中身じゃん。こ、こういう質素な感じの学生寮なら、暮らしてる生徒たちもきっといい奴ばっかりだぜ。ほら、こう、世間ずれしてないピュアな感じのさあ」
「そ、そうかな……」
峻が生気の抜けた表情で言う。
「そ、そうだよ。ハハ」
「そ、そうか。ハハハ……」
「うわ、なにこの建物……幽霊屋敷? 本当にこんなところが学生寮だっていうの? 本気でありえないんだけ……ど……」
なにかを落としたバサッという物音と共に、背後から聞こえてきた少女の声も途切れた。
静寂。
「……なあ、美波よ」
「なんだ? 朱月よ」
「本当にここで合ってる?」
「残念ながら」
無常なるその答えに、風雅は今日一番のため息をつき、意を決して振り返った。
絶望に表情を奪われた葵咲良が、そこにいた。