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信子クエスト

 信子は生まれてこの方、一度も自分の意志というもので行動をしたことがない。

 四十五歳を迎える今日という日まで、自由という権利を行使したことがなかった。

 否、正確にいうと自由を放棄していたという方が適当だろう。

 両親にも、夫にも、息子に対しても、彼らが求める行動を取り、必要とあらば自分が我慢をしてでも彼らに尽くすことが、信子にとって一番楽な日常の過ごし方であった。全ての行動の指針は、周囲が決定してくれる。後はその敷かれたレールの上を、ただ進むのみ。楽で仕方がないのだ。

 両親が望む習い事に通い、両親が望む大学にも進学した。両親が勧める企業に就職し、現在の夫にも出逢った。

 夫が望む家庭を作り、夫の同僚や部下の前では、職場という戦場で戦う夫を健気に支える妻の姿を好演した。

 息子が欲しがるものは全て与え、アメリカに絵の勉強をしに行きたいと言い出せば、仕送りの不足分を捻出するため、慣れないパートへも出たりした。

 正に、日本の古き良き妻の在り方、専業主婦の模範と称されるに相応しいその姿は、実は信子自身が、楽な生き方をし続け、自由を放棄してきた結果なのである。

 だが、四十五歳を迎える今日という日、信子は初めて「自由」という扉を開けようとしている。

 自らの意志と責任において、今まさに行動をとろうとしているのだ。

 「貴方、今日までありがとうございました。別れてください…」


 最近の主婦の楽しみといえば、やはり韓流ドラマ。甘ったるい男女に次々と襲いかかる不幸。涙、実らない恋…

 信子はどうも好きになれないでいた。設定の不自然さが許せないからだ。表情、セリフの全てが機械的だし、どうにも腑に落ちないのが、これでもか、これでもかと泣かせようとする厚かましさが気に入らないのだ。

 そんな信子の唯一の楽しみは、息子がプレゼントしてくれたポータブルゲームだ。「たまには息抜きにやってみなよ。」といって渡されたロールプレイングゲーム。これが実に楽しいのだ。

 魔王を倒すという唯一の、しかしはっきりとした目標のために、好きな仲間を選び、好きな武器防具を身に付けて、過酷な旅に自ら立ち向かっていく。信子は、ゲームの主人公が羨ましくて仕方がなかった。なんて自由なのだろう。彼には危険を冒す自由があるのだ。

 いつの頃からか、信子は主人公の姿に自分の生き方を重ねるようになっていった。

 私も、今からでも遅くない。自由に生きることが出来るのではないか?そんな思いを断ちがたい日々が続いた。

 そこで、信子は決心した。四十五歳の誕生日を機に、自由を謳歌してみようじゃないかと。


 夫は、鳩が豆鉄砲を喰らったように、ただ呆然としていた。というよりも、突然の予期せぬ言葉に、状況を理解することが出来ないでいるようだ。

 「別れるって…おい…何かしたいことでもあるのか?」

 たどたどしい言い回しで、聞きたいことも判らず口をついて出た質問に対して、信子は躊躇うことなくはっきりと答えた。

 「旅がしたいの。自由な旅が。」

 「…旅って、毎年行ってるじゃないか。この間も熱海に…」

 夫は、理解不能な状況を飲み込むのに苦しんでいた。

 「ううん、旅行じゃないの。冒険をしてみたいのよ。何かに挑戦してみたいのよ。だから、お願い。別れてください。」

 信子の意志は固かった。夫がダメだといっても旅に出るつもりでいた。

 寝室には、荷造りしたキャリーケース。準備は万端なのだ。

 初めて、家庭という鳥籠から飛び立って、大きな空を自由に飛び回ろうとしているのだ。もう、誰にも信子を止めることは叶わないのだ。

 「で、これからどうするつもりなんだ…」

 諦めにも似た声色で夫がそう訪ねると、信子は希望に満ちた瞳を見開いて、朗らかに答えた。

 「そうね、この街には王様がいないから、かわりに市長に会いに行くわ!」

 「…市長?」

 「そう!その後、酒場に行って仲間を捜すわ。つぼ八?白木屋がいいかしら?高田延彦のような格闘家と、瀬戸内寂聴さんのようなお坊様を見つけるつもりよ。」

 「…………さ…かば?」

 夫はもはや理解するどころか、立ち上がることすらままならない。信子は続ける。

 「嗚呼!とてもワクワクするわ!予算もないし、当面の武器はこの包丁で充分よね!」

 窓から差し込む夕日は、テーブルに置かれた真っ白なポータブルゲームを朱く染めていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] オチが怖い・・・・ 最後の一行がすごく効果的だと思いました。
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