2話 三者三様の序章(魔王の場合)
母は生まれた時に死んだ。父はついこの間、病死した。
その結果、俺は予定より早く魔王の座に就くことになったわけだが……。
「なんだこれは?」
俺のご機嫌取りに、貴族の男が細いペンのようなものを持ってきた。しかしペンだけで、インクが入った壺は置いていない。
魔王になってからというものの、俺のご機嫌取りにくる貴族はぐっと増えた。子供である俺ならば御しやすいと思っているのだろう。侮られているわけだが、まあ実績がないのだから仕方がない。それに侮ってくれているという事は、相手にも隙があるという事。悪い点ばかりでもない。
「これはですね、インクをつけなくても書くことができるペンなんですよ」
「ふーん。それは初めて見るな」
「そうでしょう。このようなペンは私しか持っておりませんので。では、実際に書かせていただきますね」
そういって貴族の男は、カチリと何やらペンから音を立てると、インクもつけずにさらさらと文字を書き始めた。インクをあらかじめつけておいただけならば固まってしまうだろうし、またこれほど長くは書けないだろうという所まで書き終えた男は、もう一度ペンを置いた。
「どうです。素晴らしいものでしょう?」
「俺も一度書いてもいいか?」
「もちろんです。こちらは、魔王様へ献上するために持ってきたのですから」
俺の元へ側近である、ルーンがペンと紙を持ってきた。とりあえず紙を確認するが、特に何かを仕掛けられているわけではないようだ。その上でペンを動かすと、確かに黒いインクが出てきた。
「凄いな。どこの職人が作ったんだ?」
どうやらこの細い筒の中にインクが詰まっており、どういう原理か、そこから必要量だけインクが出てくるようになっているらしい。こんなもの、初めて見た。
「いえ、私も買っただけですので、どこで誰が作ったのかまでは……」
「なら、誰から買ったんだ?人族か?」
魔王領で作られたものだったら、これが作りあがった時、もっと大きな噂が立っていてもおかしくはない。ただ人族領の国で作られたものだとすると、情報の伝達が遅いのも分かる。
しかし人族領でだとすると、少しやっかいだ。これほどのものを、今の魔族領の職人が作り上げられるとも思えない。
「いえ。実は最近賢者として有名な、ハン伯爵の使用人から買い取ったと商人は申しておりました」
「へぇ。そうか」
ハン伯爵の使用人。賢者と呼ばれている者。
俺は男に対して、あたかも初めて聞きましたというような顔をする。その方が、色々な情報を喋ってくれるし、俺が賢者を調べているなんてこともばれずにすむ。
そう。賢者の噂は、すでに俺のところまで流れるほど大きなものだった。
「はい。その少女、実は人さらいにあったそうで、出身がどこか分からないそうです。なので、もしかしたら人族領のどこか辺境の国かもしれません。そこから少女と一緒に運ばれた荷物だと聞いておりますが」
辺境ねぇ。
もしも本当に辺境の国でこのレベルの技術があるとしたら、人族領は恐ろしいペースで文化が進化しているという事になる。
とりあえず、聞き出せるだけ情報を聞き出した後、ペンに関してはありがたく受け取っておく。
そして男が部屋から退出した後、俺はルーンが持ってきたオレンジジュースで喉を潤した。オレンジをつぶして作られたジュースは疲れた頭には最適だ。
「また出たな。賢者の噂」
「そうですね。一体、何者なんでしょうね」
今のところ俺の方で掴んでいる情報は、賢者は少女と呼ばれる程度の外見をしており、独特な知識を持っているという事だ。ただ魔族としての常識はまったくないようで、人族領出身の可能性が高いという。
名前はユイと言うそうで、デュラ・ハンが拾い、隠していた。
デュラ・ハンと言えば、伯爵の地位につく老人だ。今のところは王家に従っているが、あそこの家系は昔魔王領がまだいくつかの国に分かれていたころに、今の王家ではないところに従っていた貴族だ。また自分自身を自分の王だと思って律しろという家訓を掲げており、自分の意志を曲げるぐらいなら王家だろうと敵対してきそうな貴族でもある。
危険だから排除もしくは遠ざければそれでいいのだろうが、とても有能でもあり、ある意味耳に心地いいことしか言わない貴族よりずっと役に立つと先代魔王達は程よい近さに置いてきた。
「しかもハン伯爵が、制御しきれないようですしね。何を考えているか分からない分、危険かもしれないです」
どうやら、デュラ・ハンはユイという少女の知識を外部に出さないようにしていたようだが、ユイは彼の隙を突き、どんどんその知識を広めている。
ユイという少女が作った石鹸は特に有名な話で、デュラ・ハンもとうとうそこに来て、ユイを止めるのを諦めその石鹸が作れるように力を注ぎ、魔王領の新しい産業を作り上げた。
オリーブオイルで作られた石鹸は、以前のものよりも匂いも良く、高額で人族領に輸出されている。……そう考えると、ユイが人族領出身というのもおかしな話なのだ。
自国ではないかもしれないが、人族領で買える物を、どうして魔族領で買うのだろう。魔族領からの商品は人族領同士の国の売買よりも税金が多くかかるシステムを取っていたはずだ。
理由は昔魔族領と人族領は大きな戦争をしていた為。今は上手くやれているが、そもそもの人種が違うので、またいつ戦争が起きるかもわからない。その為魔族領の産物に頼りきりにならないように、税金を大きくかけているのだ。これに関しては、魔族領も同じなので、相手の事をとやかくは言えない。
話はずれたが、オリーブオイルは何も魔族領でしかとれないものでもないのだから、人族領でだってつくる事ができる。それなのに、高くてもわざわざ魔族領から石鹸を輸入するという事は、まだ作るだけの能力がないという事なのだ。
だったら、ユイは一体どこの出身なのだろう。
「デュラ・ハンでも制御しきれない、謎の出身の娘とは面白いな。一体何をたくらんでいるのかも興味があるし、彼女の国は是非とも突き止めておきたいところだな」
ユイが売ったものは、インクがなくても書くことのできるペンだけではない。羊皮紙よりも薄い紙、ガラスではない、落としても割れない透明のボトル。まだあるのかもしれないが、今のところこの2点が俺の元へ集まってきていた。
話を聞くと、ユイ自身が商人と取引を行い、売ったそうだ。商人にはデュラ・ハンに恩返しをする為と言っていたらしい。どこまで本気なのか。もしも俺がデュラ・ハンの立場で、ユイの能力を知っていたならば、そんな悪目立ちされる方が迷惑だ。
ユイの知識を独占したいなら、微々たる金を得るために、本来あり得ないハイテクノロジーの物を売ったりはしない。そんなことをすれば、たちまちユイは有名になり、独占することが難しくなるだろう。
ユイはそのあたりの事を考えて、あえて売り、監禁されないようにしたのだろうか?それとも、本当にデュラ・ハンの為と思って行ったのか?前者でも後者でも、俺達が知らない知識を持っているには変わりはなく、底知れぬ怖さはあるのだが。
「よし、折角の機会だ。その娘を、ここへ呼ぼう」
「いけません。せめてもっと徹底的に調べてからにして下さい。もしも貴方の身に何かあったらどうするのです?魔王の血を絶やすつもりですか?」
「俺がいなくとも、伯父の血筋にも子供がいるだろ。そいつを後釜に据えればいい」
「冗談を言わないで下さい。あの子供に王の器はありません。ですから、色んな意味で貴方しか残っていないのですよ」
確かに。
今の人族領や魔族領の領主達のパワーバランスを崩さずに見極めるには、従兄弟殿には少し荷が重いかもしれない。でもなぁ。
「しかし、これ以上探った所で、ユイ本人に会わなければ情報は聞き出せないと思うぞ?」
これ以上は調べても、ただの噂しか出てこない気がする。むしろ、ユイ自身から直接聞いた方が速そうだ。
「ですが……」
「目立つのに理由があるとしたら、俺の耳にその情報を届けてほしいからとも取れないか?」
「仮に彼女の考えがそうだとしたら、危険すぎます」
「だが、俺はユイの祖国が恐ろしい。ユイがためらいもせず手放したものは、今の魔王領では決して作り出せないものばかりだ。この技術で武器を作られたらと思うと想像もつかない」
知らないでおくには危険すぎる。
それが人族領でなく、魔族領だったとしてもだ。広大な魔族領が再び分裂するきっかけにもなりかねない。
知識は武器だ。だがその知識を、この魔族領のものとできれば、更なる発展もできる。
「命令だ。ユイを俺の家庭教師に任命しろ」
これは彼女だけが問題ではないのだ。この国の未来もかけて、俺はそうルーンに命じた。