1話 三者三様の序章(ユイの場合)
これは夢だ。
そう思った。だって今まで普通の生活をしていたはずなのに、目を開けたら屋外で新聞に包まっていたら誰だってそう思うだろう。
ちなみに私はそう思った。これは夢だと。
しかし土の感触はやけにリアルで、冷たく硬い。もう一度眠って、今度こそ起きたいのに。そう思うのにまったく睡魔はやってこない。むしろすぐ隣を走る馬車にいつか頭をつぶされてしまうのではないかという恐怖から、頭を地面につけ、横になる事すらできない。
しかも……。
「何か臭い?」
悪臭。
近くに昔ながらのボットン便所でもあるのか、変な匂いもする。
寒さで体が震える。でも本当に震えている理由は寒いからじゃない。怖いからだ。夢だとそう思い込むには、あまりにここはリアル過ぎた。
「お嬢さん、そんなところで座ってはいかんよ」
どうしていいのか分からず、通りを歩く外人としか思えない人達を見ていると、初老に差し掛たぐらいの男性に声をかけられた。初老の男の瞳の色は薄い緑でやっぱり日本人の顔ではない。
それでも自分でも理解できる言葉をかけてもらえた事に、私はたまらず大泣きした。
◇◆◇◆◇◆
「私ってばここで働けるなんて運がいいわ」
メイド服に身を包んだ私は、踏み洗いで綺麗にしたシーツを物干し竿にひっかけながら、ひとりごとを呟く。
異世界トリップなんてあり得ない状況で、私に最初に声をかけて下さった初老の男は、デュラ・ハンという名前の貴族だった。初めてこの魔族領であるアースと呼ばれる国にトリップして、訳が分からずわんわんと子供のように泣き出した私をデュラ様は見捨てず、泣き止むまで隣に居てくれた。そして行き場のない私を自分の屋敷へ連れて帰ったのだ。
普通なら身の上もさっぱり分からな人なんて絶対連れて帰らない。もしも連れて行くとしたら、後暗い事があるパターンが多いだろう。でも私は状況もわからず、ホイホイとついていった。下手したら身売りで、売春まがいの事をさせられた可能性もある。しかしデュラ様は行くあてもなく、この国の常識も分からない私を使用人として雇ってくれたのだ。
なんという幸運だろう。
「それを言うなら私たちの方よ」
一緒に洗濯していたメイドのヘイムが後ろから追加の洗濯物を持ってきて私に笑いかけてきた。笑うとえくぼができる可愛い人だ。
「なんで?」
「だってユイが作った石鹸は匂いが臭くなくて、使いやすいし。私たちは大助かりよ。それにユイは働きものだしね」
「褒めても何にも出ないよ」
とはいえ、褒められるのは嫌いじゃない。だから顔が若干にやけるのは仕方がない話というものだ。
それにしても、雑学が結構好きだった自分に、よくぞ色々無駄知識を頭に詰め込んでおいたと褒めてやりたい。そのおかげで、私は新しい石鹸の作り方が頭に浮かんだのだから。
この国の石鹸は、動物性油脂と灰で石鹸を作っていた為、結構匂いのキツイ石鹸だった。そこで、植物油……まあ、いわゆるオリーブと海藻灰を原料で石鹸を作るよう、私は直接石鹸職人に交渉した。石鹸職人も結構難色を示したが、実際やってみるとかなりいいものができたらしい。ニコニコ顔で納品してくれた。
しかしこれは私一人の力ではない。普通に考えて、身元不明の小娘の話なんて誰も聞くはずがないのだ。実は突然おかしなことを言い出した小娘の話をちゃんと聞くように、デュラ様が口添えをしてくれたおかげだったりしている。本当になんと感謝していいものか。
「それに、私が石鹸を作ったことがあるのは苛性ソーダでだし。職人さんの力がなければこの石鹸はできなかったんだよね」
私は以前、石鹸作りにはまった頃に、色々興味がわいて石鹸の歴史について調べたことがあった。
今回私がお願いしたオリーブを使った石鹸は、過去の歴史で使われていたもの。本当は苛性ソーダとかあればいいのだが、そんなものはないし、どうやって作ればいいのかも分からなくて、そこまでを教える事はできなかった。
「ユイって、本当に不思議な場所で育ったのね。それにしても人さらいに合うなんて大変だったわね」
「うん。でもデュラ様はすごくいい方だし、私ってば本当にラッキーだと思うんだよね。恩返しがしたくて、ボールペンとか売った時もそんな事しなくていいって言ってくれたし」
「ボールペンって、確かユイが持っていた荷物に入っていた故郷のものの名前だっけ?」
「そう。羽ペンより便利だから、結構高額で買い取ってもらえたと思うんだけど」
この世界は、私がいた世界より、少しだけ文明が遡った感じだった。ペンは羽ペン。紙は羊皮紙。定規のメモリは粗いし、穴あけパンチも、スティックのりも、ホッチキスもない。
なので、私の鞄の中に入っていた文具は、超テクノロジー扱いだ。携帯電話なんて、ドラ○もんの道具並に意味が分からないレベル。
それに気がついた私は、屋敷にやってくる商人と交渉して、とりあえずボールペンなどいらない物数点を超高値で買ってもらった。そのお金で最初に与えてくれた服や食べ物などのお金を返せないかと思って。
しかしデュラ様はそのお金は受け取ってくれず、そんな事はしなくてもいいと逆に怒られてしまった。なんていい人だろう。今のところそのお金は大切にとってある。
いつまでもデュラ様に雇ってもらうのは迷惑になるかもしれないので、そのうち独立する際に使おうと考えている為に。とりあえず今はここでしっかりと働いて、デュラ様のお役にたとうと思う次第だ。
「一体、ユイの故郷ってどこなんだろうね。私も一度行ってみたいものだわ」
「うん。私も帰れたらいいなぁと思うよ」
「あ、ごめん。そうだよね。来たくて来たんじゃないものね」
少しだけ落ち込んだ声を出してしまって、ヘイムがはっとした顔をした。私はこの世界にどうやってやってきたのかも分からない。なので、たぶん帰るのは難しいだろう。
「大丈夫。ここにはデュラ様も、ヘイムもいるし。まあ、帰りたくないと言ったら嘘だけど、とってもこの国はいいところだと思うよ」
日本より少しだけのんびりと時間が流れていく。日本の方が発達はしていると思う。でも、この国はこの国で、素敵な部分もあった。
私の能力で、異世界から帰る方法を見つけられるとも思えない。何か使命があるようにも感じないので、多分偶然やってきたしまったのだろう。だとしたら、帰るのだって多分私があがいたところでどうにかなるようにも思えない。だとしたらこの国で骨を埋めるかなぁと覚悟しておいた方がいいだろう。
「ユイ~! デュラ様が呼んでるよぉ!!」
話しながら洗濯物を干していると、屋敷の方からメイド仲間の、エーシルが大きな声で私を呼んだ。
デュラ様が呼んでいるとな? これは急いで行かなければ。
「分かった! すぐ行くから!!」
私は洗濯物を干す手を早める。何か失敗したことで呼ばれるのかもしれないけれど、デュラ様に呼ばれたなら、火の中水の中。助けてくれた恩返しをするために、馳せ参じなければいけない。
「ユイ。ここは、私がやっておくわよ」
「大丈夫。この程度なら、2人でやればすぐ終わるから。デュラ様も、仕事をほっぽいて来いなんてこと言ってないと思うし」
大丈夫。大丈夫。
どうせ、残りあと少しだ。おっし。頑張ろう! 私は笑いながら、パンと洗濯ものを広げた。
◇◆◇◆◇◆
大丈夫だと思ったのは間違いだったのでしょうか? 深刻そうな顔をするデュラ様の前で、私はなんというべきか迷う。
デュラ様に呼ばれて、彼の書斎へ入ったのだが……中にいたデュラ様はものすごく落ち込んでいた。机の上で頭を抱えてどよぉぉぉんという効果音が聞こえてくるような様子だ。
この様子は、前にも体験したことがある。
「あ、あの。何か私、ヘマやったでしょうか?」
そう。これは私がボールペンやティッシュなど、私の荷物のほんの一部を商人に売った時と同じ表情だ。あの時は、どよんとした表情の後、売り払った理由を聞かれ怒られたわけだが、今回は何をやった私?!
最近は特に突っ走った行動はしてないぞと思うが、私の常識とこの国の常識は違うので、何かやらかしている可能性はあった。そういえば、石鹸の時もデュラ様の服を綺麗に保つためだと思い、1人で業者と話し合いという名の怒鳴り合いをしてしまって、デュラ様が少し引きつった顔をしていた気がする。その後、交渉は私がやるからと言われたが……うぅぅ。あの時も、私の行動に困っていたのだろう。
「いや。ヘマじゃないよ……」
ヘマじゃないよという表情には見えないんですけど?!
絶対私は何かやらかしてしまったのだ。ごめんなさぁぁぁいと謝りたいが、理由を言ってくれないと謝る事すらできない。
「ユイは……最近自分が、賢者と呼ばれてるのは知っているかい?」
「えっ? やだなぁ。恥ずかしい。デュラ様のお耳まで聞こえちゃったんですか? 凄い大げさなあだ名ですよね――」
石鹸で洗濯革命をして以来、皆が賢者様だといってからかうのだ。恥ずかしいから、止めてと言っておいたのに、まさかデュラ様の耳にまで届いてしまうなんて。
はっ。まさか、デュラ様の悩みの原因はそれか?! 変なあだ名のメイドを雇っていると噂になって、超迷惑をしてるとか?!
「――デュラ様、ごめんなさい! 変な噂を流してしまって。恥ずかしいですよね、賢者なんて呼ばれる娘を雇ってるなんて」
あああ。
こんなにデュラ様に悩まれるぐらいなら、もっとしっかり、ガツンと口止めしておけばよかった。
「いや。とても……そうだね。誇りに思ってるよ」
「そんな。そんな慰めなくてもいいです! 私も恥ずかしいと思いますし! 迷惑かけて、本当にごめんなさい」
だからそんな悲痛な顔をしないで下さい!
デュラ様は優しすぎなのだ。
「違うんだ。その、良く聞いて欲しい。実は、現魔王様であらせられる、ラグナログ様がユイを家庭教師として召し抱えたいと申し込まれたんだ」
「は? 魔王様? ラグナログ様?」
「混乱するのは無理もない。突然家庭教師をやってくれと言われたらそうだろう。しかし私たち貴族は魔王様に逆らう事は出来ないんだ」
デュラ様は私が、魔王の家庭教師を任命された事を驚いているのだと思ったようだ。
しかし私が驚いたのは、そこではなかった。確かに魔王ですでに王様なのに、なんで家庭教師なんて必要なんだとか思ったりもするけれど、問題はそこじゃない。
私が気になったのは、魔王様の名前だ。
「えっと、魔王様は、ラグナログ様と言われるんですか?」
「ん? そうだが?」
「あ、あの。この国は魔族の領土で、隣に人族の領土があって、この国はアースと呼ばれているんですよね」
「ああ。そうだが、それがどうかしたのか?」
どうかしたかんじゃない。
私はある事実に気が付いてしまった。この世界のことを教えてもらう度に、ぼんやりと聞き覚えがある国名が多いとは思ってはいた。実はデュラ様の名前にも聞き覚えがあったりする。
そしてここにきて、魔王様の名前を聞いて、私の中で一つの仮説が立った。
「あ。その。大丈夫です」
でもこんなこと言って信じてもらえるはずがない。というか、色んな意味で言いにくい。
だから私は心の中だけで、叫んだ。
まさか。
まさか……、ここって、BLゲームの世界ですか?! と。