『既平病』
「平面の無」
「観客のことを、かぼちゃだと思っちゃえばいいのよ」
まだ私が小学生だった頃のことだ。
私の通っていた小学校では毎年十一月に、各学年ごとに出し物を用意して、体育館に親や近隣住民を集めて発表するという行事があった。
たとえば、一年生は大きな一枚の紙にみんなが自分の絵を描いた。六年生は廃材を集めて、大きなお城を作った。
私たち三年生も、熾烈な投票の末、簡単な劇をすることに決まった。最初は文句を言っていた男子たちも、練習を重ねるにつれて次第に乗り気になっていった。
そうして本番の日を迎え、舞台裏で緊張しながら自分たちの出番を待つ生徒たちに向けて先生が投げかけたのが――その言葉だった。
あまりに突飛な一言に、生徒たちはしばらくの沈黙の後、一斉に吹き出した。「かぼちゃに見えるわけないじゃん!」と、一人の男子が先生を揶揄した。
結局は、その言葉のおかげでみんなの緊張が解れ、劇は見事に成功したわけなのだが――。
……私はそのとき、みんながなんで笑っているのかが、全くもってわからなかった。
人間とかぼちゃ……その似ても似つかない組み合わせがおもしろかったのだろうか? それとも、単に『かぼちゃ』という、その場にはとてもじゃないがそぐわない単語が出てきたことがだろうか? どちらにせよ、私には到底理解の及ばないものだ。
だって、私にとって、「人間はかぼちゃと同じ」なのだから……。
■ ■
「――――おい……おーい、大丈夫か?」
「え? ……あ、すみません。全然聞いていませんでした」
不意に、我に返る。隣では、彼が心配そうな声を上げていた。
「なんかボーっとしてたけど、考え事でもしてた?」
「……はい。まあ……そんなところです」
昔のことを思い出していた……そう言うのは少し憚られて、気のない返事をしてしまう。しかし、彼は特に何か文句を言うわけでもなく「そっか」と、それだけ呟いた。
――――沈黙。
……どうしようか、と思う。何か話をすべきだとは思うのだが、この空気の中で一体どんな話題を振ればいいのか、私にはわからない。
そもそも、私は今までほとんど人付き合いをしてこなかった人間なのだ。まともな会話なんて親としかしたことがなかったので、同年代――しかも異性との話し方なんて、知らないに等しい。
「なあなあ。明日さ、一緒に遊ばない? ……あ。遊ぶって言っても、喫茶店とかそういうとこに行くってこと」
妙に浮ついた――いや、どちらかと言えば「地についていない」といった感じの口調で彼が私を誘ったのは、つい昨日のことだった。
『クラスの中心人物』というほどではないが、誰にでも人当たりが良く、先生からの信頼も厚い――私のクラスメイトだ。と言っても、喋ったことは一度もないし、まともに顔を合わせたこともない。
もっとも……私がまともに顔を合わせられる人間なんて、そういないのだけれど。
とにかく、私は当然のように驚いた。なぜそんな人物が、私に声をかけてきて、さらにその挙句ちょっとしたデートに誘おうとしているのか……理解に苦しんで、頭が真っ白になった。放課後だったので周りに他のクラスメイトがいなかったのが唯一の救いだったと思う。
「ダメ……かな?」
「ダメっていうか、その、なんで私? っていうか……」
思考が追い付かず、咄嗟に『断る』という判断に至れなかった。その隙を突いて、彼が猛アタックを仕掛けてくる。
「おねがいっ! 明日の昼、少しの間だけでいいからさ!」
手を合わせ、頭を下げ、全力で頼み込んでくる。どんどんと、断りづらい状況に追いやられていった。
私としては、とにかく混乱していたので、深く考えることができていなかった。了承する理由はないが、無下に断る理由もない気がしたのだ。どう考えても断るべき状況だったと、今になって後悔してみても詮なきことだ。
結局、私は彼の申し出を受けてしまった。
冷静じゃなかったなぁ……。
彼に案内された小洒落たカフェでちびちびとコーヒーを口にしながら、しみじみとそんなことを考える。彼の言葉に偽りはなく、本当に喫茶店に誘われただけだった。
一体、彼が何を意図して声をかけてきたのか――私は、未だにわからないでいた。
人気者で、常に他人に囲まれて生きているような彼と、私はいわば正反対の存在だ。極力人を避けて生きてきた。人と関わるのが――怖かったから。
私にとって他人はみんな――かぼちゃだ。何を考えているのかがわからない、好意も敵意も全て飲み込んでしまっている、恐怖の対象なのだ。
「……あの」
結局、その場の空気に耐えられなくなって、特に話題もないのに話しかけてしまう。
「ん、なに?」
彼がこちらを向いて、私の言葉を待っている。その口調はとても穏やかなものだった――けれど、私は思わず顔を背けてしまう。失礼だとは思いながらも、彼の顔を直視することができなかった。
怖い、怖い、怖い、怖い。
私を見ないで、私の目に映らないで……。
怯えるように体を縮こめる私を、彼はどんな思いで見ているのだろうか。変な奴、気味が悪い……そう思っているのではないか。妄想とも呼べる考えが膨らんでいき、 頭の中をグチャグチャにかき混ぜる。恐怖が私を侵食していく――と、
「ねぇ」
唐突に、しかしあくまでゆったりと、彼が声を上げた。いつもの彼の口調――跳ねるような明るさがあるものとは違い、少し沈んだ、落ち着いた口調だった。
私は彼の方を向くことができず、俯いたまま「……なんですか」と小さく訊き返した。彼はそんな様子を気にすることなく、言葉を繋いだ。
「……顔、見れないんだよね」
一瞬、思考が止まる――が、すぐに納得がいく。
なんだ……知っていたのか。
別段隠しているわけでもないので、誰かからウワサでも聞いたのだろう。クラスメイトの中には事情を知ってあえて私を遠ざける人もいるから、気になっていたのかもしれない。……まあ、こんな暗い女に、事情を知らなくても進んで話しかけてくる人はほとんどいないが。
「はい、そうですよ」
素直に返答した……が、しかしそこで、なぜ彼は私の『病』を知っているのにわざわざ声をかけてきたのだろうかと、疑問が生じた。
普段の様子からすれば、嫌がらせを企むような人には到底見えない。それに、先ほど彼の口調からは、ふざけているだとか、そんな様子は一切感じられなかった。
では、彼は一体何を思って、私を誘ったのだろう……?
彼の思惑を読み取ろうとする。しかしその答えは予想外に、本人の口から語られることになった。
「君の目から見てさ……俺って、どんな風に見える?」
「えっ……?」
予想外の一言に、つい彼の方を見てしまった。そこにあったのは、やはりただのかぼちゃにしか見えないもので、けれど――その周りにはいつもと何か違う、厳格な雰囲気がある気がした。
「あ、いやね。俺って、クラスの奴らと喋ってるとき、基本笑いっぱなしでしょ? ……って、そうか、見てないか」
「あぁ、いえ。楽しそうな笑い声はよく聞こえてますよ」
彼はいつでもハキハキと大きな声で話すので、その声は私の席にまでしっかり届いていた。でなければ、私は彼のことをクラスメイトとして認識することもなかっただろうし、今回の誘いもきっとすぐに断っていたと思う。
「そう? そんなにデカいかなぁ、俺の声……」
私の言葉に、彼は少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「まあ、それならいいや。でさ、そういうときって、俺は友達と喋ることに対して笑っていると思うんだけど……最近、本当にそうなのかって、疑問に思うことがあるんだよ」
「……? どういうことです?」
「つまりさ。俺は笑顔で友達と喋ってるんだけど、本心では別に楽しいと思ってないし、笑いたくもないんじゃないかって、そう思ったんだ」
至って真面目に、彼はそう言った。それは……。
「それは……なんとも捻じ曲がった考え方ですね」
「はは……俺もそう思う」
悲しげに笑う彼……冗談というわけでもないのだろう。彼は真剣に、自分の表面と内面との矛盾に、悩んでいる。それが本当ではないと願いながらも、その確信が欲しくて……それで、私に声をかけてきたと、そういうわけか。
腑に落ちた、と同時に、私は困ってしまった。
「……もしあなたがその答えを私に求めているのだとすれば、それはお門違いでしかありません。私が得たのは心の中を見通す力でも、人の本質が見える力でもない……ただの、『顔がまともに見れなくなった』という結果だけですから」
私が持っているのは異能でも才能でもなく、『病』なのだ。『病』は人に不幸しかもたらさない。便利な道具として扱うことなど……決してできないのだ。
「……ごめん。不謹慎だったね」
深く沈みこんだような彼の声が聞こえてくる。自分の行動が軽はずみだったと思い、反省しているのだろう。
「いえ、私は別に怒っているわけではありませんから。ただ事実を――あなたの望むものを与えることはできないということを、伝えたかっただけです」
怒りなんて、もうしばらく抱いていない。私はただ、恐怖することしかできなかった。あるいは、ただ無感情を装い、自分を守ることしかできなかった。
殻に籠り、他人を見ないようにする。仕方がなかったとはいえ、私はずっと逃げてきた。誰も見ず、誰とも話さず――気づけば私は、自分の感情をコントロールすることが苦手になっていた。空っぽな、人形になっていた。
それゆえに、やはり彼は、私と正反対だと思う。自分の行いを見返して、後悔することができる。自分の心を疑い、苦悩することができる。
人間らしい、素晴らしいことだと、私は素直にそう感じていた。
「その……今日はありがと。支払いは俺がするし、えぇっと……無理させてごめん……」
謝ってばかりだな……そんなことを考えていたときに、ふと、気づいたことがあった。
――あれ……私、今……?
「それじゃあ――」
「あ! そのっ」
肩をすくめて立ち去ろうとしていた彼を、思わず呼び止める。反射的なその行動に、何より、呼び止めた本人である私が一番驚いていた。
「な、なに……?」
「え、えー……っと、ですね……」
彼は恐る恐るといった感じの控えめな小さい声で、私の意図を訊いてくる。「何か気に障ることでもしてしまったか?」と思っているのかもしれない。
でも……そうじゃない。そうじゃないんだ。
「わ、私はやっぱり……あなたが本当はどんな人かなんてことは、わかりません」
心を落ち着かせるように、気持ちを整理するように、言葉を反復する。
今は、今この時だけは……逃げてはダメなんだ。私の言葉で、真摯に、彼に向き合わなければいけないと、そう思った。
私は一呼吸した後、震える手にキュッと力を込めて、真っ直ぐに――決して逸らさぬよう、力強い視線を彼の目に向けた。
「わからない……けど。少なくとも私には……あなたは、とても、『いい人』に見えます」
わずかな時間でも共に過ごした私だからこそ、他人が全て同じかぼちゃに見えてしまう私だからこそ、その言葉は私の本心からの評価だった。
「…………」
瞳に、彼の顔が映る。私の言葉に呆気にとられているのか、体は停止し、ずっと押し黙ったままだ。あまりにも表現が曖昧すぎただろうかと、自分の語彙力のなさを詰りたくなったとき――不意に、彼が口を開いた。
「――あはははっ!」
予想外に、彼は大きな声で笑い始めた。それはもう、店員が何事かとこちらに尖った視線を向けるくらいの大笑いだ。
「な……なんで笑うんです!?」
「ごめんごめん! すごく真剣な顔でそんなことを言うもんだから、つい拍子抜けしちゃって」
なおもおかしそうに腹を抱えている彼を見ていると、なんだか急に恥ずかしくなってきて、顔が猛烈に熱くなるのを感じた。それと同時に、笑うことはないじゃないか、私は至ってマジメなのにと、少し腹立たしくもある。
「そうかそうか……『いい人』、ね……」
噛みしめるように、彼が呟く。その声音は、どこか吹っ切れたような、落ち着いたものだった。
「いや、でも、本当に嬉しいよ。その言葉を聞けただけでも、君に声をかけて良かったって、そう思える」
「ほ、本当ですか……?」
盛大に笑った彼へのちょっとした反抗心と、自分の言葉への自信のなさから、つい疑いを持ってしまう。彼は「ほんとほんと!」と念を押した。
「まあ、それならいいんですけど……」
彼の心が少しでも晴れたのなら、それは思わぬ成果というものだ。けれど、それは偶然の産物であって、私は別にそんな大層な意図を持って彼を呼び止めたわけではない。
改めて、彼の顔を覗き込む。
何か物思いに耽っているようで、私の方を見ていないそのかぼちゃは、やはりどこか、他のかぼちゃとは異なって見える。
無色透明ではなく、真っ白な下地――それは、何色にでも染まる可能性を秘めていて……私はそこに、今までとは違う『感情』を見出せるような気がしていた。
舞台の上、同じようなかぼちゃの群れを前に佇んでいた私は、その群れの中からようやく、自分の求めているものを見つけられたのかもしれない。思わず声を上げてしまったのも、そのためだ。
しかし、それならば――彼が私に恩を感じているのならば、悪いとは思うが、それを利用しない手はない。私が今からするべきことは、一つだ。
「……でしたら、一つ、お願いしてもいいでしょうか?」
「え? お願い?」
「はい。そこまで難しいものではないのですが」
私は、見つけなければいけないのだ。
本当に、私にとって人間はかぼちゃと同じなのか? ……その答えを、彼からなら、きっと。
「――これからも、時々で構わないので、私とこうしてお話していただけませんか?」
キッカケはなんでもいい。彼の所作から、言葉から、雰囲気から……感じ取るものが、そこにはきっとあるはずだ。そのためには、彼と会話する機会を定期的に設けるのが、一番都合がいいと思った。
「…………へ? 俺、と? これからも、何度、も?」
「そうです。ダメでしょうか……?」
「ダメ、っていうか……なんというか……。君がいいのなら、まあ、いいけども……」
このときの私は気づいていなかった――というより、求めるものに熱中するあまり、そちらにまで頭が回っていなかった。
私のしていることが――私を誘ったときの彼と、全く同じものだということ。
さらに彼が、私がしたのとほとんど同じ勘違いをしていることに。
「では、よろしくお願いします」
そうとも知らず、深々とお辞儀をする私に、彼は困ったように頬をかいていたが、しばらくして何か決心したように私に向き直った。
「……うん。こちらこそ、よろしく頼むよ!」
クラスでも聞いた、明るくてよく通る声。
顔を上げれば、そこには確かに、彼の顔があった。
なぜだろう……私にはその顔が、なんだか笑っているように見えた。
「既平病」
人の表情が読めなくなる病。