『仰明病』
「狂った色彩」
少年は、元より『青』という色が、数ある彩りの中でも一番好きだった。
青は少年に、無限の広がりをイメージさせた。
天の高みにある空、彼方まで続く海……それらを想起させるせいなのかはわからないが、少年は青という色のその先に、人が未だに辿り着くことのできていない領域があるのではないかと感じていたのだ。
絵の具セットの中身は全て青い絵の具に取り換え、絵を描くときには青い絵の具以外は使わなかった。青いTシャツに青いジーパン姿で、青に変わった信号に従ってルンルン気分で横断歩道を渡るのが、少年の日々の楽しみだった。
青い光が視神経を刺激する度に少年の心は跳ね上がり、目を爛々と輝かせてその青を凝視した。そうすることで何か見えてくるものがあるのではないかと、少年は期待していた。
そんな青に対する異常なまでの執着心を持っていた少年にとって、自分の体に起きた変化――他人から見れば気がおかしくなってしまいかねないその明らかな異常は、むしろ夢にまで見たような、宝くじに当たるなんてことよりも喜ばしいものだった。
青の種類が増えれば、少年の青への欲求も高まっていく――少年の、一種狂ったような青への渇望は、より色濃いものへと変貌していった。
トマトを大量に栽培してみたり、紙いっぱいの太陽の絵を描いてみたり、信号の前で延々立ち止まってみたり……。これまで味わうことができなかった新しい青に、少年の心は大きく揺さぶれた。もっと見たい、もっと感じたい、もっと染まりたい……青、青、青、青。
少年は探し回った。さらなる青を――自分の欲求を満たしてくれるような、自分という人間を侵食するほどの豊潤な青を……。
その日も少年は、新たなる青の探求に精を出していた。気味悪がる親の目なんて知らん顔で、家の倉庫の中を漁っていた。
しかし、あまりにも熱中し過ぎていたせいか、少年は放置してあった刃物に気づくことができず、誤って指を切ってしまった。幸い、刃物が手入れされていなかったおかげで、かなり浅い傷で済んだのだが……。
そのときの少年にとって重要だったのは自身の怪我のことなどではなかった。
少年は気づいてしまったのだ――とても身近に、そして大量に、自分の欲する青が存在していることを……。
「……そうしてできたのが、この『青い部屋』というわけか?」
「そうです、その通り! これが僕にとっての究極で、この世に存在するどんなものよりも純粋な青なんです」
少年は興奮したように、抑えきれなといった感じで声を張り上げた。少年がこの『部屋』にどれだけ惚れ込んでいるのかが、よくわかるようだった。
男と少年がいる部屋は、床と天井、そして前後左右の壁が全て同じ大きさをしている、きれいな正方形の部屋だった。むしろ、箱と言ってもいいかもしれない。家具の類は一切置かれておらず、二人とも床に足を投げ出すようにして座っている。
部屋としての役割をまるで果たしていないように思われるこの空間だが、本当の問題はそんなところではない。
――全てが同じ色だった。
二人を取り囲む六面の壁が全て、微妙な濃淡の違いもない完璧な同色で統一されていたのだ。そのせいもあって、壁と床との境界線が曖昧となり、まるでこの部屋がどこまでも広がっているかのような錯覚を覚える。
まさに少年が空や海に見た無限大の広さが、偽物とはいえこの部屋に実現しているのだった。
「いやはや、ここまで極めるとは……。君の執着心には、感心を通り越していっそ感動してしまいそうだよ」
そう言うと、男はズボンのポケットの中をまさぐり始め、しばらくしたところでハッと、そういえば今は煙草を切らしているのだということを思い出した。
男は焦っていた――いや、「慄いていた」と言った方が的確かもしれない。想像していた像と目の前にいる少年との大きなズレに、想像を遥かに逸した少年の異常性に……男は今朝確認したことすら思い出せなくなってしまうほど、恐怖していた。
「えへへ……お褒めに与り恐縮です」
照れくさそうに笑う少年――その服をよく見てみると、所々が部屋と同じ色に染まっていた。絵の具が飛び散ったようなデザインのその服を見て、男は胸の内がぞっと寒気立つのを感じた。
――長居すべきじゃないな。
男はそう判断した。脳が、体が、早くこの部屋から出るべきだと、警笛を鳴らしているような気がしたからだ。この部屋から、少年から、早々に離れなければ、何かとんでもないことが起こってしまうような、そんな予感がしたのだった。
「……では、そろそろお暇させてもらうとしよう。おもしろい話を聞けてよかったよ」
「あれ、もう帰っちゃうんですか? まだ、先生のお役に立てそうなことを話せてませんが……」
「いや、充分参考になったよ。ありがとう、礼を言う」
自然と早口になってしまうのを自分でも感じながら、男は急いで帰り支度を整え始めた。足元に置いてあった鞄に手をかけ、さあ立ち上がろうとしたその瞬間――。
男は――とある『違和感』を感じ取った。
「いやぁ、それにしても」
そんな男の様子を知ってか知らずか。少年は不意に立ち上がると、まるで独り言のようにしゃべり始めた。
「次に書く本の参考にさせてくれ……なんてお願いされたときは、さすがに僕もビックリしましたよ。自分のことが本になるなんて、全く想像もつきませんもの」
少年のその言葉を聞きながら、男は自分の背中に何か冷たいものが流れるのを感じた。それが男の汗だということに気づくためには、今の男には冷静さが少し足りていなかった。
「本当のことを言うと、モノ好きもいたものだなぁ……って思ったんですよ、最初は! でも、せっかくお申し出くださったことですし、僕程度が人の役に立つのならそれもいいかなと思って、お受けさせてもらったんですよ……それに――」
しゃべりながら、少年は徐々に男へと近づいていった。その視線は真っ直ぐ男を――いや、男の中にある『何か』を捉えていた。
男は必死に離れようとするが、腕で這うように動くだけで、まるで距離を開けることができていなかった。
――足が、動かない……!?
この部屋に入ってくるまで――少年に導かれるままに床に腰かけるそのときまでは正常に動いていたはずの自分の足が、なぜだか全く言うことを聞かないのだ。それが、少年が差し出したコーヒーに含まれていた薬のせいだということにも、男が気づくことはない。
みるみるうちに二人の間にあった空間はなくなっていき、やがて少年が男の目の前にまで来たところで、少年は腰を屈めて顔を男に近づけ、そしてニッコリと微笑んだ。
「この部屋の青を維持するのって、結構大変なんですよ……?」
その言葉の意味を男が理解することは、たぶんこの先ずっと、ないのだろう。
「仰明病」
トマト、太陽、血液など、ありとあらゆる赤色が青色に見えるようになる病。