『忘れ病』 ~Episode 0~
「消失の始まり」
「ねえ、東弥。去年の夏のこと覚えてる?」
「……」
「あれ、もしかして……忘れちゃったの? ほら、みんなで近くの海まで遊びに行ったじゃん」
「……いや、覚えてるよ」
とある病室の一室。
ベッドに横たわる彼女は、朗らかな笑顔で俺に語りかける。
「ホントに? なんか間があった気がするけど~?」
「忘れてないって、ホントホント」
「ふーん……まあ、いっか。でね! 私、元気になったら、もう一度みんなであの海に遊びに行きたいの! 泳ぎ回ったり、バーベキューしたり!」
「ああ、そうだな。その為には、早く病気を治して元気にならないとな」
「うん! 私……がんばるよ」
俺は、そんな彼女に微笑み返すことしかできない。
去年の夏の思い出……忘れていた訳じゃない。
みんなで集まって、馬鹿みたいにはしゃぎまわった。今までの人生で一番楽しかったかもしれない。それほどまでに、あの時の記憶は、俺の頭に鮮明に残っている。
でも……。
でも、そんなことじゃないんだ。
俺が言い渋っていたのは、そんな思い出にはまるで無関係なんだ。
彼女は笑う。
そんな彼女を前にして、俺は心の中で呟くことしかできなかった。
俺の名前は、『東弥』なんかじゃないってことを――。
□ □
『記憶障害』というものにも色々あるようだ。
彼女の病室を出た俺は、廊下ですれ違った彼女の主治医から、そんな話を聞いた。
単純に記憶の一部がすっぽり抜け落ちるもの、徐々に古い記憶から薄れて消えていくもの。
彼女の症状は、そんな数ある記憶障害の中でも、今までに例のない特殊なものらしい。
消えていくのは、『人との思い出』。
言葉の発し方や食事の取り方などの本能的なことや、今までの人生の中で培ってきた技術・技能については何の影響もない。
しかし、人々の関わりから生まれた思い出――関わってきた人々についての記憶が徐々に曖昧なものになり、最後には消えてしまうのだ。
彼女がこの病気に罹っていると分かったのが丁度一年前、去年の秋のこと。
治療法は未だに見つかっておらず、彼女はとりあえず入院をしながら病気の回復を待っているが、そんな兆しは一向に見えない。
記憶はどんどん消えていくばかりで、ついに今日、俺の名前まで……。
彼女の見舞いをしてきたこの一年を思い出す。
俺はずっと怖かった。彼女が俺を忘れてしまうことが。
いつか、名前どころか俺の存在まで忘れてしまうのではないか……。
ひたすら怖かった。だから、毎日のように彼女の病室を訪れた。
忘れられまいと。俺の姿を、彼女の脳から消さないようにと。
けれど……どうやらそれも無駄だったようだ。
彼女は俺の名前を忘れてしまった。すぐに、俺のことを『見知らぬ人』と思うようになるだろう。
彼女と過ごした日々も、俺と彼女の関係も……彼女の頭から、きれいに消えて失くなってしまうのだろう。
――それでも。
それでも俺は、これからも彼女の部屋を訪れよう。
他人となってしまっても構わない。今まで彼女と築き上げてきたものが、全て崩れ去ってしまってもいい。
『見知らぬ人』として、俺は彼女と新しい思い出を作っていこう。
もしかしたら、彼女の病気は二度と治らなくて、新しい記憶さえもいつか失くなるかもしれない。
そしたら、俺はまた新しい思い出を作るだけだ。何度でも何度でも。
俺という存在を、彼女の中から消さない為に……。
……さて。今日はそろそろ帰ろうか。
明日もまた同じ頃に来よう。その時彼女は、俺のことを覚えているだろうか?
ロビーまで着いた俺は、外に出ようと入口の扉に手を掛ける。
そして、手前側に引こうとしたところで――腕の動きが止まった。
しばらくの間そのまま停止し、そしてゆっくりと後ろを振り返る。
何かを話し込んでいる看護師二人、廊下を駆けて注意されている子供、注意している大人、椅子に座り込む老人――。
そんな人々を視界に捉えながら、俺は小さな声で呟いた。
そういえば――――
「彼女………………なんて名前だっけ……?」
「忘れ病」
人との関係についての記憶が徐々に失われていく病。
伝染性がある。