「地味な治癒魔法しかない」と婚約破棄されましたが、治癒弁当を騎士団に求められたので元婚約者様は放っておいてください
「セシリア、君との婚約は白紙に戻す」
王立アルヴェリア学院の中庭で、その声はよく響いた。
昼休みだった。
食堂へ向かう生徒たちが足を止め、噴水のそばで笑っていた令嬢たちが口を閉じる。
講義棟の階段を下りていた教師まで、こちらを見た。
視線の中心にいたのは、私、セシリア・フェルミナ。
伯爵家の令嬢であり、王立学院治癒魔法科に所属する聖女候補の一人。
そして今、侯爵家の嫡男ユリウス・バレンから、人前で婚約の白紙を告げられている女だった。
「君の治癒魔法は認めている。傷を癒やす力は有用だ」
ユリウス様は、まるで成績表でも読み上げるように言った。
「だが、侯爵家の夫人に必要なのはそれだけではない。社交の場で人を惹きつける華と、王都に届く縁だ。君には、それが足りない」
彼の隣に立つ令嬢が、静かに微笑んだ。
リリアナ・ロシェル。
宮廷魔導院にも縁を持つ家の娘だと、学院でも噂になっている。
最近、ユリウス様が彼女と一緒にいることは知っていた。
知っていて、聞かなかった。
聞けば何かが壊れる気がしたからだ。
けれど、壊れる時は、こちらの覚悟など待ってくれないらしい。
「君は優秀だ。だが、後方で傷を治すだけの力では、侯爵家の隣に立つには少し地味すぎる」
地味。
その言葉は、思ったより深く刺さった。
私の治癒魔法は派手ではない。
大聖堂を光で満たすような奇跡は起こせない。
一瞬で百人を癒やすような大魔法も使えない。
私にできるのは、相手の顔色を見ること。
歩き方を見ること。
食べる量を見ること。
眠れているかを見ること。
手の震えや、呼吸の浅さや、怪我になる前の小さな歪みを見つけること。
そして、少しだけ楽にすること。
それは、たしかに目立たない。
けれど、恥じたことはなかった。
なかった、はずだった。
「……承知いたしました。正式なお話は、フェルミナ家へお願いいたします」
声は震えなかった。
泣いてはいけない。
怒ってもいけない。
ここは学院の中庭で、周囲には生徒も教師もいる。
フェルミナ伯爵家の娘として。
聖女候補として。
王立学院の生徒として。
正しく立つ。
今は、それだけで精一杯だった。
ユリウス様とリリアナ様が去ったあと、中庭の空気が一気に緩んだ。
誰かが小声で何かを言う。
誰かが気まずそうに目を逸らす。
誰かが、かわいそうに、と口の形だけでつぶやいた。
その瞬間、足元から力が抜けた。
「――危ない」
低い声がした。
倒れる、と思った時には、誰かの腕が私の肩を支えていた。
驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、騎士訓練科の制服を着た青年だった。
黒髪に、日に焼けた肌。
貴族の子息にしては飾り気がない。
けれど、支える腕は安定していた。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫です」
「大丈夫な人は、そんなふうに立ちません」
淡々とした声だった。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を言っているだけの声。
だからだろうか。
その声に、少しだけ息ができた。
青年は腰の小袋から布を取り出した。
「よければ」
差し出されたのは、上等な絹のハンカチではなかった。
訓練用の布。
厚手で少し硬い。
けれど、きちんと洗われている。
「……ありがとうございます」
私は両手で受け取った。
周囲の視線が痛い。
婚約を白紙にされたばかりの令嬢が、見知らぬ騎士見習いに支えられている。
噂になるには十分すぎる光景だった。
それでも、彼は周りを気にしていなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
「医務室まで行きますか」
「いえ。そこまででは」
「昼食は?」
その問いに、私は答えられなかった。
本来は、ユリウス様と食べる予定だった。
朝から何も口にしていない。
それでも、昼食の約束だけは守るつもりでいた。
今思えば、馬鹿みたいだ。
青年は私の沈黙を見て、腰の袋を開けた。
中から出てきたのは、硬そうなパンと干し肉だった。
「こんなものしかありませんけど」
私は目を瞬いた。
「……よろしいのですか?」
「半分なら」
彼は何のためらいもなくパンを割り、片方を差し出した。
貴族令嬢に、騎士見習い用の硬いパンを。
それがあまりにも自然だったので、私は少しだけ笑ってしまった。
「貴族令嬢に、訓練用のパンを渡す方は初めてです」
「すみません。ほかに持っていなくて」
「いえ」
私はパンを受け取った。
硬い。
指で持っただけで分かる。
普段食べている白いパンとは、まるで違う。
けれど今の私には、その半分のパンが不思議なほどありがたかった。
小さくちぎって、口に運ぶ。
硬い。
味も薄い。
それでも、噛んでいるうちに少しだけ体に力が戻ってきた。
「……騎士見習いの方は、いつもこれを?」
「だいたいは」
「硬いですね」
「腹持ちはいいです」
「味は?」
「慣れます」
私は、今度こそ声を出さずに笑った。
ユリウス様との会話で、こんなふうに笑ったことがあっただろうか。
分からなかった。
「手を見せてください」
パンを食べ終えたあと、私はそう言った。
青年が首をかしげる。
「手、ですか」
「右手です。指の付け根を切っています」
「ああ。訓練で少し」
「少しでも、痛むものは痛むでしょう」
「これくらい、騎士見習いなら普通です」
「普通でも、怪我は怪我です」
今の声には、先ほどまでの弱さがなかった。
治癒する相手を前にすると、自然とそうなる。
相手の身分も、周囲の視線も関係ない。
怪我をしているなら、治す。
それが、私の役目だ。
青年は少し迷ったあと、右手を差し出した。
剣を握る手だった。
硬い。
小さな傷が多い。
指の付け根は赤く裂けている。
昨日今日の傷ではないものも混じっている。
淡い白い光を、傷口へ流す。
裂けた皮膚がゆっくり閉じる。
痛みが引いていくのが、魔力の反応で分かった。
「……すごいですね」
青年が、ぽつりと言った。
私の指が止まる。
「すごい、ですか」
「はい。痛みが消えました」
「後方で傷を癒やすだけの力だと、言われたばかりです」
口にしてから、しまったと思った。
こんなことを、初対面の相手に言うべきではない。
けれど青年は、困った顔をしなかった。
「傷を癒やせるって、すごいと思いますけど。特に俺らみたいな奴らには」
私は言葉を失った。
中庭のざわめきが遠くなる。
すごい。
ただ、それだけの言葉だった。
でも今の私には、その一言が信じられないほど深く染みた。
「……あなたは、変な方ですね」
「よく言われます」
「よく言われるのですか?」
「主に、訓練棟の同僚に」
その答えがおかしくて、私はまた少し笑った。
青年の名前は、カイル・ロウと言った。
地方騎士家の三男。
王立学院では、騎士訓練科に所属する下級騎士見習い。
侯爵家でもない。
有力貴族でもない。
王都に強い縁を持つ家でもない。
けれど私はその日、自分の魔法を初めて真正面から褒められた気がした。
その夜、私は寮の小さな厨房に立っていた。
目の前には、白い布。
弁当箱。
香草。
疲労回復用の薬草。
筋肉の緊張を和らげる根菜。
魔力をゆっくり巡らせる焼き菓子の材料。
倒れそうになったところを支えてもらった。
パンを半分もらった。
怪我を治したら、すごいと言ってもらった。
だから、明日、昼食を返す。
それだけ。
本当に、それだけのはずだった。
けれど、私の手はいつもより丁寧に動いた。
騎士訓練科の午後訓練は、体力を使うはずだ。
カイル様の右肩は少し硬かった。
手の傷の治り方を見る限り、疲労も溜まっている。
眠りも浅いかもしれない。
治癒魔法は、傷ができてから使うものだけではない。
怪我をする前に、体を整える。
疲労が限界に達する前に、少し戻す。
集中が切れて大怪我につながる前に、呼吸を整える。
ユリウス様は、それを地味だと言った。
でも、カイル様はすごいと言った。
なら一度くらい。
自分の魔法を、自分の思う形で使ってもいいのではないか。
薬草は少しだけ。
強すぎると午後に眠くなる。
筋肉痛の緩和は、訓練の感覚を鈍らせない程度に。
焼き菓子には、手の傷が開かないように少しだけ治癒の光を込める。
気づけば、ただの昼食ではなくなっていた。
完全に、騎士見習いの体調に合わせた弁当だった。
「……お礼ですから」
私はもう一度つぶやいた。
頬が少し熱い。
自分でも分かっていた。
これは、少しやりすぎかもしれない。
それでも、弁当箱の蓋を閉じる手は止まらなかった。
◇
翌朝、騎士訓練棟へ向かう時、私は何度も引き返しそうになった。
伯爵令嬢が、騎士訓練棟まで手作りの弁当を届ける。
しかも相手は、昨日会ったばかりの下級騎士見習い。
冷静に考えれば、噂にならないはずがない。
けれど、昨日の硬いパンを思い出すと、足は止まらなかった。
私は教室の入口で、少しだけ中を覗いた。
カイル様は、机の上の弁当箱を見つめて固まっていた。
その背後から、同僚らしき騎士見習いたちが集まってくる。
「カイル」
「何だ」
「お前、何をした」
「何もしていない」
「何もしていない男の机に、伯爵令嬢の弁当は置かれない」
「しかも聖女候補だぞ」
「待て。これ、食べていいやつか? 婚約の儀式じゃないのか?」
「違うだろ」
「何で言い切れるんだよ。お前、貴族の儀式に詳しいのか?」
私は入口の陰で、顔が熱くなるのを感じた。
違う。
本当に、ただのお礼なのだ。
たぶん。
カイル様は少し迷ってから、弁当箱を開けた。
教室が一瞬、静かになる。
香草で焼いた肉。
卵料理。
甘く煮た根菜。
薬草を練り込んだ小さなパン。
淡い白い光を帯びた焼き菓子。
騎士見習いの体に合わせたものだと、すぐ分かるはずだった。
「……うまそうだな」
「伯爵令嬢の弁当って、こんなに戦闘向きなのか」
「いや、戦闘向きの弁当って何だよ」
カイル様が一口食べる。
その表情が、少しだけ変わった。
肩の緊張が緩む。
右手の魔力反応も落ち着いていく。
昨日の疲労が、ゆっくり抜けているのが分かった。
よかった。
強すぎたかもしれないが、効いている。
「……治癒魔法が入っている」
カイル様がつぶやくと、同僚の一人が真顔で言った。
「おい。それ、婚約者用の弁当だろ」
「違う。お礼だ」
「お礼でここまで実用的で効果があるの、怖いんだが」
「聖女候補ってすごいな」
「いや、相手が聖女候補ってのもやばいけど、ヤバいのはそこじゃない。カイルが何をしたかだ」
私はそれ以上聞いていられず、いったん廊下へ下がった。
心臓がうるさい。
その日の午前訓練のあと、騎士訓練棟の話はすぐに広がった。
カイル様の動きが明らかに良くなったこと。
グレン教官が訓練記録を確認したこと。
「後方支援としてかなり実用的だ」と言ったこと。
それを聞いた時、胸の奥が熱くなった。
私の魔法が、必要だと言われた。
王都の社交ではなく、現場で。
誰かの体を支える力として。
その日の昼休み、私はもう一度騎士訓練棟へ行った。
教室に入ると、視線が一斉にこちらを向いた。
怖い。
けれど、逃げたくはなかった。
カイル様の席まで歩く。
「カイル様」
「はい」
「お口に合いましたか?」
「はい。とても」
教室中が、なぜか息を止めた。
私は少しだけ安心する。
「効果は、強すぎませんでしたか?」
「少し……効きすぎかもしれません」
「では、明日は少し抑えます」
「明日もあるんですか?」
私は真面目に頷いた。
「はい。まだ、お礼が足りませんので」
教室の空気が変わった。
「明日も」
「毎日弁当」
「それはもう婚約者だな」
「違う」
カイル様は即答した。
私も慌てて言う。
「ただのお礼です」
けれど、その言い方が自分でも真面目すぎたせいか、誰も信じてくれなかった。
◇
二日目から、騎士訓練棟の反応は変わり始めた。
最初はからかわれていた弁当が、少しずつ「支援」として見られるようになった。
カイル様の踏み込みが最後まで沈まない。
肩の動きが落ちない。
集中が切れる時間が遅い。
そうした変化を、騎士見習いたちは思ったよりよく見ていた。
昼休み、カイル様の机には、今日も私の弁当箱が置かれていた。
カードにはこう書いた。
『午後の訓練前にお召し上がりください。セシリア』
書いてから気づいた。
名字を書き忘れている。
フェルミナ、と入れるべきだった。
けれど書き直すのも変な気がして、そのまま置いてきてしまった。
教室に入ると、カイル様がそのカードを見つめて固まっていた。
アルト様が横から覗き込む。
「距離が縮まってるな」
「お礼だ」
「名字が消えたお礼、初めて見た」
私は聞こえないふりをした。
「カイル様」
「はい」
「昨日より、効果は強くありませんでしたか?」
「たぶん、ちょうどいいです」
「たぶん、ですか」
「午前の訓練は、いつもより体が軽かったです。グレン教官に記録を提出するよう言われました」
「記録を?」
「食事による治癒補助の影響を確認するそうです」
私は息を止めた。
記録。
騎士訓練棟の正式な記録に、私の弁当が関わる。
嬉しいより先に、不安が来た。
「……迷惑では、ありませんか」
「なぜですか」
「私の魔法のせいで、カイル様が記録を取られることに」
「迷惑ではありません」
カイル様はすぐに言った。
「役に立っているから、記録に残るんだと思います」
その言葉で、胸の奥が熱くなった。
「そうですよ、フェルミナ嬢。カイルの動き、明らかに良くなってました」
アルト様が横から言った。
「俺も見た。肩の動きが違った」
「俺にも弁当を」
「お前はまず寝ろ」
「寝てる」
教室に笑いが起きた。
私は少し驚いて、それから笑った。
中庭で浴びた視線とは違う。
ここには、私の魔法を笑う人はいなかった。
「フェルミナ嬢」
グレン教官が入口に立っていた。
私は慌てて姿勢を正す。
「今日の弁当に込めた効果を、簡単に説明できますか」
「はい。疲労回復は昨日より弱めています。代わりに、午後訓練で集中が切れにくいよう、魔力循環を整える薬草を少量使いました。筋肉痛の緩和は、動きの感覚を鈍らせない程度です」
「なぜ感覚を鈍らせないように?」
「痛みを消しすぎると、無理をして悪化させる可能性があります。訓練中は、体が危険を知らせる感覚も必要です」
教室が静かになった。
「治すだけではなく、壊れないように整えるのが目的です」
言ってから、少し不安になった。
余計なことを言いすぎただろうか。
けれど、グレン教官は記録板に何かを書いた。
「なるほど。ロウ、午後も記録を取る。フェルミナ嬢、可能なら明日も同じように効果内容を添えていただきたい」
「よろしいのですか?」
「必要なら記録する」
教官は淡々と言った。
「騎士訓練棟では、役に立つものを地味だからという理由で捨てるほど余裕はありません」
その一言に、唇が震えた。
泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。
ここで泣くより、きちんと頭を下げたかった。
「……ありがとうございます」
その日の夕方、私は治癒魔法科の資料室で古い薬草辞典を開いていた。
明日の弁当の調整を考えるためだ。
そこへ、カイル様が記録用紙を届けに来た。
「無理しなくていいですよ」
「無理ではありません」
即答してから、自分でも少し笑いそうになった。
「楽しいんですか」
そう聞かれて、私は目を伏せた。
「はい。誰かの体調を見て、何が必要か考えるのは、昔から好きでした」
本の表紙を指でなぞる。
「でも、ユリウス様には、地味だと言われました。治した後にしか役に立たない力だと。だから少し、分からなくなっていました。私が大切にしてきたものは、本当に必要なのか」
カイル様は少し黙った。
そして、まっすぐ言った。
「必要です」
顔を上げる。
「俺は、今日の訓練で助かりました」
「……それは、弁当の効果で」
「セシリア様が作った弁当の効果です」
ずるい、と思った。
この人は、特別な言葉を使わない。
けれど、私が一番ほしかったところに、まっすぐ言葉を置いてくる。
「カイル様は、時々ずるいです」
「何がですか」
「そういうふうに、普通に言うところが」
「普通のことなので」
「それが、ずるいのです」
その時、資料室の扉が強く開いた。
「セシリア」
ユリウス様だった。
整った顔に、不機嫌さが隠しきれていない。
「少し話がある」
肩が強張った。
カイル様が一歩引こうとした。
元婚約者同士の話だと思ったのだろう。
けれど、ユリウス様の視線はすぐに彼へ向いた。
「君がカイル・ロウか。下級騎士見習いが、ずいぶん親しげだな」
資料室の空気が冷える。
ユリウス様は私を見た。
「噂になっている。君がこの男に弁当を渡していると」
「事実です。昨日助けていただいたお礼です」
「お礼で二日続けるのか」
「必要だと思いましたので」
ユリウス様の眉が動いた。
「君の治癒魔法は、遊びに使うものではない。侯爵家との正式な話はまだ終わっていない。軽率な行動は慎め」
遊び。
あの弁当を。
あれだけ考えた支援を。
訓練記録まで変えたものを。
遊び。
私は口を開きかけた。
だが、その前に、カイル様が一歩前に出た。
「バレン様。軽率ではありません」
「君に聞いていない」
「俺が食べた弁当の話です」
カイル様の声は低かった。
「訓練記録が変わりました。グレン教官も確認しています。フェルミナ様の治癒魔法は、怪我を治すだけではなく、怪我を防ぐ支援にもなっています」
「下級騎士見習いの記録など、侯爵家には関係ない」
「はい。関係ありません」
カイル様は頷いた。
「だから、これは侯爵家の話ではありません。騎士訓練棟で必要とされた、フェルミナ様の力の話です」
ユリウス様の顔から、表情が消えた。
「セシリア。君は、この男にそう言わせて満足か」
私はしばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
「満足ではありません」
声は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
「けれど、私の魔法を遊びだと言われるのは、嫌です」
ユリウス様の眉が動く。
「私は、治癒魔法を軽く扱ったつもりはありません。カイル様の体調を見て、訓練に必要だと思うものを考えました。グレン教官にも、必要だと言っていただいています」
一度だけ深く息を吸う。
「私の魔法は、誰かの隣に立つための飾りではありません」
資料室が静まり返った。
ユリウス様は、しばらく私を見ていた。
それから、薄く笑う。
「……ずいぶん強くなったな」
褒め言葉ではなかった。
指が、ほんの少し震える。
だが、視線は逸らさなかった。
ユリウス様はカイル様に目を向ける。
「カイル・ロウ。君も覚えておくといい。身分には、越えられない線がある」
それだけ言うと、ユリウス様は背を向けた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その夜、騎士訓練棟の掲示板に一枚の紙が貼られた。
『治癒補助食による訓練記録への影響確認について』
作成者は、グレン教官。
対象者の欄には、カイル・ロウ。
協力者の欄には、セシリア・フェルミナ。
私の名前が、正式に記されていた。
それを見た騎士見習いたちが騒ぎ出す。
「カイル、ついに公式記録だぞ」
「婚約者じゃなくて協力者だ」
「いや、学院公式の共同作業だろ」
「共同作業って言うな」
少し離れた場所で、私は掲示板を見つめていた。
私の名前が、騎士訓練棟の記録に残っている。
それだけで、胸が熱くなった。
けれど、本当に事態が変わったのは、その翌日だった。
王都騎士団本部から来ていた訓練監査官が、グレン教官の記録を見たのだ。
騎士団本部の監査官は、王都配属の騎士候補たちの訓練状況を確認するために学院へ来ていたらしい。
その人が、私の弁当とカイル様の訓練記録に目を留めた。
最初は、少し珍しいものを見るような顔だった。
「弁当に治癒補助を込めたのか」
「はい。ただ、治癒効果そのものは強くしすぎないようにしています」
「なぜだ」
「痛みや疲労を消しすぎると、本人が無理をしてしまいます。訓練中は、危険を知らせる感覚も必要ですから」
監査官は、少しだけ目を細めた。
「では、これは治療ではなく調整か」
「はい。傷を治すというより、壊れる前に整える支援です」
私がそう答えると、グレン教官が記録を差し出した。
カイル様の午前と午後の訓練記録。
集中力の落ちる時点。
右肩の張り。
踏み込みの乱れ。
自己申告された疲労感。
それを監査官は黙って読んだ。
「午後の崩れ方が減っているな」
「まだ一例です」
グレン教官は淡々と答えた。
「だが、記録する価値はある」
監査官はうなずいた。
その直後、実技演習中の二年生が肩を痛めた。
私は呼ばれて、処置に向かった。
踏み込みの角度、前日の睡眠、朝食の有無、直前の打ち込みで右肩をかばっていなかったか。
私は一つずつ確認し、記録した。
「痛みは引きました。でも、しばらく同じ角度の打ち込みは避けてください。肩そのものより、足の入りが浅くなって、上半身だけで振ろうとしていたのが原因だと思います」
二年生は、驚いた顔で自分の肩を回した。
「痛みがない……だけじゃなくて、何で痛めたのかまで分かりました」
その言葉を聞いた時、監査官の目が変わった。
私の弁当だけを見ていた目ではなくなった。
「フェルミナ嬢」
「はい」
「君の価値は、治癒魔法そのものではないな」
一瞬、胸が強張った。
また、地味だと言われるのかと思った。
けれど、違った。
「不調の前兆を拾い、支援内容を組み立て、負傷の原因まで記録する。その観察と設計に価値がある」
息が止まった。
観察と設計。
私がずっと大事にしてきたものに、名前がついた気がした。
監査官は記録板を閉じる。
「これは、遠征前の負傷予防支援として試験する価値がある。王都騎士団本部へ報告する」
その一言で、騎士訓練棟の空気が変わった。
学院内の噂ではない。
下級騎士見習い一人の体調変化でもない。
私の治癒魔法が、王都に届く記録になった。
その報告が学院運営部へ上がった頃、ユリウス様は再び騎士訓練棟へ来た。
◇
今度のユリウス様は、一人ではなかった。
学院運営部の職員と、バレン侯爵家の使者を連れていた。
彼の表情は、前よりも硬い。
怒っているようで、焦っているようでもあった。
「グレン教官。その記録について、確認したいことがあります」
「用件は」
「セシリア・フェルミナは、まだ正式には私との婚約解消手続きを終えていません。その彼女の名を、下級騎士見習いとの共同記録に載せるのは軽率ではありませんか」
下級騎士見習い。
わざとらしく強調された言葉だった。
グレン教官は表情を変えない。
「訓練記録に、身分は関係ない」
「しかし、王都騎士団本部の監査官まで関心を示したと聞きました」
ユリウス様の声には、焦りが混じっていた。
そこで私は、ようやく気づいた。
ユリウス様が怒っているのは、私がカイル様に弁当を渡したからだけではない。
王都で評価され始めたからだ。
王都に届く縁がない。
華がない。
侯爵家の夫人として地味すぎる。
そう言って、私を捨てた。
けれどその私の魔法が、王都騎士団本部につながる監査官の目に留まった。
だから、困っているのだ。
学院運営部の職員が、静かに書面を開いた。
「王都騎士団監査官から、学院運営部宛てに確認が来ています。フェルミナ嬢の治癒補助食、および負傷予防観察について、試験記録の写しを求める、と」
ユリウス様の顔色が変わった。
そこへ、バレン侯爵家の使者が一歩前へ出た。
「ユリウス様。侯爵閣下より伝言を預かっております」
ユリウス様の肩が、わずかに揺れた。
使者は、周囲を気にすることなく淡々と読み上げた。
「お前は、セシリア・フェルミナ嬢を、王都では目立つ功績を作れぬ地味な治癒師だと説明していた」
教室が静まり返る。
「だが、王都騎士団本部は、彼女の支援を遠征前の負傷予防として試験する価値があると見ている。これはどういうことだ」
ユリウス様は答えなかった。
使者は続ける。
「お前は、婚約を解消したいがために、彼女の価値を見誤ったのか。それとも、私に都合の悪い情報を伏せたのか」
低い声ではない。
だが、その伝言は十分に重かった。
ユリウス様の頬から、余裕が消えていく。
私は、そこで初めて知った。
侯爵家は、婚約解消の方向そのものは知っていた。
けれど、ユリウス様から聞かされていたのは、私が王都では役に立ちにくい、地味な聖女候補だという話だったのだ。
完全な嘘ではない。
私は社交の中心に立つのが得意ではない。
宮廷魔導院に強い縁があるわけでもない。
派手な大治癒を見せられるわけでもない。
けれど、ユリウス様はそこだけを切り取って、侯爵家に伝えていた。
私が何を見ていたか。
何を考えて支援していたか。
何を大切にしていたか。
それは、伝えられていなかった。
さらに使者は、もう一枚の書面を開いた。
「なお、侯爵閣下より、フェルミナ伯爵家へは正式な謝罪状を送るとのことです」
ユリウス様の顔色が変わる。
「父上が、そこまで……?」
「加えて、ユリウス様には当面、バレン侯爵家の婚約交渉に関する権限を停止するとのことです」
その場の空気が、はっきり変わった。
婚約交渉の権限停止。
それは、貴族家の嫡男にとって軽い処分ではない。
「リリアナ・ロシェル嬢との今後の縁談についても、いったん白紙に戻し、侯爵閣下が直接確認されるとのことです」
リリアナ様の名が出た瞬間、ユリウス様はようやく言葉を失った。
王都に届く縁を求めて、私を切った。
けれど、王都に届いたのは、私の治癒補助の記録だった。
そしてその記録によって、ユリウス様自身の判断が疑われることになった。
「セシリア」
ユリウス様は、私を見た。
「君も意地を張るな。正式な解消前なら、まだ戻る余地はある」
教室の空気が止まった。
戻る余地。
昨日まで、そんな言葉は一度もなかった。
王都騎士団の監査官が評価したから。
学院運営部が記録に残したから。
侯爵家にとって、私の魔法がまた価値を持ち始めたから。
だから、戻れと言う。
「君の治癒魔法は、侯爵家にとっても必要だ」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
必要なのは、私ではない。
私の魔法。
私の弁当。
私の支援。
王都に届きそうな評価。
それだけなのだ。
「戻りません」
私は言った。
声は思ったより静かだった。
ユリウス様の眉が動く。
「何だと?」
「私は、ユリウス様の隣で、自分の魔法を小さく扱われることに慣れようとしていました」
指先は震えている。
けれど、もう俯きたくはなかった。
「でも、ここでは違います。カイル様は、すごいと言ってくださいました。グレン教官は、記録に残す価値があると言ってくださいました。騎士訓練棟の皆様も、私の魔法を笑いませんでした」
私は、まっすぐユリウス様を見た。
「私は、道具として必要とされる場所ではなく、私の判断ごと必要としてくださる場所にいたいです」
ユリウス様の口元が歪んだ。
「たった数日で、ずいぶん簡単に心変わりするんだな」
ひどい言葉だった。
けれど、もう刺さらなかった。
「数日で分かったのではありません」
私は静かに首を振った。
「ずっと、分かっていたのだと思います。私が見ないふりをしていただけです」
教室は静まり返っていた。
その沈黙の中で、アルト様がぼそっと言った。
「俺たちは、フェルミナ嬢の弁当で助かってますけどね」
別の騎士見習いも続いた。
「怪我する前に見てくれる治癒師とか、普通にありがたいです」
「遠征前にほしいです」
「カイルだけずるい」
「それは違う」
カイル様が反射で否定して、何人かが笑った。
その笑いに、少しだけ救われた。
ユリウス様は、今度はカイル様を見た。
「下級騎士見習いたちが、聖女候補を私物化する気か」
「違います」
カイル様は、はっきり言った。
「俺たちは、フェルミナ様の力を必要だと言っているだけです。誰のものでもありません」
それから、私を見た。
「彼女の魔法は、彼女のものです」
息が止まりそうになった。
また、その言葉だ。
私が一番ほしかった言葉を、この人は何度でも普通に言ってくれる。
「カイル・ロウ。君は自分の立場を分かっていない」
ユリウス様が低く言った。
「分かっています」
「なら、弁えろ」
「弁えた上で言っています」
カイル様の声は、少しも大きくなかった。
けれど、引かなかった。
「俺は、フェルミナ様に明日も弁当をお願いしました」
周囲が静かになる。
私も驚いて、カイル様を見た。
「必要だからです。うまいからでもあります」
「おい、最後」
アルト様が小声で突っ込んだ。
カイル様は少しだけ困った顔をした。
「でも一番は、フェルミナ様が楽しそうだったからです。誰かの体を見て、何が必要か考えるのが楽しいと、言っていました」
ユリウス様の顔がわずかに動いた。
たぶん、知らなかったのだ。
私が何を楽しいと思うか。
何を大切にしているか。
「その人に、軽率だとか、遊びだとか、言うのは違うと思います」
ユリウス様は何も言えなかった。
その時、廊下の向こうから教師の一人が駆けてきた。
「グレン教官、午後の実技演習で、二年生が肩を痛めました。医務室が混み合っています」
グレン教官の視線が私へ向く。
「フェルミナ嬢。行けるか」
「はい」
返事は早かった。
ユリウス様が口を開く。
「待て。セシリア、君が行く必要は」
「あります」
私は、ユリウス様を見ずに答えた。
「怪我をした方がいるのなら、私が行きます」
そう言って、歩き出す。
「カイル様」
振り向くと、カイル様がすぐに顔を上げた。
「記録用紙を持ってきていただけますか。怪我の前の動きも、分かる範囲で確認したいです」
その声に、もう迷いはなかった。
「分かりました」
カイル様が記録用紙を取る。
アルト様が親指を立てた。
「行ってこい、共同作業」
「黙れ」
でも、カイル様は少し笑っていた。
私も、ほんの少し笑っていた。
その日の夕方。
騎士訓練棟の掲示板に、新しい紙が貼られた。
『治癒補助食および負傷予防観察の継続確認について』
協力者。
セシリア・フェルミナ。
その横には、王都騎士団監査官への提出用控え、という印が押されていた。
私の名前が、王都へ届く記録に残っている。
ユリウス様が求めた「王都に届く縁」は、皮肉にも、彼の隣ではなく、騎士訓練棟で生まれた。
けれど今の私には、それより大切なことがあった。
「カイル様」
「はい」
「明日も、お弁当を作ります」
「お願いします」
「今度は、二人分でもよろしいですか」
カイル様は一瞬、言葉に詰まった。
背後で騎士見習いたちがざわつく。
「二人分」
「言ったぞ」
「婚約発表か?」
「静かにしろ」
頬が熱くなる。
けれど、逃げなかった。
「記録の相談をしながら、食べたいので」
そう言うと、カイル様は少しだけ視線を逸らした。
「では、一緒に食べましょう」
「はい」
「記録のためだけではなく、俺も……セシリア様と食べたいので」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
最初は、お礼のつもりだった。
倒れそうになった私を支えてくれた人に。
硬いパンを半分くれた人に。
私の魔法を、すごいと言ってくれた人に。
ただ、お礼を返したかった。
けれど今は、少し違う。
数日後、王都騎士団本部から、遠征前支援の試験協力依頼が届くことになる。
その時、カイル様は当然のように記録補佐を申し出てくれた。
騎士訓練棟の皆様は、また私たちを婚約者扱いして笑った。
私はもう、自分の魔法を地味だとは思わない。
傷を治すだけではない。
怪我を防ぎ、疲労を整え、人が倒れる前に支える力。
それを必要としてくれる場所がある。
それを私の判断ごと見てくれる人たちがいる。
だから私は、明日も弁当を作る。
お礼としてではなく。
一緒に食べたい人がいるから。




