7
王都の空が、ゆっくりと夜から朝へ変わろうとしていた。
仕立て屋の窓から、淡い光が差し込む。
店の奥では、最後の糸が静かに切られた。
ちょきん。
仕立て職人が息を吐く。
「……よし」
机の上に広げられた衣装。
まだ朝日が弱く、色は静かな青に見える。
だが。
窓の外から、最初の朝の光が差し込んだ瞬間。
布が、ふわりと輝いた。
深い紺色の布は、光を受けて紫を帯びる。
裾には細く流れる銀糸。
動けば、まるで夜空に光が流れるように見える。
軽く広がるスカート。
腕を上げても邪魔にならない袖。
踊ることを前提に作られた衣装。
そのとき。
扉の鈴が鳴る。
ルナとミアが店に入ってきた。
「おはようございます」
ミアが丁寧に頭を下げる。
職人はにやりと笑った。
「ちょうどいいところにきたね」
「完成したよ」
ルナの目が大きくなる。
「え、本当に?」
「見てみて」
職人は衣装を持ち上げる。
窓の光を受ける。
その瞬間。
布が淡く光った。
夜の色。
でも、朝の光で輝く。
ルナは息を呑む。
「……きれい」
ミアも少し目を細める。
「光の反射を計算していますね」
「広場の自然光でも映える設計です」
職人は肩をすくめる。
「歌うんだろ?」
「だったら、遠くからでも見えないとな」
ルナはそっと衣装に触れる。
軽い。
そして、柔らかい。
「着てみてよ」
職人が言う。
ルナは頷き、奥の試着室へ向かう。
布が揺れる音だけが聞こえる。
しばらくして――
カーテンが開く。
ルナが姿を現す。
紺の衣装。
腰のラインはすっきりしていて、裾は軽く広がる。
一歩歩くと、銀糸が光を流す。
ルナは少し回ってみる。
スカートがふわりと舞う。
踊りの動きにも綺麗に追従する。
ミアの目が静かに見開かれる。
「……完璧です」
ルナは少し照れる。
「そんなに?」
「はい」
ミアははっきり言う。
「広場の舞台でも、間違いなく目を引きます」
ルナは鏡を見る。
そこには、今までより少し“舞台の人”になった自分がいた。
歌い手。
そして、踊る歌姫。
そのとき。
天井の梁の上で、小さな金色の光がくすくす笑う。
「夜明けの衣装、って感じだね」
サンが満足そうに言う。
ルナはもう一度回る。
布が光を受け、夜の色から朝の色へ変わる。
まるで――
夜明けの空のようだった。
商業区広場。
夕暮れがゆっくりと街を染めていた。
昼の賑わいは少し落ち着き、代わりに人の流れが広場へ集まり始めている。
噂はもう広がっていた。
「酒場で歌ってた子らしいぞ」
「新しい歌い手だって」
「踊るって話も聞いた」
ざわざわとした期待の空気。
広場の中央には、簡易の木の舞台が組まれていた。
大きな舞台ではない。
けれど王都の中心。
人の目は多い。
舞台の裏。
ルナは深く息を吸う。
夜明けの衣装が、夕方の光を受けて静かに揺れる。
紺の布が、少し紫に見える。
ミアが横で周囲を確認している。
観客の流れ。
立ち位置。
音の反響。
すべてを目で測っていた。
「観客、増えてますね」
ミアが小さく言う。
ルナは舞台の隙間から広場を見る。
人。
人。
人。
思ったより多い。
胸が少し速くなる。
「……緊張してきた」
ミアは落ち着いた声で言う。
「正常です」
「緊張は集中力を高めます」
ルナは苦笑する。
「相変わらず冷静だね」
「私も緊張しています」
「え?」
ルナが振り向く。
ミアは真面目な顔のまま言う。
「ですが、ルナさんの隣にいる役目ですから」
その言葉で、少しだけ胸が軽くなる。
そのとき。
ふわり、と金色の光。
サンが空中で足を組んでいた。
「おー、すごい人」
「見える?」
ルナが小さく聞く。
「もちろん」
サンは笑う。
「王都デビューってやつだね」
広場の端で、主催の男が手を上げる。
「まもなく始まるぞー!」
ざわめきが少し静まる。
ミアがルナを見る。
「時間です」
ルナは一度目を閉じる。
前世の記憶。
ステージ。
歓声。
でも――
今は違う。
ここはこの世界。
そして隣にはミアがいる。
「行こう」
ミアは小さく頷く。
二人は舞台へ上がる。
足が板に触れる。
広場の視線が、一斉に向く。
ざわめきが止まる。
ルナは一歩前に出る。
夜明けの衣装が、夕方の光を受けて揺れる。
空気が静かに張りつめる。
ミアが後ろで、そっと空気を整える。
人の流れ。
視線。
ざわめき。
すべてを少しずつ静めていく。
ルナは観客を見渡す。
深く息を吸う。
そして――
微笑む。
「こんばんは」
広場に、柔らかい声が広がる。
「今日は、聴きに来てくれてありがとう」
観客の空気が変わる。
期待。
興味。
静かな集中。
ルナはミアに一瞬だけ目を向ける。
ミアは小さく頷く。
準備完了。
ルナは前を見る。
夜が、少しずつ降りてくる。
「最初の曲、いきます」
足を一歩踏み出す。
歌が、広場に流れ始めた。
王都の舞台。
最初の音が、静かに広場へ広がる。
楽器はない。
伴奏もない。
それでも、ルナの声はまっすぐ空気を震わせた。
柔らかく始まる旋律。
人々の会話が自然と止まっていく。
広場にいた商人も、通りすがりの人も、足を止めた。
ルナはゆっくりと歌いながら一歩進む。
夜明けの衣装が、灯りを受けて淡く光る。
銀糸が小さく流れる。
ミアは少し後ろに立ち、周囲を見ていた。
視線の流れ。
観客の密度。
ざわめき。
すべてを感じ取りながら、静かに空気を整えている。
そのおかげで、広場の空気は不思議なほど落ち着いていた。
ルナの声が、はっきり届く。
一番の終わり。
少し間を置く。
観客が息を飲むのが分かる。
そして二番。
ここから、少し強い歌。
ルナは一歩大きく踏み出す。
腕を広げる。
衣装が揺れる。
観客の目が動きに引き寄せられる。
「……あの子、動いたぞ」
小さな声が聞こえる。
ルナは歌いながら、ターンする。
スカートがふわりと広がる。
銀糸が光を流す。
観客の中から、驚きの声が上がる。
「踊ってる」
「歌いながら?」
ざわめきが広がる。
でもミアがそっと一歩動く。
視線を前へ集める。
ざわめきは、興奮に変わる。
間奏。
ルナは一歩下がる。
深く息を吸う。
ここからが、新しい部分。
前世で覚えた動き。
でも、今の自分の舞台。
足を踏み出す。
ステップ。
回転。
腕を大きく振り上げる。
衣装が夜の空のように広がる。
観客の目が釘付けになる。
ミアの目がわずかに細くなる。
「……成功です」
小さく呟く。
ルナは最後のターンをする。
そして。
一歩前へ。
ぴたり、と静止。
数秒の沈黙。
広場の空気が止まる。
次の瞬間――
「おおおお!!」
大きな歓声が広場を包んだ。
拍手。
口笛。
驚きの声。
「すごいぞ!」
「歌いながら踊った!」
「誰だあの子!」
ルナは少し驚いて目を瞬かせる。
思ったよりも、大きい反応。
後ろでミアが静かに言う。
「続けてください」
「流れが来ています」
ルナは小さく笑う。
「了解」
前を見る。
まだ観客の目が輝いている。
期待している。
ルナは一歩前へ出る。
夜の広場。
光の中。
「ありがとうございます」
声が少し弾む。
「次の曲、いきます」
観客がまた静まる。
歓声が少しずつ落ち着いていく。
けれど観客の目はまだ舞台に向いたまま。
誰も帰ろうとしない。
むしろ、人が少し増えていた。
広場の外から、噂を聞いた人が集まってきている。
「歌いながら踊る子がいるらしいぞ」
「さっきすごかったって」
ざわめきが波のように広がる。
ルナはその空気を感じながら、ゆっくり息を整える。
胸の高鳴りが、まだ残っている。
でも。
怖くない。
むしろ――楽しい。
ミアが後ろから静かに言う。
「観客、さらに増えています」
「今が一番良い流れです」
ルナは小さく頷く。
「じゃあ、次は少し静かな曲にする」
「緩急ですね」
「うん」
ルナは観客を見る。
期待。
興奮。
好奇心。
すべてが混ざった空気。
だからこそ。
一度、静けさを作る。
ルナはゆっくり言う。
「次の曲は、少しだけ静かな歌です」
ざわめきが落ち着く。
人々が耳を傾ける。
ルナは目を閉じる。
そして、歌い始める。
今度は優しい旋律。
風のように静かな声。
広場の空気が変わる。
さっきまでの興奮が、ゆっくり沈む。
人々が立ち止まる。
誰も話さない。
歌だけが流れる。
ミアはその空気を感じ取り、そっと立ち位置を変える。
観客の視線をルナへ集中させる。
通りの音さえ遠くなる。
広場は、ひとつの舞台になっていた。
ルナはゆっくり歩きながら歌う。
動きは小さい。
でも表情と手の動きで、物語を伝える。
前列の子どもが、じっと見上げている。
大人も静かに聴いている。
歌の最後。
ルナはそっと手を下ろす。
声が静かに消える。
夜の空気が戻る。
ほんの一瞬の沈黙。
そして――
ぱち。
前列の誰かが拍手する。
それが一気に広がる。
大きな拍手。
さっきより深い。
感動が混ざった拍手だった。
ルナは少しだけ目を丸くする。
こんな反応は、前世でもなかなかなかった。
ミアが小さく言う。
「……完全に掴みましたね」
ルナは息を吐いて笑う。
「ほんと?」
「はい」
ミアは広場を見渡す。
観客の密度。
視線の集中。
すべてが舞台に向いている。
そのとき。
群衆の後ろ。
数人の男が腕を組んで見ていた。
普通の観客とは少し違う視線。
評価するような目。
その一人が小さく言う。
「……あの子か」
「噂の歌い手」
別の男が頷く。
「王都で名前が出始めてる」
舞台の上では、まだ誰もそれに気づいていない。
ルナは観客を見て、微笑む。
「あと一曲、歌います」
歓声が広場に広がる。
「聞かせてくれ!」
観客の期待が、はっきりと伝わってくる。
ルナはその空気を胸いっぱいに吸い込む。
こんなにも多くの人が、自分の歌を待っている。
胸が熱くなる。
ミアが小さく近づき、静かに言う。
「最後は、さきほどの曲より強くいきましょう」
「締めの印象が残ります」
ルナは頷く。
「うん」
「じゃあ、最初に歌った曲」
ミアの目がわずかに細くなる。
「良い選択です」
ルナは観客に向き直る。
広場の灯りが、夜明けの衣装を淡く照らしている。
銀糸が小さく光る。
「最後の曲です」
ざわめきが落ち着く。
期待が空気を満たす。
ルナは一歩踏み出す。
歌い出し。
さっきよりも力強い声。
広場の奥まで届く。
観客がまた静かになる。
ルナは歌いながら歩く。
視線を観客に向ける。
一人一人と目を合わせるように。
そして二番。
体が自然に動き出す。
ステップ。
ターン。
観客の歓声が小さく上がる。
「来たぞ!」
「踊るぞ!」
ルナは笑いながら動く。
前よりも大きく。
前よりも自由に。
ミアが後ろで空気を整える。
歓声が歌を邪魔しないように。
視線が散らないように。
すべてを静かに導く。
間奏。
ルナは深く息を吸う。
ここが一番の見せ場。
足を踏み出す。
ステップ。
回転。
衣装が夜空のように広がる。
銀糸が光の軌跡を描く。
観客が息を呑む。
もう一回転。
最後のジャンプ。
そして――
一歩前へ。
ぴたり、と静止。
ルナの視線がまっすぐ観客を見る。
次の瞬間。
歌の最後のフレーズが響く。
力強く、真っ直ぐ。
そして声が消える。
広場は、一瞬だけ静寂に包まれた。
次の瞬間――
「うおおおおお!!」
これまでで一番大きな歓声。
拍手。
口笛。
足踏み。
広場全体が揺れるような熱気。
「すごいぞ!」
「もう一曲!」
「名前はなんだ!」
ルナは少し息を切らしながら笑う。
こんな反応は初めてだった。
ミアが小さく言う。
「……大成功です」
ルナは振り返る。
ミアはいつもの冷静な顔。
でもほんの少しだけ、誇らしそうだった。
ルナは観客に向かって深く頭を下げる。
「ありがとうございました!」
拍手がまた広がる。
広場の夜空に、声が響く。
そのとき。
人混みの後ろで、さっきの男たちが静かに話していた。
「確かに目立つな」
「王都で使えるかもしれない」
もう一人が言う。
「だが、目立ちすぎると面倒も増える」
舞台の上では、まだ誰もそれに気づかない。
ルナは顔を上げる。
広場の景色。
たくさんの拍手。
胸がいっぱいになる。
その少し上の空中で、金色の光がくるりと回った。
サンが楽しそうに笑う。
「王都デビュー、大成功だね」
そして小さく呟く。
「……でも物語は、ここからだよ」




