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 5風呂目 天才少女ナディア・ナイト2

 小学五年生くらいに見えるその少女は、ナディア・ナイトと名乗った。

 ぺこりと丁寧に礼をして、てくてくと引き戸を通ってきた。

 まだ産毛の残る、大福のような白い肌、ふわふわとあちこちに跳ねる紅茶色の髪は、耳の下でゆるく二つ結びにされている。アップルパイのリンゴのようにつやめく琥珀色の目には、大きな丸眼鏡を掛けている。

 長いまつげをやや不安そうに振るわせて、依鈴が示した先の脱衣場を見ていた。


「だいぶ遅い時間だけど、いいの?」


 壁にかかった時計を見て、依鈴は尋ねた。時計の針は十一時を指していた。


「そろそろ、魔法学校の入学試験があるのです。その勉強をしておりました」

「ふーん」


 依鈴は引き戸の向こうをまじまじと見た。向こう側も夜だったが、少なくとも、『スケートリンクだいや』があるいつもの景色ではなかった。小さな勉強机に本がたくさん置いてある。

 踏み越えるのはなんだかいけないことのような気がしたので、見るだけに留める。


「せっかくだし、大きいお風呂、入ってけば?」


 これも何かの縁だろう。この小さな少女ナディアは勉強をずいぶん頑張っているようだし、少しくらい大きいお風呂に入って疲れを癒したって誰も怒らないだろう。

 なにかあったら大変だが、依鈴も一緒に入って様子を見ていれば滅多なことも起きないはずだ。

 どうせこれから入るところだったのだし、と依鈴は女湯のほうを指し示した。


「私も入るところなんだよね。どう? 温泉。疲れ取れるよ」


 ナディアは少し迷うそぶりを見せたが、結局こくりと頷いて、依鈴の後をついて来たのだった。



 ナディアは脱いだ服を丁寧にたたみ、礼儀正しく風呂椅子に座る。

 依鈴の話をよく聞いて、これまた丁寧に自分の体を洗った。


「これ、シャンプー。こうやって手に取って、泡立てて、髪を洗うの」

「いい香りがします。かんきつと、はちみつの」

「よかった。この前、菫さんが新しく仕入れてたやつなんだ。髪さらさらになるよ」


 油断していた依鈴はシャンプーが目に入ってぎゅっと顔を顰めたが、ナディアはそうなることもなく無事に髪を洗い終えた。


「これはリンス。これを髪につけて流すとつやつやになる」

「……」


 ナディアはそれをまじまじと見て、半信半疑で髪につけていた。

 髪を乾かすときに驚いてもらえるといいなぁと依鈴は思った。


「このせっけんで体を洗うよ」

「泡立ちのいいせっけんですね」

「そ? まぁたしかにそうかも」


 泡を流して外に向かう。

 源泉かけ流し『雪の湯』自慢の温泉である。この季節は雪見風呂が楽しめる。

 湯気の立つ温泉を見て、ナディアはおっかなびっくり、そろりそろりと足を近づけた。ちょびっとつけては引っ込める。ちょびっ。


「そんなに熱くないよ。今日は雪も降ってるし」


 先に身を沈めた依鈴が笑って言うと、ナディアは警戒を解いたのかすんなりと湯船につかった。


「「あ~~~~」いいお湯!」


 二人分の「あ~~~~」が揃って、思わず互いに顔を見合わせる。


「わかってんね」


 依鈴が言うと、ナディアは少し誇らしげに、照れくさそうに、笑った。


「あったかいです。湯殿は初めてですが、とても」

「そっか」


 ふわりふわりと雪が舞い降りる。照明に照らされて、それは踊っているようだ。

 ほとほとほと。

 湯が湧く音だけが辺りを満たしていた。

 時折ざぁっと吹く風が湯気をさらい、またもうもうと立ち上る。

 ナディアの頬が、上気して色づいている。


「とってもあったかい……」


 じわり、とナディアの両目が涙でいっぱいになる。

 こらえて、こらえて、こらえて、それでもその両目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。大きなまんまるの涙が、温泉に丸い波紋を描く。


「……周りのみんなは、よく私を天才と呼びます」

「そーなんだ」

「誰よりも魔法がうまくて、魔法についての知識もたくさんあって、魔法陣を描くのが早くて上手だって。みんな言います。でも違うんです。私が魔法がうまいのは、毎日家に帰ってからの時間を全部、魔法の練習に使っているから」

「えらいじゃん」

「本当の天才は違いました。彼は……ルッツ・アウセムは、最初から魔法がうまいのです。私が三日三晩かけて習得した魔法を、彼はたった数刻の内に使いこなしてしまった。私の何倍もいい出来でした。どんな詠唱魔法もそんな調子でした。複雑な模様を描く魔法陣も、一目見ただけで覚えて描いてしまう。計算の大変な複合魔法も、瞬く間に打ち出してしまう。彼こそが本物の天才なのでしょう。私は……私は天才なんかじゃない」


 ナディアは俯いて、唇をきゅっと噛みしめて、静かに静かに、泣いた。


「心の奥が、つめたい気持ちでいっぱいになるんです。なんでここに来たのって。なんでみんなと仲がいいのって。そんなに明るくて、いい人で、頭がよくて、運動もできて、友達もいっぱいいるのに、どうして魔法も上手なのって。……ほかにいくらでもあるのに、どうして魔法も、持っていくの? 私には、それを取ったらもう何も、ないのに……」

「そーかねぇ」

「そうです」

「違うと思うけどねぇ」

「違いません!!!」


 ナディアは頑として言い張った。

 ぎゅっとこちらを睨みつける琥珀色が、涙できらきらと潤んでいる。

 その目をまっすぐに見つめ返して、依鈴はごく正直に、当たり前に、それを否定した。


「違うよ」

「……っ!」


 溢れるナディアの涙を、人差し指で依鈴は拭う。


「君、スケートをしたことはある?」

「氷の上を滑る……」

「そう、それ」


 依鈴は、いつもスケートリンクで滑っているときの気持ちを思い出す。


「私は氷の上で舞う競技をしてる。氷の上は寒くて、転ぶと痛くて、広くて白い場所でたった一人で踊るのは、少し寂しい」

「寂しいのに、滑るのですか」

 

 ナディアは、依鈴の顔をじっと見て、案じるように尋ねた。 優しい子なのだなと、依鈴は思った。


「そう。寒くて痛くて寂しいけれど……それでも滑るの。私は、氷の上にいるときの私が一番好きだから」

「……」


「君も、私と一緒だよ」

「お姉さんと……?」

「うん。君が一番好きな君は、魔法を使っているときの君なんだよ」


 ぱちくりと、なぞかけの答えを探すように、ナディアは目を瞬かせる。


「だから君は魔法を続ける。どんな形だろうと、魔法に携わる。魔法をやめない。あきらめない。魔法を使っているときの自分が、いろんな自分の中でいちばん好きだから」

「……」

「それは魔法がうまいことよりも、ずっと強くて確かな、才能だよ」


 そろそろあがらねばのぼせてしまう。

 依鈴は温泉を出て、ナディアも連れて脱衣場に戻る。

 タオルで体を拭いて、服を着る。


「そこに座りな。ドライヤーかけるから」


 カチッとスイッチをいれると、ドライヤーから温風が出てくる。

 ナディアはそれを見て、まるで魔法みたいだとはしゃいだ。

 依鈴はナディアの柔らかい紅茶色の髪にふわふわと柔らかく風を当てていく。そして一番大事なことを、伝え忘れていたことに気付く。


「ナディアちゃん」

「はい」

「……さっきはああ言ったけど、もしも、魔法を使っている自分より好きな自分を見つけたなら、迷わずそこに飛び込むんだよ。いつだって、一番好きな自分でいることが大事なんだから」


 依鈴が言うと、ナディアはこくりと頷く。

 髪が乾ききると、ナディアはその髪の美しさにパァッと顔を輝かせた。紅茶色の髪の先を、ナディアの白い指先が大切そうに撫でた。

 それから依鈴のほうを見て、指先でくるりと、宙に何かをかいた。


「見てください、お姉さん」


 そう言って、ナディアはそこにふっと息を吹きかけた。

 すると、その何もない場所から温風が出てくるのだった。ナディアがそこに手をかざして動かすと、温風の出てくる場所も同時に動く。


「つくってみました。お姉さんの持ってるみたいな、あたたかい風が出てくる魔法」

「いやすご!!!!」


 何が「私は天才なんかじゃない」なのか。

 それとも依鈴が知らないだけで、当たり前のことなのか。


「魔法って作れるんだね」

「はい、できますよ。ほかに誰かがやってるところは見たことありませんが。私も、誰かに見せたのはお姉さんが初めてです」

「えぐいじゃん」

「えぐ……?」


 もしかしたら依鈴は歴史的な瞬間を目の当たりにしているのかもしれない。

 知らない世界の歴史だが。


「お姉さんの髪を、これで乾かしても良いですか」

「いいの!? 光栄だなぁ。ぜひともよろしくお願いします」


 今度は依鈴は洗面台の前に座る。

 先ほどの魔法の温風が依鈴の髪に当てられる。強すぎず、弱すぎない。ちょうどよい温風だった。依鈴の髪は、すっかり乾いた。心なしか、いつもよりサラサラな仕上がりだ。


「ありがとう、ナディアちゃん」

「お礼を申し上げるべきは、私のほうです。ありがとうございました、お姉さん。おかげで私は、この自分をまだ好きでいることができます。つめたい気持ちに負けずにいられます。この場所とあなたのおかげで。私はまた胸を張って、魔法を好きだと、言える」


 ナディアは、琥珀色の飴みたいな目をぎゅっと細めて笑った。

 やはり綺麗な子だ。大きくなったら、誰もが放っておかないだろう。

 どうかこの子が、この先もずっとこうして笑っていられますようにとナディアは思った。


「そうだ、お姉さんがアイスを奢ってあげよう」

「あいす……?」


 ふと、そんな気持ちになった。子供は甘いものが好きだ。

 ショーケースを覗く。ナディアもそれに倣う。


「どれがいい? 好きなの選びな」

「では、これを」


 ナディアが選んだのは、バニラとチョコレートがくるくる巻かれたソフトクリームだった。依鈴はショーケースを開け、それを取り出した。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「おいしい?」

「はい。とても。おいしくて、つめたくて。……そっか。つめたくてもいいんですね。つめたいことが必要な時も、ある」


 ナディアは何かに納得したように頷きながらアイスを味わった。

 そして、コーンまで余さずきちんと食べ終えて、ストーブの前の席を立った。


「あたたかい湯を、ありがとうございました。あいす、ごちそうさまでした。私は勉強に戻ります」

「うん。湯冷めしないうちに寝るんだよ」

「はい」


 ナディアは手を振って去っていった。

 依鈴も手を振ってそれを見送った。

 銭湯の引き戸が閉まる。

 ちゃりんと、番台の上で小銭の重なる音がした。

 見ると、二百円が置かれていた。子ども分の入浴料百円と、アイス代百円でぴったりだ。


「わーお。神秘だ」


 ふと神棚を見ると、供えたはずの焼き芋とお茶がすっかり消えていた。


「神様の気まぐれってわけね」


 依鈴はうんうんと頷いて、明日の早朝のリンク練習に備えて、離れに戻って寝たのだった。

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