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 3風呂目 料理人エックハルト・フェッツナー

 菫は今日も番台に座っている。

 番台の後ろは小さな座敷になっていて、そこから、向かいにある『スケートリンクだいや』の様子が少しだけ見える。

 今、『スケートリンクだいや』では、姉の教え子である高校生の女の子が、黒いジャージ姿で滑っていた。その女の子の名は雪村ゆきむら依鈴いすずといって、少し前から通学のために『雪の湯』の離れに下宿している。アーモンド形の涼しげな目と、前髪を眉の下あたりでぱっつんと切り揃えたねこっ毛の黒髪が印象的だった。表情はあまり変わらないものの、時折『雪の湯』の準備や掃除を手伝ってくれる、心根の優しい子である。

 依鈴が軽やかにジャンプをするのが見えた。そして美しく着氷する。彼女が滑った後を、削れた氷が、星が舞うようにきらめいている。そのあまりに広く冷たい氷の上で、彼女はたった一人、今日も滑っている。


 ほどなく経って、菫は立ち上がり神棚の前に立った。そこに祀られている札をじっと見つめた。

 一昨日から、開店前に変な客が多すぎる。作法は守っているからまあいいとして、昨日など、珍妙な四人組に白く光る剣先を向けられたのでさすがに少し驚いた。彼らが去っていった先は大きな街のように妙に明るかった。そうしてやっぱり、戸が閉まった瞬間に、番台に四人分の入浴料が置かれていたのである。


 時刻は夜の営業の三十分前。

 今日は近所の和菓子屋の豆大福を供える。熱い茶も一緒に並べる。

 そしてやっぱりいつも通り、パンパンと二度柏手を打ち、手を合わせ、「いつもありがとーございまっす」と一言。

 閉じていた目を開けたその瞬間、背後の引き戸ががらりと開いた。


「なんだよ、あんた」

「風呂屋ですってば」


 聞こえてくる問いに答える。引き戸の向こうは、どこかの厨房のように見えた。

 見れば菫より少しだけ年上そうな男がたった一人立っていた。

 軽薄そうな態度のわりに、どこか真摯なまなざしをしたその男は、パリッとアイロンのかかった真白なコックコートを着ているのだった。


***


「うぁ゛~~~~」


 手際よく丁寧に体を洗ったその男は、案内をした菫に外湯についてきてくれと言ってきた。

 特段仕事もないので付き合ってやることにする。服の袖と裾を捲り上げ、湯船に身を沈めた男の傍にしゃがみ込んだ。


「兄ちゃんは入らないのかい」

「お望みなら勿論入りますがね。あなたはどうも、一緒に入って仲良しこよしって感じでもなさそうですから」


 こちらを見やる男に菫はひょいとそう返す。

 男はぐいっと伸びをして、愉快そうに笑った。長い指の先の爪は、短く切り揃えられている。


「スクナビコーナの千里眼にかかれば何でもお見通しってわけか」

「なんですかそれは」

「いんや、立ち入ったことを言った。忘れてくれ」


 男はそう言って遠くを見た。見晴らしのいい『雪の湯』の露天風呂からは、麓の町が一望できる。降りしきる雪の中、家の明かりがぽつんぽつんと灯っているのが見える。それはちょうどピントが外れたときのように、ぼんやりと夜を照らしているのだった。


「俺は料理人でね。まあ、見えないかもしれないが」


 男の視線は麓の景色に向けられたままだ。どこか自嘲気味に男はそう話し出した。

 菫は何と言うべきか迷い、結局へぇと相槌を打つだけにとどめた。

 ここは風呂屋だ。風呂屋が振舞うのは湯だけでいい。気の利いた言葉など、そもそも菫は持ち合わせていない。


「これでも町では評判だったんだ。みんなが俺の料理はうまいと褒めてくれた。俺の料理の腕はすぐにお貴族さんにまで知れ渡って、俺は貴族様おかかえの料理人になったんだ」

「へえ」


 肩を回してあちこちバキバキと鳴らしながら、男は語る。これは相当こっているなぁと、それを見て菫は考えた。


「いろんな料理を作ったよ。新しいこともたくさん学んだ。だけどな、なんか違うんだ。決定的に、なにかが。俺の料理の腕が落ちたわけじゃない。貴族の世界じゃ、そうなった途端に解雇だからな。そうじゃないんだけど、違うんだ。技術じゃなくて、……そう、あの、下町の定食屋で作ってたときみたいな気持ちが、俺の中からすっかりいなくなっちまった」


 男は自分の手のひらをじっと見つめた。そこに何かを探しているような。それは男がここに来たときにも感じた、真摯なまなざしだった。


「俺は、何のために料理を作っていたんだろう。……あの頃、俺を突き動かしていたものは、一体何だったんだろう。俺は、忘れてしまった。なによりも大切だったはずの、その何かを忘れてしまった。これからどうすればいいのか、わからない」


 男の瞳は涙に濡れていた。菫は特に慰めるでもなく、ただ不躾に見つめるのもどうかと思って、男が見つめる麓の町を共に眺めていた。

 少しの間黙り込んでいた男は、ほどなくしてその琥珀色の目を菫に向けた。


「なあ兄ちゃん」

「なんですか」

「俺は昔、何のために料理を作っていたんだろうなぁ」

「そりゃ、あなたの料理を食って喜んでくれる、誰かのためにでしょう」


 菫は何の捻りもない、ごくありふれた返答をした。

 男の目はぱちくりと、菫のことを見ている。


「え?」

「『え?』ってなんですか」


 菫はそんなにおかしなことを言ったつもりはない。


「あなたはさっき、『見えないかもしれないが』と言いましたけど、俺には骨の髄まで料理人であるように見えましたよ。むしろ見ていればわかります。あなたの行動は、その一つ一つが、『誰かのため』のものだから」


 これは事実である。

 男は実に効率よく自身の体を洗い、指の先の汚れまできちんと流した。

 湯船につかる前には風呂椅子を流し、桶を戻し、洗い場をすっかりきれいにしてから風呂へと向かって行った。

 これまでだって雑な使い方はされてこなかったが、ここまできちんと片付ける人も珍しい。

 できるだけ待たせることなく隅々まで清潔にする心がけと、段取りの良いてきぱきとした動き、一歩先まで考える想像力。そのどれもが、彼が芯からの料理人であることを如実に証明していた。


「忘れてなんていない。いなくなってもない。あなたの『何か』が何なのか、あなたの体はきちんと覚えてる」


 料理人は、もう一度その両手をじっと眺めた。何かを確かめるようにぎゅっと握り、開く。


「そうだ、温泉からあがったら、とびきり美味いものをご馳走しますよ。あなたがさっきしてくれた洗い場の掃除は、報酬を払うべき代物だと思うんでね」


 風呂からあがった料理人の男を、菫は牛乳の自販機に案内した。

 コーヒー牛乳とフルーツ牛乳のボタンを選び、ぴっと押す。がこん、と出てきたそれを男に差し出した。


「どっちがいいですか」

「じゃぁ、こっち」


 男はコーヒー牛乳を取った。

 菫がするのに倣って、男も瓶の蓋を開ける。


「これはコップに出したりしないのか」

「何を言うんです。風呂上がりの牛乳は、腰に手ぇ当ててぐびぐび飲むもんです」

「なるほどね、それが作法か」


 そうして男は、菫と一緒に腰に手を当て、瓶のコーヒー牛乳をぐびぐび飲んだ。


「「っあ゛~~~~、うまいっ!!!!」」


 二人して何とも言えない声を出す。この一杯がうまいのである。


「なんてまろやかで新鮮なミルクだ」

「風呂上がりだから一層美味いんですよ」

「そうだろうな、空腹が最上のスパイスであるように、オンセンはどうやら最上の隠し味であるらしい」


 男を見ると、口元には立派な牛乳の髭ができている。


「兄ちゃん、俺思い出したよ」


 椅子に腰かけ、ストーブの火を見つめる男の瞳は熱を取り戻したかのようだった。その琥珀色の奥で、チラチラと、赤い炎が揺らめくようにまたたく。


「うちの店に来たやつがみんな、満足そうに帰っていくのが誇らしかった。腹をぺこぺこに空かせたやつが、いっぱいになった腹をさすっているのが嬉しかった」

「……」

「俺は、誰かのために料理を作る」


 男は牛乳瓶を握り締め、少し残っていたコーヒー牛乳を男はまたぐいと、あおるように飲みきった。


「エックハルト・フェッツナーの料理は世界一さ。料理を食った誰かを必ずや笑顔にする」

「そうなんでしょうね」


 さっぱりとした笑みを浮かべ、男は椅子から立ち上がった。その顔に、もう迷いはなかった。


「兄ちゃん、お勘定」

「他から貰うんで、けっこうですよ」

「そうかい」


 男はコック帽を胸に抱き、丁寧に礼を言って戸の向こうへと帰っていった。


 その日、引き戸はきわめてゆっくりと閉まった。

 四角く切り取られた、向こうの世界の一部が見える。

 男は厨房に立ち、パンをナイフで切っている。冷蔵庫からミルクを取り出し、ボウルに移してかき混ぜている。それから火にかけ、小麦粉を加えてソースを作り、グラタン皿に盛り付ける。そこに切ったパンを並べて、オーブンにかける。その間に鍋で野菜をいため、スープを作っている。寒い季節にピッタリの、具だくさんのスープだ。彼の料理の並ぶ食卓は、今日もすばらしいものになることだろう。


 やがてその料理たちのうまそうな香りが漂ってきたところで、引き戸はからんと閉まり切った。

 番台の上には、一人分の入浴料と、コーヒー牛乳一本分の代金がぴったり置かれていた。


「ごちそうするって言ったのにー」


 菫は神棚を見る。やはり何も言わない。


「あーあ、おなかすいた」


 菫は誰に向けるでもなくそう呟いて、番台に座りなおした。

 そうして、今日の夕飯は、あつあつのグラタンにしようかなと、ぼんやりと考えるのだった。


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