9風呂目 沙漠の国の姫1
『雪の湯』は風呂屋である。
この町をずっと見守ってきた、古く寂れた銭湯である。
その番台に腰かけて、雪村依鈴は考えていた。
貰った友チョコに付いていた、小さな手紙の内容について。
***
手紙の内容はこうである。
『突然ごめんなさい。今まで言えずにいましたが、あなたのことが好きです。
僕とお付き合いしてくれませんか。
了承いただけるのであれば、明日の放課後、体育館まで来てほしいです。待っています。そうでなければ、この手紙は捨ててください。』
文章はそれだけだった。
簡素な便箋に、不器用ながらも丁寧な文字で、四行。
チョコレートをくれたのは、同じクラスの科学部の男の子だ。
男女合同の体育の時間に、一、二度喋ったかどうかの関係であった。
彼はマメな人のようで、バレンタインの日には、クラスみんなに有名なチョコ菓子を配っていた。
そうして、依鈴に配るとき、チョコ菓子と一緒に、この小さな手紙を依鈴の手のひらにのせて去って行ったのだ。
彼は成績がよく、人当たりもよい。
スケートのために部活にも所属していない依鈴と違って、いろんな学年の人たちとも仲がよくて、生徒会にも所属している。
真面目できちんとした人なのだ。
依鈴は迷っていた。
正直に言うなら、「どのように断るべきか」、真剣に悩んでいた。
依鈴は今なによりも、スケートが大切だった。
その次に、この風呂屋が大切だった。
交際するのだとしたら、どうしてもその人との時間を作る必要があるだろう。そうでなければ不誠実だと依鈴は思う。
けれどそれが、依鈴には面倒に思えてしまう。
誰かの隣で、誰かだけの自分が笑っているところをうまく想像できないのだ。
いや、想像できないのは嘘だ。面倒だというのも、きっと建前だ。
ただ、その『誰か』は依鈴の中でもう決まってしまっていて、それが叶わないことも依鈴は知っている。
他の誰かでは、きっとすべてが嘘くさくなってしまうから。
だから、断るのだ。
「ひとまず開店の準備をしよう……」
依鈴は「おし」と呟いて、立ち上がった。
と言っても、やることはお供えをして手を合わせることくらいだが。
菫は、菫の祖母と、姉ゆりと一緒に、菫の祖父のお墓参りに行っている。
本来なら昼の営業は閉める予定だったのだが、依鈴が番台に座ると自ら申し出たのだった。
番台の裏の小さな座敷の机の上に、和菓子屋しろうさぎのおまんじゅうが置かれている。
今日のおまんじゅうは、期間限定のチョコまんじゅうだ。あんこにチョコレートを混ぜ込んでいるらしい。チョコとあんこがそれぞれくどくなく、依鈴は気に入っていた。
「今日はコーヒー淹れよう。うん。このおまんじゅうには間違いなくコーヒーが合う……!」
昨日はほうじ茶と合わせて食べて、それもまた大変おいしかった。
それだけは伝えておく。
依鈴は自分の部屋からコーヒーのバラエティパックを二袋持ってきて、お湯を沸かして、コーヒーを二杯、ゆっくりと淹れた。
フィルターをコーヒーが落ちていく。
依鈴はコーヒーが落ちていくのを眺めているのが好きだ。
それを眺めるためだけに存在している、時間が好きだ。
入れたコーヒーと、チョコまんじゅうを神棚に並べる。
コーヒーの香りに満ちたその空間で、依鈴は二つ柏手を打つ。
「いつもありがとーございまっす」
閉じていた目を開く。
やはり、と言うべきか。
後ろでからりと引き戸が開いた。
「ここは……どこでございますか」
大人びた、けれど年若い、静かな声が問いかけた。
「お風呂屋さんです」
依鈴は答えた。




