8風呂目 機織女サラ・キルステン2
「やっぱり、気になるかしら……」
すらりとした華奢な背をシャワーから流れる水で流しながら、女性は言った。
彼女はサラと名乗った。
「い、え……その、少し……」
しどろもどろになりつつ、結局依鈴はそう答えた。
風呂を見たことがないというサラに付き添って、女湯の洗い場で依鈴は自分の髪を洗っている。
サラは外の日の光を知らぬような、まっしろな肌をしていた。
『雪の湯』のあるこの地は冬の日照時間が短いので、白い肌はよく見慣れているつもりであったが、サラのそれは殊に白かった。
そして、白磁の器のようにつるりと滑らかだった。
けれど依鈴をそれ以上に驚かせたのは、サラの胸から腹にかけてをざっくりと横切る大きな傷だった。
人の体をじろじろと眺めるだなんて、あまりにも無礼で不躾だ。
驚いたことを気取らせないようにと気を付けていたつもりだったが、やはり見抜かれていた。
傷つけただろうかと、依鈴は少し肩を落とした。
「いいのです。大した不便はないのですよ。あるとすれば、愛し合っていたはずの恋人に逃げられたことくらいでしょうか」
「……」
とんだクズがいたものである。
依鈴はそう思ったが、口にはしなかった。
「とんだクズがいたものよね」
と思ったら、本人が言った。
ならば依鈴も遠慮するつもりはない。
大きく何度も頷いた。
二人は湯殿へと向かう。
大きな風呂石に囲まれた露天風呂は、何人客が入っても余りそうなほどに広い。
山の上のほうから吹雪いてきた雪がちらつくが、空は晴れている。
湯煙の向こうでいくつもの星が瞬いている。
依鈴はこの湯に入るとき、なんだか不思議な気持ちになる。
一人のときも一人じゃないような。だけど一人のような。
孤独じゃないことだけが確かなような。
そんな気が。
隣を見る。
サラはぼんやりと空を見ていた。色素の薄い灰色がかった瞳に、夜空が映りこんでいる。
まとめあげた髪からひとつ、しずくが落ちる。
「……まだ、痛みますか」
それだけ、依鈴は尋ねた。
「どうかしら。……ときどき、わからなくなる」
サラは言う。
人の気持ちなんて、どこまで行ってもわかるわけはない。
わかるふりだけは―――わかったような気にだけはなりたくない。
それは依鈴が一番されたくないことである。
だから、何も言わなかった。
続きを待つでも、促すでもなく、依鈴はただサラと湯を共有した。
「……この傷は、昔つけられたものなのです。街を襲った野党に攫われたときに。傷物にすれば逃げられないだろうと」
サラは話し出した。
彼女は美しかった。
つやめく唇。薄い肌は上気すると一層たおやかだ。濡れた黒髪は色っぽく、長いまつげが伏せられていると、同性の依鈴さえ目を奪われる。
「何とか野党の目を盗み、命からがら逃げかえって来た私に、彼は言いました」
彼というのは、元の婚約者のことだろうか。
依鈴は思ったが、疑問は挟まない。
彼女の話を遮りたくなかった。
ふるりと、一瞬、サラのまつげが震えた。
「『僕というものがありながら抵抗しなかったのか』『僕以外の男に肌を見せたのか』『傷物になったおまえなど何の価値がある』、と……」
「っ……!」
依鈴は絶句した。
そんなのって……そんなのってない。
どれだけ恐ろしい思いだっただろう。野党から逃げ、やっとの思いで帰り着いた婚約者の顔に安堵して、そして突き落されるのだ。
その言葉が、表情が。
どれだけ、どれだけ……
サラを傷つけただろう。
「……なぜ、あなたが泣くのです」
サラが泣き笑いのような表情を浮かべた。
依鈴の頬を、いつの間にかぼろぼろと涙が伝っていた。
サラが仕方なさそうに笑うのが嫌だった。
「だっ……だって、だって……っ!!!」
しゃくりあげながら依鈴は泣いた。
みっともなかろうが、情けなかろうが。
「……いいの、もう、いいのです」
「よくないっ……! サラさんの心を傷つけておいて……! のうのうと生きてるやつがいるなんて……! いいわけあるか!!!」
ぱちくりとサラが瞬いた。
「サラさんを傷つけるすべての存在を許さない。そんな勝手なやつらを許さない。絶対、ぜったい……!」
「……」
「忘れないで。忘れないで、サラさん。帰っても忘れないで。私、怒ってる。この先何を誰に言われようと、あなたを傷つける存在を許さない者がいると、忘れないで」
ざばりと湯から持ち上げられたサラの手が依鈴の頬を撫でる。
人差し指が涙をぬぐう。
そして言った。
「いいの。私の代わりに、あなたが泣いてくれたから。……あなたが―――怒ってくれたから」
わんわんと泣く依鈴の涙をサラはじっと眺めていた。
「誰かが私のために泣いて、怒ってくれる……」
ぎゅうっと、サラが依鈴を抱きしめる。
「それがこんなにも、あたたかい」
そのとき、もう一つ、依鈴とサラを抱きしめる腕があったようなそんな不思議な心地がした。
二人を包むその腕は、サラの悲しみごと溶かしていくように、ゆっくりゆっくり背を撫でる。
「―――ありがとう」
サラの言葉は湯気に紛れて、しばらくの間その場所を包み込んでいた。
風呂からあがった二人は、体を拭き上げ、ごくごく牛乳を飲んだ。
まっしろのひげをつけて、二人は笑い合った。
帰り際、サラは言った。
「私、機織女なの」
「はたおり」
「そう。今日使わせてもらった布、とてもやわらかくて水をよく含む、素敵な布ね」
「タオルといいます」
そうなのですね、と少し頬を染めてサラは言った。
「いつか私、こんな布を織りたいのです。柔らかく包むように、誰かの涙を拭く布」
にこりと微笑む彼女の顔に、憂いの色はない。
「この場所と、あなたにそうしてもらったように」
依鈴は眉を下げた。
そして首を振る。
だって依鈴はただ、泣きわめいただけなのだ。
「お代は……」
「他からいただくので、気にしないでいいですよ」
「そうでしたか」
依鈴は微笑む。
歩き出すサラの背を押せるように。
「……またのお越しを」
こくりと頷いて、サラは戸の向こうへと帰って行った。
戸の向こうには、大きな木造りの機が見える。
サラはその機の前に座り、かたんかたんと糸を織る。
その音を耳に刻み込むように依鈴は聞いた。
からりと戸が閉まる。
番台の上に、女性一人分の風呂代と牛乳代が、ちゃりんと置かれている。
神棚に置いておいたクッキーは跡形もなくなっている。
がらりと、誰かが開けて入ってくる。
菫だ。
手に持っているのは和菓子屋しろうさぎの包みである。
あれはきっといちご大福だ。
「ただいまー。店番ありがとう。……あれ、依鈴さん、もうお風呂済ませたの?」
「はい」
「そっか。湯冷めしないようにね。ストーブ……は、ついてるね」
「はい。ありがとうございます」
番台を菫に代わってもらい、依鈴はまた後ろの座敷に腰かける。
さっきと同じように、依鈴は英語のワークを解いている。
かたん かたん
頭に響く、規則正しい機織の音。
かたん かたん
深い集中の海に潜るように、依鈴はその音に聞き入ったのであった。




