8風呂目 機織女サラ・キルステン1
依鈴の部屋は、『雪の湯』の離れの奥の、日当たりのいい場所に与えられている。
もとは菫が使っていた部屋だと聞いている。
手入れの行き届いた畳、隅々まで掃除された小ざっぱりとした印象のその部屋は、依鈴にとってもお気に入りとなった。
ゆり先生のおばあさま―――つまりこの『雪の湯』のもと経営者である櫻子さんが、依鈴が来る日に記念にと、机に置く明かりを買ってくれた。
レトロな和紙が周囲に貼られたそれを、依鈴は好んでよく使っている。
『雪の湯』の番台の後ろの座敷は、依鈴の今の部屋と雰囲気がよく似ている。
だから今日も、居心地の良いその場所で、依鈴は座って暇を持て余していた。
夕方になって、菫は何かを思いついたように外に出かけていった。
「店が開く時間には帰るから、少しだけ番台に座っていてくほしい」と依鈴に頼んで。
後ろの座敷で、手持ち無沙汰に英語のワークを解いていた依鈴は、その頼みに勿論頷き、いそいそと番台に座った。
菫から店番を頼まれることが最近増えてきた。
勿論依鈴のスケートや学問には支障のない範囲で、のことではあるが、依鈴はそれが嬉しかった。
自分にも、この『雪の湯』という場所での役割を与えてもらえたような気がしたのである。
ふと神棚を見上げると、そこには今日もお供え物がない。
もしや菫は、供え物を買いに行ったのだろうか。
少しの間悩んで、依鈴は自身のジャージのポケットを探る。
たしかこの辺に……
「あった」
取り出したのは、昨日友人から貰ったクッキーの包みである。
お菓子作りの得意なその友人のクッキーは、店に並ぶものと遜色ないともっぱらの評判で、自分の手柄でもないのに、依鈴の自慢であった。
大切な友人の特技が正当に評価されるのが、とても嬉しいからである。
依鈴はそれを大事に取っておいていた。
リンク練習の時に何度も手が伸びたが、やはりゆっくりと、美味しくいただけるときに食べようと思って我慢していたのである。
「特別に、二枚差し上げましょう」
依鈴はぷるぷると少し……いや、大変残念に思いつつも、皿の上に二枚のクッキーを置いた。
一枚はリボンの形、もう一枚はハートの形である。
そして急いで自分の部屋に行き、ドリップコーヒーのバラエティパックを三包み取ってくる。
一杯分を簡単に作れて便利なのだ。
沸かした湯で、まずは二杯、コーヒーを淹れる。
菫さんの分は、彼が帰ってきてから淹れることにしよう。
「……これでよし」
依鈴は供え物を神棚に並べ、うんと頷いた。
もしかしたら、今日もこの前のような客がやって来るかも知れない。
「いつもありがとーございまっす」
なんて、と。
半ばあり得ないと思いつつも、依鈴は柏手を二度打ち、そう口にする。
そうして目を開けたとき、背後の扉はからりと開いた。
「どなたでございましょう」
戸の向こうから聞こえてきたのは女性の声だった。
朝露のように澄んだ、まろやかな声だ。
そしてその声に重なるようにして、かたんかたんと、木が触れ合うような規則的な音がする。
「お風呂屋さんです」
依鈴は答えた。




