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 7風呂目 植物学者フロリアン・ホフマン2



 すっかり白髪の混じった髪を洗い、体の汚れを落として、フロリアンは湯殿へと向かった。

 外にある湯殿からは湯気が立ち上り、ふわりふわりと雪が降っている。

 風呂へと続く石畳は冷たく、植物が植わっている場所の土には霜柱が立っているのが見える。


「こちらは昼なのか」


 おそるおそる湯につかり、ぽつりとつぶやいて空を見上げる。

 昼下がりにしてはやや暗い雪曇りだが、キンと冷え込んだ空気は静かで、穏やかだ。

 案内してくれた青年は脱衣場の掃除をしていた。


 ふと顔をあげると、湯煙の向こうに人影が見える。

 そういえば青年が、普段この湯殿は多くの人が入ると言っていた。もう別の客がいるのだろうか。


「こんにちは」


 フロリアンが声をかけると、煙の向こうの人影はぺこりと頭を下げた。


「よいお湯ですね、とても」


 なおも言葉を続けると、その人影は少し迷ったように沈黙してから


「ええ」


 とだけ言葉を返した。


 もしかしたら、湯煙の向こうの人は、人と話すのがあまり好きではないのかもしれない。そうだとしたら、いきなり馴れ馴れしく声をかけたりなどして迷惑だったかもしれない。


 そのことに思い当り、フロリアンはそれ以上言わなかった。

 すると、その人影が申し訳なさそうに言う。


「すまない。貴殿と話したくないわけではないのだ。……ただ、向こうの国・・・・・から私の姿を見ることができる者が来るのは、初めてだったもんだから」

「……ずっと、ここに?」

「いいや。この風呂に番頭がいるだろう? あの若いの。彼が風呂を準備してから、客が来るまでの間だけ、邪魔させてもらっている」

「私のような客は他にも……いえ、なんでもございません。問うべきではありませんでしたね、ここでは」


 人影はゆっくりと首を振る。

 湯煙は、風が吹いてもなかなか途切れず、向こうの顔は見えない。

 おそらく見ることは叶わないのだろうという妙な確信がフロリアンにはあった。

 そういう決まりなのだろう。


 人影は話した。

 ひとりごとのようでもあり、語りかけるようでもあった。


「私は人と湯につかるのが好きでね。時折呼び寄せては、こうして勝手に一緒に入っている。そうしたら妻のイズメも真似をしてね。女湯はイズメが入っている。夫婦ともども、人と共にする大きい湯が好きなのだ」

「奥様がいらっしゃるんですね」

「ああ、さっきの番頭の祖母が私の妻さ。元は巫女だったんだ。そりゃあべっぴんで、気立てがよくて、くるくるとよく働く賢い妻でね。私の自慢さ」

「なるほど。それはよい。私の妻もとても素敵な人です。こんな研究バカを、そんなところが好きだと言って愛してくれる」

「ああ、それはよい人と一緒になったなぁ」

「ええ、お互いによい人をもらいましたね」

「まったくその通りだ」


 二人して、時間も忘れて妻の自慢をし合った。

 表情も、姿すらも見えないが、湯煙の向こうの人影は朗らかに笑っているのがわかる。それはそれは楽しそうで。

 彼はきっと、湯そのものよりもずっと、このように何かを人と分かち合うことが好きなのだろうとフロリアンは思った。


 この人影になら、どんなことを打ち明けても受け止めてくれるような気がして、ついポロリとフロリアンは言った。


「このような奇跡が、もう一度起きればよいのに……」

「ほう、奇跡か。なぜ、そのように思う」

「私は、ある植物の種を研究しております。けれどこの数十年を費やしても何一つ成果を得られずにおるのです。情けないことでしょう。私はその種の芽を出させ、花を咲かせてやりたいのです」

「そのことに、奇跡が必要なのか」

「……それを願うほどには、進捗がないのでございますよ。私が引退すればきっと、種の研究も衰退してしまうでしょう。私が諦めた日に、種の研究も終わりを迎えるのです」

「それが終わることは、貴殿を苦しませるのかね」

「……考えたことも、ありませんでしたが……」


 フロリアンは、言われて改めて考えてみた。

 研究がなくなってしまうことが、自分は苦しいのかどうか。


「解放されたように感じるかもしれませんね。私は、富や名声が欲しくはありますが、研究にそれを求めたことはない。だからきっと、研究がなくなれば好きなこともできて、妻と共に穏やかな時間を過ごしたりできて、きっと……きっと……」


 そこまで言って、フロリアンは天を仰いだ。

 己が本心で何を気がかりにしていたのか、気づいてしまったから。


「……それでもきっと、苦しいのでしょう」


 人影は何も言わなかった。

 フロリアンの言葉の続きをじっと待っていた。


「忘れられなくて、大切で。ほかにもっと大事なものがあると言われても、私はその種の花を咲かせることを、きっと諦められはしない。あの日あの光景に、縫い留められてしまって切り離せないのです」


 そうなのだ。

 フロリアンはきっと、諦められない。

 たとえ潮時だろうと、変人だと噂されようと、諦めたくとも。

 あの日の記憶が、感動が、それを許さないだろう。


「老い先短い老人の悪あがきだと、お思いになりますか」

「私の感想は貴殿の主義主張に関わりないと思うが、あえて述べておくと、私はそう思わない」

「ありがとうございます」


 人影はまた笑って、ゆっくりと首を振った。


「なんだか、体の底のほうから元気が湧いてくるようで。仕事を引退しようかと思っていたほどだったのに……。きっと、あなたのおかげです」

「私は共に風呂に入らせてもらっただけだ。あなたに元気が出たのならなにより。それでこそ、ここを作った甲斐があろうというもの」


 人影はそんなことを言ってから、湯煙の向こうで手を持ち上げた。

 ざばりと湯が流れ落ちる音がして、人影の人差し指がフロリアンの後方を指し示す。


「そろそろ時間だ。私の仕事は、よい頃合いで客人を風呂から出させることでもある。湯あたりする前に上がるとよい」

「そうでございましたか。では、そうさせていただくことにいたします」


 フロリアンは湯殿からあがり、なんとなくそうした方がよい気がして、人影に向かって一礼した。


「ありがとうございました。楽しい時間でございました」

「ああ。私もだ」


 人影がそう言ったとき、ふいに冷たく、強い風が吹いた。

 ざぁと音を立てて、湯煙が散る。

 フロリアンが顔をあげてから、またその場に湯煙が満ちるまでの一瞬、その人影の姿が見えた気がした。


 豊かな黒髪を後ろになでつけた年若い男の姿で彼は湯の中にいた。らんとした黄金きんの瞳と目が合う。


 それは瞬く間に湯煙に隠れて見えなくなる。

 今度は人影ごと、姿が消える。


「私は長いこと、この世を見てきたが……」


 そして声だけが、フロリアンの頬を撫でる風のように響いた。


「いつの世も、奇跡を起こすのは人であったぞ」


 それきりだ。


 あたりには、湯の流れる音と、それをかき消すような雪の日の静けさだけが、満ちている。

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