6風呂目 入江の町の幼馴染たち2
ほと、ほと、と湯が湯船にそそがれる音だけが響いている。
体を洗い終えたアルカナは、外の湯船に続く扉を開けて上を見上げた。
「……星が見える」
アルカナは呟いた。
アルカナの家に湯殿がないわけではないが、水を集めることが大変なので、半年に一度、領民に振舞う前の風呂に入るくらいである。
その湯殿だって、人一人がつかれるくらいの小さなもので、これほどまでに大きいものを見るのはアルカナは初めてだった。
ほかほかと立ち上る湯気の向こうに、零れ落ちそうなほどにさんざめく星々は、アルカナの知る配置ではなかったが、やはり美しかった。
古くから、星の並びやその位置は魔法と深く関連があったという。古代魔法陣の多くは星々の間を人が指で線を引いてつなぎ合わせたことが起源とされ、その形によってさまざまな魔法を生み出した。
また、たった一つ、夜の間に動かない星セプテントリオンは別名を方位星といい、航海や観測に役立てられてきた。
「この世界の方位星は、なんという名前なのだろうな」
長いこと星を眺めながら湯につかっていたアルカナはぽつりとつぶやいた。
「シリウスのことっすか」
突如、背後から声をかけられてアルカナはびくりと肩を震わせる。
湯につかったままで振り返ると、ここまで案内してくれた男が、服の裾をまくり、柄の長いブラシに寄りかかりながら立っていた。
アルカナが驚いたままで固まっていると、そんなことは気にした様子もなく、男は湯船に手を入れた。
「ん、湯の温度も大丈夫そうですね。今日の午前中、大掃除したんすよ。年末年始の営業の前に。ぼっちゃんは運がいいですよ。大掃除が終わった後の一番風呂ですから」
「一番、ですか」
「ええ。お邪魔してすみませんでしたね。ごゆっくりどうぞ」
「あ、あの!」
「はい?」
「若旦那さまは、お入りになったりは……?」
中に戻っていこうとする男をアルカナは引き止めた。
なんだか、一人で入るよりも誰かに隣に居てほしいと思ったのだ。
すると男は一度目をきょとんとさせ、それから、からからと笑った。
「そんな大層な呼び方しなくていいすよ。だいたい、さっきは『おまえ』だったんですから」
「う、あ、あれは……申し訳ありませんでした。心から謝罪申し上げます」
「いいすよ。ちゃんと謝れてえらいっす。……せっかくのぼっちゃんの誘いですから、ありがたくご相伴にあずからせてもらいましょうかね」
そう言って男は少しの間中に戻って、服を脱ぎ、体を洗い、腰にタオルを巻いて戻ってきた。
寒い寒いと言いながら慣れた様子で足に湯をかけ、戸惑いなく肩まで湯につかる。
「あ゛~~~~」
男は心底気持ちよさそうにお湯につかり、ゴクラクゴクラクと何かのまじないのように呟いた。
腰に巻いてあったタオルは、今は頭の上に置かれている。
こちらのことを気遣いつつも、必要以上に踏み込んでこない男の絶妙な距離感がありがたかった。それに誘われたのかどうかわからないが、アルカナはふと呟いていた。
「……俺の家は大きい。広くて、金があって、願えば何でも叶えてくれます。でもあいつはそうじゃない。俺が父に言われてなんとなく進学する学校に、あんなに焦がれて、努力して、それでも金がないから入れない。俺よりずっと……すごいやつなのに」
「へぇ」
男は、そう相槌を打つだけだった。そうしてただじっと遠くを見つめている。
ふと気になった。このひょうひょうとして身軽そうな男は―――スクナビコーナの使いは、最近アルカナをずっと悩ませている問いになんと返してくれるのか。
「俺たちの人生って、一体何で決まるんですかね」
「ただの風呂屋にそんな大層なことわかりませんよ」
男はやっぱりひょうひょうと、笑いながら答えた。
けれど、アルカナがじっと見つめると、そのときばかりは見極めるようにそれを見返した。
アルカナは目を逸らさなかった。男の答えが知りたかった。
やがて男が観念したように、ふぅと息をはく。
そしてこう言った。
「しいて言うなら、運じゃないですか」
「運……? それだけ……?」
あっさりとした回答に目を見開いたアルカナは、一拍遅れて、ふざけるなと思った。
子どもだと思って適当に返事をしているのか。
スクナビコーナの使いが、そんなことを言うのか。
「はい。そう思いますよ」
けれど空を見上げる男はもう笑っていなかった。いたって真剣な、あるいは悟ったような顔だった。いずれにせよ、それが男の心の底からの意見であることが、アルカナにはわかった。
「それなら、あいつの努力は一切意味がないってことですか。あいつの気持ちがどれだけ強くて、あいつがどれだけがんばってても! 環境のせいであいつはマグウィザードを受けられないってことですか。人生って、本当に、そんな運だけで決まってしまうのですか!!?」
「うん」
アルカナの叫びに、男はまたもやあっさりと頷いた。
「ぼっちゃんが偉い人の息子なのも運。ぼっちゃんのお宅が大きいのも運。同じように、ぼっちゃんが言う『あいつ』に才能があるのも運。それが花開くのも運。才能を生かして進学を選べるかどうかも運だ。それらはぼっちゃんたちの努力の量には何一つ関連しない。がんばっても報われない努力だって、当たり前にある。同様にその子がどんなにがんばっていても、進学ができないというのならそれは運が悪かったということだ」
そして、確認するようにアルカナの目を覗き込んだ。
「逆に、それ以外の要素があると言いたいんですかい、ぼっちゃんは。その子の努力が足りなかったと?」
アルカナは首を横に振った。
そうだ。それが運じゃないだなんて―――ローゼンの努力が足りないだなんて、どうして言えるだろう。
「いいですかい。人が『運』に触れることのできる唯一の方法は『選択』です。それも、一人のではなく、たくさんの人の」
唇を噛んで俯いたアルカナを見て、男が言った。
アルカナが顔をあげると、微笑んだ男の顔があった。
「『今』というのは『選択』の結果に過ぎない。努力を選択しても成功するかはわかりませんが、少なくとも努力した結果は得ることができる。大事なことは、『何を選ぶか』ということです。それは人が、『どうあるか』ということだから」
男の言うことは難しかった。とてもとても難しくて、けれどきっと、とても大切なことなのだということは分かった。
ああでもきっとローゼンならわかるのだろう。そうアルカナは思った。それが悔しかった。
だからいつかのときのために、一言一言を刻みつけるようにして聞いた。一言一句、決して忘れることがないように。
いつかこの男が言ったことを理解できる日まで、覚えていられるように。
「むずかしい話はこれで終わりっす」
男はそう言って空を見上げた。
「いい夜ですねぇ。この季節はこの辺り雪ばっかりで。ここは雪見風呂が自慢ですがね。星が見えるなんて、ぼっちゃんは運がいい」
「運……俺は、運がいいんですか。本当に?」
「ん? んん。そうすね。運がいいついでに、アイスもごちそうしちゃいましょう。どうです? 風呂上がりに甘いもの」
男に連れられて外に出る。
体を拭いて、服を着て、髪を乾かす。
おいでと手招かれた先で、男に見せてもらった冷たいショーケースには、くるくると渦を巻いたものや、水色のさわやかなパッケージや、つややかな茶色のソースのかかったようなものなど、さまざまな種類の『あいす』があった。
アルカナは思わず目をきらきらさせる。
好きなものを選んでいいと言って、男は笑った。
アルカナは茶色のソースがかかったものを選んだ。つややかなパッケージには高級感があって、きっとおいしいだろうと思ったからだ。
「はい、どうぞ。早めに食べてくださいよ。溶けちゃいますから」
「と、溶ける……?」
「そうです。溶けます」
男はショーケースから『あいす』を取り出し、パッケージを外し、アルカナに渡してくれた。
ぱくりと口に含む。ひんやりとした感覚の後に、驚くほどまろやかな甘さが口いっぱいに広がった。思わず手を止め、その甘さを大事に味わう。
その甘さの後にはまったりとしつつもさっぱりとした甘さがやって来る。これはきっと、この茶色のソースの下のクリーム色の部分だろう。
二種類の甘さが柔らかく調和し、口の中で混ざり合っている。
こんなに素晴らしい菓子は、領主の息子であるアルカナさえもまだ口にしたことはない。きっと神々の食べ物なのだろう。
「ああほら、垂れちゃいますよ、早くしないと」
男に指摘されて手元を見ると、言う通り、とろりと垂れたクリーム色の部分がアルカナの手を伝っていた。
あわてて『あいす』をすべて口に含む。ずいぶんと足の速い食べ物なのだなとアルカナは思った。
だからきっと、こんなにもおいしいのだと。
***
次の日。
早くから学校に来て待ち構えていたアルカナは、出入り口でローゼンを呼び止めた。
一つ結びの黒髪が見えた瞬間、駆け寄って言う。
「なぁローゼン、マグウィザードを受けないか」
「何、ルツキン。昨日の話? しつこい。受けないと言っているでしょ」
ローゼンは今度こそ、不快さを隠しもせずに、振り返りざまに言う。
でもここで引けない。アルカナはなおも続ける。
「おまえには才能がある。必ず、あの条件を達成する。なぁ頼む、この先も俺と勝負しよう、ローゼン」
「ルツキン、本当に怒るよ」
「俺が!!! おまえの運になるから!!!」
アルカナは叫んだ。必死になって叫んだ。
ローゼンの黒の瞳が、まんまるになる。
「おまえは俺と、魔法学校で勝負を続けるんだ。おまえが4位に入ろうが入るまいがな。おまえが勝負を受けない理由が、運が悪いせいだと言うなら、俺が運になる。『初級学校の同級生に金持ちの領主の息子がいた』。俺がその息子だ。俺が金を出す。おまえは運がいい。これで条件は対等だ。逃げるのか」
「馬鹿なこと言わないで。あなたのお金じゃないでしょう」
「もう父さまに頭を下げた。了承をもらっている」
「はぁ……?」
ローゼンの目はますます丸くなった。そこには驚きを通り越して呆れの色が浮かんでいるようだった。
アルカナは続けた。
「おまえに夢をあきらめてほしくないんだ。俺が。俺がいやなんだ。おまえ、母親の見ていた景色を見たいと言ったな。天文台の学者と対等に話せるようになりたいと。あれはウソか」
「ウソなわけがないでしょう」
「なら俺の夢は、おまえが夢をかなえる姿を見ることだ。おまえの努力の行く末を見届けることだ。勘違いするなよ。俺はおまえのためじゃなく、俺自身のために言っている。最初から」
「……」
「おまえを負かすのは俺だ。運じゃない。だから頼む……俺と一緒にマグウィザードに」
「もういい、わかった」
ローゼンはすげなく言ってアルカナに背を向ける。
ああ、やはり断られるのかとアルカナは思った。
ローゼンはアルカナに背を向けたままで言った。
「……もっと勉強して、魔法の練習をする。ルツキンのお家に、迷惑はかけられない」
「え……?」
それはつまり。それはつまり……!
アルカナは頬を紅潮させ、回り込んでローゼンの顔を覗き込んだ。
この石のような女が、どんな顔をしているのか見てやろうと思ったのだ。
ローゼンは微笑んでいた。それはアルカナが初めて見る、喜びからのローゼンの笑顔だった。
「ありがとう、ルツキン」
その礼の言葉を聞いた瞬間、アルカナの心臓がこれ以上ないほどに大きな音を立てて跳ねた。
アルカナはなぜか、その顔から目が離せなかった。からかってやろうと思っていたことも忘れ、ローゼンを見つめる。
「ルツキン……?」
固まったアルカナを不思議そうに見つめ、ローゼンは首をかしげる。
その声に正気に返ったアルカナは、自分が今どうしてローゼンを見つめていたのか正確に理解していた。
けれどそれを飲み込むには、まだ時期尚早だったようである。
「べっつに、うれしくなんてねーーーーーーーし!!!!」
そう言い捨ててアルカナは駆け出した。
真っ赤に熱を持った自分の顔と、耳と、首筋のことは知らないふりをして。
「ルツキンって、やっぱり変なの」
だからアルカナは知る由もない。運の悪いことに。
ころころと可笑しそうに笑う、フィオーネ・ローゼンの表情を。




