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 1風呂目 すみれ

 ふっと、硫黄の香りを含んだ冷たい風がよぎる。

 洗い場と露天風呂とを仕切るガラス戸が、細く開いて、かたかたと音を立てている。

 外は一面の雪景色。

 この辺りのこの季節、特に珍しくもないその光景に目をやり、持っていたデッキブラシに顎を置いて、ふぅっと小さく息をはく。


 時折吹く雪風に、湯煙がざぁっと流されては、またふわりと立ちのぼる。

 深い深い山の奥に、また長い冬が来た。

 雪に奪われたこの地の音と温度を、湧き出し続ける湯だけが、とくとくとまた生み出し続けている。


 『雪の湯』は風呂屋である。

 この町をずっと見守ってきた、古く寂れた銭湯である。

 源泉かけ流し、雪見の露天風呂が自慢の日帰り温泉で、入浴は一回三百円。営業は昼の三時から夜の六時。一旦風呂の掃除を挟み、夜の七時から十時まで。大晦日を除いて年中無休だ。

 板張りの休憩処きゅうけいどころに置かれているのは、牛乳を売る自販機と、アイスの入ったショーケース、革張りの古いマッサージ機が2台と、座卓とソファー、長椅子、それから1台のテレビ。

 大抵、夏には野球中継、冬にはフィギュアスケートがついて、常連客のじいさんが張り付いて見ている。

 常連の近隣住民と時折やってくる観光客に、湯と、清潔な浴場と、憩いの場を売る。そんなごくありふれた風呂屋である。


 碓氷うすいすみれは、その風呂屋を半年前に祖母から継いだ。歳は22。

 名前でよく間違えられるが、男である。

 菫は一年前、株と投資で一山当てた。一生食うには困らない、それはそれは莫大な財産を得た。

 あまりに規格外な富だったものだから、色んな人が菫をもてはやした。取材が来たこともある。政界からの誘いもあった。周りの態度は一変した。

 しかし菫は、急に怖くなってしまった。どこにいても場違いな気がした。

 そしてそれ以来、最低限の株と投資を除き、一切手を引いてしまった。

 『名は体を表す』とはよく言ったものだ。 菫はひっそりと生きていたかった。

 そんな菫を見て、当時近くにいた者たちはなんてもったいないと嘆いた。菫であれば、もっと高みまで行けるのにと。

 けれど菫にはわからなかった。駆け引きがうまいと言われることが嫌だった。騙し、騙されて、誰を信じればいいのかも分からなくなるくらいならそんな能力はいらなかった。

 働くわけでもない、ただ生活するだけの毎日は虚しかった。菫の周りは、菫の富を目当てにやってくる者たちで埋まっていた。

 こんな日々を、いったいどれだけの間続ければいいのだろうと思っていた。

 この余るほどの財産で、こうなる前の生活を買えるわけでもないのに。


 そんな日々を過ごしていた菫のもとに、ある日、姉のゆりから連絡があった。

『ばあちゃんの風呂屋を継ぐ気はないか』と。

 姉は子供の頃からのスケート好きが高じ、ついにはアイスダンスで全日本選手権に出るほどの選手になった人だった。28歳のときに現役を退いてからは、『雪の湯』の向かいにある『スケートリンクだいや』でスタッフの仕事をする傍ら、生徒数ふたりの小さなスケートクラブを運営していた。


「歳を重ねるにつれて、風呂屋を開けられない日が増えたことをばあちゃん悩んでる。だけど、父さんも母さんも日本にはいないし、私もこの仕事をやめたくない。菫、こっちに戻ってきて、おばあちゃんのお風呂屋さん継がない?」


 電話口の向こうで姉はそう言った。借金を求める電話ばかりの中で、それは奇跡のような誘いだった。

 菫は一も二もなく頷き、その日の内に都内のマンションを引き払って実家に帰った。

 そうして、いま菫はこの『雪の湯』の番台に座っている。


 この日も、菫は風呂の準備を終えてそこにいた。

 ストーブの上に置かれたやかんがしゅんしゅんと音を立てている。

 神棚の榊の水を変え、近所の和菓子屋のおまんじゅうを取り出す。ここに祀っているのは温泉の神様であると祖母が教えてくれた。「この風呂に来る人たちをみーんな見守ってくださるのさ」と言って、毎日欠かさずおまんじゅうを供えていた。

 だから菫もそうしている。温泉の神様が甘いもの好きかどうかは知らないが、まぁ嫌いでもないだろう。温泉まんじゅうとかあるし。

 今日はついでにあつあつの茶も添えておく。多めに淹れすぎて余らせてしまったのだが、このままただ冷めていくよりは、神様のおやつのお供になるほうがずっといいだろうと思ったのである。

 そうしていつもの通り供え物を並べ、ぱんぱんと柏手を打ち、手を合わせ、「いつもありがとーございまっす」と、ただ一言口にする。


 そうして閉じていた目を開く。

 と、同時にがらりと風呂屋の引き戸が開いた。




【日帰り温泉『雪の湯』は、今日も異世界に出没中】




「ん?」

「何者だ?」


 時計の針はまだ営業時間の三十分前。

 なぜもう客がと思って首をひねった菫の背後で、落ち着き払った声がした。

 振り向けば、妙な格好をした壮年の外国人の男がひとり。

 白い髪と口髭は丁寧に撫でつけられ、つるつるした生地のゆったりした服を着ていた。

 男は紅の布張りの柔らかそうな椅子に腰かけていた。

 銭湯の引き戸を隔てた向こう側が妙に明るい。まるで日の光が差しこんだ部屋のように暖かい光に満ちていた。

 つい数十秒前まで雪が降っていたはずなのに、不思議なこともあるものだと菫は思った。

 何者か知りたいのはこっちのほうである。


「風呂屋です」

「フロヤ?」


 男は首をひねる。

 菫は大浴場のある方の暖簾を持ち上げ、その向こうを指さす。


「温泉」

「オンセン……」


 ちらりと時計を見る。営業開始にはまだ早いが、まぁ誤差の範囲だろう。


「入ってみますか」


 菫は尋ねた。

 漏れ出てくるあたたかな空気に、男は椅子から立ちあがり、菫のほうまで歩いてくる。脱衣場の様子を見て合点がいったのか、男は納得したように頷いた。


「ふむ、浴場であったのだな。それにしても、これはなんとも面妖な香りであるが……」

「ああ、硫黄の匂いですね、それは。ここは源泉かけ流しだから」

「ゲンセンカケナガシ」

「湧いた温泉をそのまま引っ張って来てるってこと」

「ほう。初めて聞くが、それはさぞ良いことなのであろう。ぜひ入ってみたい。しかしこのような場所は初めてでね。不勉強ですまないが、お兄さん、入り方を教えてもらえるかね」

「かまいませんよ」


 不思議な男だと菫は思った。おだやかなのに、どこか人を従えさせる独特の重厚感がある。青みがかった理知的な瞳は、今はわくわくきらきらと楽しそうに煌めいている。そのゆったりとした態度にも、正反対の性質を併せのむ度量の深さが窺える。

 こちらにどうぞ、と暖簾をくぐって、菫は男を先導した。


「ここは?」

「脱衣場です。ここで服を脱ぐんです」

「なぜこんなに籠があるのだ」

「たくさんの人が入れるようにです」


 言いながら、裏返してある脱衣場の籠を表にし、菫は着ていたパーカーを脱ぐ。それから下に履いていたジャージも脱ぐ。下着も脱ぎ、腰にタオルを巻いた。


「裸になるのか?」

「ここは風呂ですよ。服着てたら、体の汚れは落ちませんからね。はいこれ、タオルです」

「ふむ、愚問であったな」


 男は頷いてタオルを受け取り、菫と同じような格好になった。

 洗い場につながる扉を開けると、硫黄の香りは一層濃くなり、立ち上る湯気が頬を撫でて行った。


「なんと……ここは神々の浴場か……なんたる広い浴槽だろう」


 隣で男の顔が一層輝いた。嬉しそうに湯船に近づいていく。


「危ないんで、走らないでくださいよ」

「心得た」


 駆け出しそうだった男は、菫の言葉にぐっと思いとどまったように直立し、そろそろと歩き出す。


「あと、先に体を洗ってくださいね」

「どのようにすればいい」

「そこ座ってください」


 男は言われた通り、菫の隣のシャワーの前に腰かけた。

 菫はやり方を見せるつもりで、蛇口をひねり、シャワーを出した。


「これは……まるでじょうろのようであるのにちょうどよく降りかかる水圧……水をくみ上げているのか? これはなんだね、お兄さん。一体どうやって……」

「ただのシャワーです」

「『しゃわぁ』とな。……あふぅ、これは良いものだ」

「そうですか」


 男は楽しそうにシャワーから出るお湯を体にかけて、次に菫の真似をして髪を濡らした。

 菫はシャンプーの容器の蓋を押す。かしゅかしゅ、ときっかり2プッシュ。

 男も続いて同じようにする。


「これは何かね……? ポーションにしてはとろりとしているが……」

「シャンプーです」

「しゃんぷー」

「これで髪を洗うんです」


 菫はとったシャンプーを手のひらで泡立て、髪につけてガシガシと洗った。


「ふむ、液状のせっけんというわけだな。……む、これは心地よい。良い薬材を使っているのだろうな」

「普通にドラッグストアに売ってるやつです」


 十分に髪を洗い終え、菫はきちんと洗い流す。髪にシャンプーが残るとかゆくなるので、きちんと流す。


「こっちはなんだろうか、しゃんぷーとは別なのかね」

「リンスです。髪を洗った後につけてすすぐとサラサラになりますよ」

「ふむ。ここに妻が居たら喜びそうだ。くせ毛に悩んでいたから」


 男は半信半疑でリンスを手に取り、髪になでつける。そしてシャワーでよくすすいだ。


「たしかに、普段より髪に艶があるような気がする。リンス……すばらしい薬材であるな」

「それはよかった」


 いちいち大げさな表現をする人だと菫は思った。シャンプーとリンスくらい、外国にもあるだろうにと。

 その後も男は、体を洗う牛乳せっけんに「ミルクの香りがする」と喜び、そのせっけんの質の高さに喜んだ。


「いよいよ湯に入れるのだな」

「こっちです」


 菫はペタペタと歩いて外湯へつながる戸を開けた。


「なんと……外に湯殿があるのか。さ、寒い……! 雪が降っている」

「早く入りましょう。滑らないよう気を付けて」


 体を洗い終えて湯の前に立った男は、嬉しそうに透明な湯を眺め、ほうっと息をついた。

 そして、先に入った菫を見、そろそろと足先を湯に近づけ、やがてゆっくりとその身を沈めた。


「「あ゛~~~~」」


 何とも言えない声が二人分揃う。

 菫が男のほうを見ると、男も同時に菫を見た。顔を見合わせて、互いにニヤリと笑う。

 なかなか分かっている。温泉に入るときは、こうでなくては。


「なんと美しい、澄み渡った湯だろうか。なのにとろりとまろやかで。こんなに湯をたっぷりとためてそこに浸かるだなんて……なんたる贅沢か。体の芯からほぐれるようだ。ああ、これはいい。外気で湯がちょうどよく冷まされて……ああ、なんとも柔らかい。降る雪が何物にも勝るうつくしさよ。まるで極楽のようだ」

「うちの自慢なんですよ。雪見風呂」


 にこりと男が微笑んだ。

 それまでずっと男を取り巻いていた緊張感のようなものが、ふっとほどけるのが分かった。

 肩の力を抜き、肩までその身を沈めた男は歌うように呟く。誰に語り掛けるでもなく。


「温かい。ああそうだ、とても、とても温かい。つい先刻まであんなにも心細く、王冠の重さに押しつぶされそうな心持ちであったのに。ああ、力がみなぎる。若返ったような心地だ。今ならなんだってできそうな心地だ。この湯の記憶だけで、どこへだって行けそうだ」


***


 風呂からあがって体を拭き、服を着て休憩所に戻る。


「お金は取りますからね」


 慈善事業ではないので、番台に戻った菫は目の前の男にそう言った。

 男はこくりと頷いた。


「それはそうだ。だが、今はちょうど持ち合わせがない。このロケットくらいしか出せるものがないのだ。振舞っていただいたすばらしい湯に足りるかわからないが、これで許してはもらえまいか。私の持っている物の中で、一番大切な品なのだ」


 男が差し出したロケットは、金で出来ているように見えた。だが菫にそれの真偽を見極められる審美眼はない。

 本物かどうかはわからないが、せいぜい一風呂分。取り立てて咎めるほどのことでもないだろう。


「毎度あり」


 菫はそう言ってロケットを受け取った。

 男は銭湯の引き戸の前に立つ。


「このユルゲン・シュトラウフ、心から礼を申し上げる。……おかげでようやく、あの椅子に座る覚悟ができた」

「うちはただの風呂屋ですよ」


 大袈裟な、と菫はへらりと笑う。

 男もまた、穏やかに微笑んだ。


「久しぶりに体が軽い。ありがとう」

「またのお越しを」


 男は戸の向こうへと去っていき、あの紅い布張りの椅子に腰かけた。不思議なことに、戸はひとりでに、からりと閉まった。同時に、ちゃりんと目の前で音がする。

 見ると、ぴったり一風呂分の入浴料が菫の前に置かれているのだった。


「え、ちょ、これじゃ取り過ぎだ」


 菫は慌ててロケットを手に取り、番台を降りて戸を開ける。

 まだ近くにいるはずだ。追いかければ間に合うだろうと。

 しかし、辺りをどれだけ見渡しても男の姿はなかった。男が座ったはずの椅子もない。

 外はまた雪が降っていた。静かに降り積もるその白に、先ほどまでいたはずの男の足跡は見つからなかった。


「次に来たら、返さなくっちゃなぁ」


 ロケットを開けると、中は鏡になっていた。蓋の裏には、雪の結晶を象ったような緻密な紋様が彫り込まれている。

 中に戻って神棚を見ると、供えたはずのまんじゅうと茶がきれいさっぱりなくなっていた。


「……あなたの仕業ですか」


 そう問いかけ、しばらく見つめてみたものの、神棚はうんともすんとも言わなかった。

 ストーブの上に置かれたやかんがしゅんしゅんと音を立てている。

 かちりと時計の針が三時を差した。


 またがらりと戸が開いた。


「あー寒かった。よぉ、スミちゃん、やってるかい」


 祖母がやっていた頃からの常連の爺さんの声だ。菫ははぁいと振り返り、番台に座る。


「三百円になりまぁす」

「はいよ」


 暖簾の奥に行く爺さんを見送って、菫はロケットを番台の後ろの壁にかけた。


 またがらりと戸が開いて、客がやって来る。

 『雪の湯』は風呂屋である。



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