母が語る花魔法の掟
夜は雨上がりの匂いを残し、村全体を静かに包んでいた。
遠くの森で、かすかに蛙が鳴く。
空には星がちらほらと浮かび、湿った風がカーテンを揺らした。
母リサは台所で小さな火を灯し、ハーブを煮込んでいた。
カモミールとラベンダー、少しのミント。
その香りは、花のようでいて、涙のように優しい。
「……眠れないの?」
椅子に座るエリアに、母が微笑んだ。
「うん。お母さんも、歌いすぎて疲れてるでしょ」
「ええ、少しね。でも、あなたが無事でよかった」
リサはスープ皿を二つ並べ、湯気の立つハーブティーを注いだ。
夜の光の中で、その手は少し震えている。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
「昼に言ってた“約束の続き”って、なに?」
リサは少しだけ間を置いて、火を見つめた。
炎の揺れが瞳の奥に映る。
「エリア……。花の魔法には、ひとつだけ掟があるの」
「掟?」
「花は、咲くために枯れなければならない。
そして――枯れることで、次の命をつなぐの」
エリアは首をかしげた。
「それって、悲しいことなの?」
「悲しいようで、そうでもないのよ」
母は柔らかく笑う。
「花はね、“誰かに見つけてもらうため”に咲くんじゃない。
“世界を少しでも明るくするため”に咲くの。
そしてその役目を終えると、自ら眠りにつく。
でも、根っこは残るのよ。そこからまた、新しい花が咲く」
「じゃあ、枯れても……死んじゃうわけじゃないんだね」
「そう。だから、花魔法の本当の力は――“命をつなぐこと”。」
リサはゆっくりと立ち上がり、戸棚の奥から小箱を取り出した。
木の箱の表面には、古い紋章が刻まれている。
六枚の花弁。その中心に、光を宿す石。
「これはね、“継承の花”」
箱を開くと、中には小さな白い種が入っていた。
ふわりと光を放つそれは、まるで生きているように呼吸している。
「あなたの心が、本当に“咲く”とき。
この花は、あなたの魔法とひとつになる。
でも、それはまだ早い。――だから、今は預けておくわ」
リサは種をエリアの手のひらに置いた。
温かい。けれどその奥に、微かに冷たい震えを感じる。
「ねぇ、お母さん。黒い風は、また来るの?」
「……そうね。きっと、来るわ」
「じゃあ、どうして止めないの?」
リサの瞳が、少しだけ悲しげに揺れた。
「黒い根は、誰かの“悲しみ”から生まれる。
戦うだけでは、消えないの。
誰かがその悲しみを抱きしめて、癒してあげなければ」
「じゃあ……お母さんが、その“誰か”になるの?」
「もし、そうなったとしても――怖がらないで」
エリアの目から、ぽたりと涙が落ちた。
リサは膝をついて、娘の頬を拭った。
「泣き虫さん。ほら、花たちが笑ってるわ」
窓の外では、夜風に乗って庭の花々がそよいでいる。
その光景を見ながら、リサは静かに続けた。
「いつかあなたが、自分の花を咲かせたとき。
世界のどこかで誰かが泣いていたら――その人に花を渡してあげなさい。
その花は、“あなたの心”だから」
エリアは小さくうなずいた。
母の言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
やがて、眠りに落ちるように目を閉じた。
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その夜、風は静かだった。
ただ、遠くの森の奥で、何かが蠢く音がした。
リサはエリアの寝顔を見つめながら、胸のブローチを外す。
白い花弁が光を放ち、部屋の中を柔らかく照らした。
「……ごめんね、エリア。
あなたが“咲く”とき、私はきっと――そばにいられない」
小さく囁き、母は光を胸に押し当てた。
花弁がひとひら、空気の中で消える。




