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【連載版】花の魔法使いエリア ~咲き誇る心のままに~  作者: 浅井 裕


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2/8

村に広がる異変と母の行動

 暗雲は、まるで夜をちぎって貼りつけたような不自然さで村の上に垂れこめた。

 畑の麦が一斉に頭を垂れ、風見鶏がぎいと鳴く。

 家々の窓がばたばた閉まり、通りにいた人たちが慌てて屋内へと走り込んだ。


「エリア!」

 家の戸口で、母リサが腕を広げた。

 あたたかな胸に抱き寄せられた瞬間、冷たい空気が薄皮一枚分遠のく。


「黒い風が来るわ。怖がらなくていい、でも外には出ないで」

「黒い風って……リュミナが“根の影”って言ってた」

 母の瞳が一瞬だけ鋭く細くなり、すぐに柔らかな色へ戻る。

「そう。花はよく知っているの。私たちが気づくより、ずっと早く」


 母は戸を閉め、窓辺の鉢植えに触れた。

 葉の一枚一枚に光が走り、部屋の空気がふっと明るくなる。

「家の中に“花の膜”を張ったわ。少しは楽になるはず」


 そのとき、外から怒鳴り声が響いた。

「リサ! 村長が広場へ来いってよ! 祈祷をするんだと!」

 呼びに来たのは向かいのパン屋の主人だったが、声には焦りが滲んでいる。


 母は短く息を吸い、エリアの肩に膝をついて目線を合わせる。

「エリア、いい子で兄さんとここにいて。私は広場に行ってくる」

「わたしも行く。お母さん、ひとりはだめ」

「……あなたの気持ちは嬉しい。でも、今日は特別。――約束して」


 その言葉に、エリアの喉がつまる。

 約束。

 母が本気で“子どもを置いていく”ときだけ使う言葉。


「……わかった」

 震える声で答えると、母は優しく微笑み、額にキスを落とした。

「すぐ戻るわ。花がそう言っているから」


 母が戸口へ向き直ると、家の奥から足音。

「母さん! 俺も行く!」

 兄のルークが、古い革のジャケットを引っかけ、木槍を抱えて飛び出してきた。

「だめ、ルーク。今日は“槍”の出番じゃないわ」

「じゃあ何の出番だよ。空がこんな黒いのに」

 母はルークの槍を握り、柄の節を軽く叩く。「家を守って。……お願い」


 兄は為す術なく立ち尽くしたが、やがてエリアを見て、悔しそうに唇を結んだ。

「……わかった。エリア、窓から離れるな」


 母が外へ走り、戸が閉まる。

 家の中に、雨の匂いと乾いた土の香りが濃く溜まった。


 しばらくして、村の中央広場の鐘が、低い音で三度鳴る。

 “集まれ”の合図。

 同時に――エリアには、別の音が聴こえ始めた。

 か細い、けれど切実なささやき。床下から、壁の隙間から、鉢植えの根から。


『痛い、重い、冷たい……』

『光が吸い取られる……』

『ねぇ、まだ春でしょう? 咲いていたいの』


 花の声。

 エリアの胸がぎゅっと縮む。


「ルーク、花が泣いてる」

「耳をふさげ。……だめだ、やっぱり俺、広場へ――」

 兄が動こうとした瞬間、戸がどん、どんと叩かれる。

「ルーク! 開けろ、手を貸してくれ!」

 幼なじみのティオの声だ。兄は戸を開け、ティオとその父親を迎え入れる。

「畑の小屋の屋根が飛びそうだ。板と釘を貸してくれ!」

「裏にある! 父さんの工具も持っていけ!」

 短い言葉がぶつかり合い、二人は再び風の中へ消えた。


 戸が閉まり、ふたりきり。

 窓越しに、広場の方角で青白い光が走るのが見えた。

 エリアは思わず手を合わせ、低く祈る。

(お母さん……)


 ふ、と。

 白いチューリップの鉢が、独りでに小さく震えた。

『エリア、眠ってはだめ。――来るよ』

「なにが?」

『根。黒い根。目に見えない細い糸みたいなものが、土のなかを伝って』


 そのときだった。

 家の床板の隙間から、墨を落としたような黒い筋がすうっと伸びた。

 細い、けれど確かな“影の根”。

 それは躊躇なく鉢植えの土へ潜ろうとする。


 エリアの体が先に動いた。

 小さな掌を土に押し当て、囁く。

「入っちゃだめ。――ここは、花の場所」


 温かなものが指先に集まり、掌の下で柔らかな光が灯る。

 黒い筋がじり、と後退し、床の影に溶けた。

 花はほっと息をつき、葉が一枚、さやと鳴る。

『ありがとう。あなたの声は、春』

 エリアはうなずき、鼻の奥をすする。

 怖い。でも、できる。

 “わたしには、できる”。

 母がいつか言ったとおりに。


 やがて、外の気配が変わった。

 遠くで歌が聴こえる。

 母の声だ。

 広場の祈祷ではない、古い旋律――花へ捧げる“起歌おこしうた”。


「……お母さんの歌」

 エリアは思わず窓の錠を外し、ほんの少しだけ隙間を開ける。

 冷気が頬を刺すが、歌がはっきり届いた。


 ――♪ 咲きなさい 風の子 陽の子

    眠る根を、やさしくほどいて


 歌に呼応するように、村中の屋根や垣根に絡む蔦が、静かに輝く。

 硬く縮こまっていた蕾が、かすかに呼吸をし直すように膨らんだ。

 家の中の花たちも、いっせいに葉を上げる。

 花の声が、さざなみのように重なった。

『あったかい』『ひかり』『まだ咲ける』――


 けれど、次の拍。

 歌の底で何かが引っかかった。

 上流で石が積まれ、水がせき止められるような、不穏な重み。

 エリアの背筋に寒気が走る。


 窓の向こう、広場の上に黒いしみが生まれた。

 小さな点。

 だが、見る間にじわじわと広がり、地面を濡らす油のように光を吞みこむ。

 人々が悲鳴を上げて後退し、その輪の中央に――母が立っていた。

 母は歌をやめない。

 でも、黒は止まらない。


 エリアは戸口へ駆け寄る。

「待て!」

 兄の腕が背から回り、しっかりと抱きとめる。

「約束したろ。母さんを信じるって」

「でも、あの黒、歌を食べてる……!」

 兄の喉がごくりと鳴った。

 彼もわかっているのだ。

 母の歌の上を、黒い影が薄い膜のように覆い始めていることを。


 次の瞬間、広場の方角から、風の向きが変わった。

 湿り気を孕んだ重たい風。

 花たちの声が、いっせいに低くなる。

『もどって』『深くへ』『眠って』

 ――“退け”ではない。

 “鎮め”だ。

 母は戦っていない。

 和らげ、眠らせ、かわしている。

 子どもに語りかけるような、根気のいる手つきで。


「……お母さん」

 エリアは胸の前で両手を握り合わせる。

 母のやり方が好きだった。

 刺すのではなく、撫でる。

 砕くのではなく、解く。

 それでも、黒は大きくなる。


 花瓶のチューリップが、突然ぱん、と音を立てて弾けるように開いた。

 花弁がひとひら、エリアの掌へ落ちる。

 花の声が耳奥に刺すほど鋭く届いた。

『――呼んで。“根の名”を。あなたなら、届く』


 根の名。

 母が昔、焚き火の夜に語ってくれた。

 世界は“名”でできている、と。

 名を呼ぶことは、触れること。

 触れることは、責任を持つこと。


 エリアは目を閉じ、床下の冷たい影へ囁く。

「ねぇ、そこにいるなら教えて。あなたの名は――」


 黒い筋がすっと浮かび、ひと筆書きの記号になった。

 幼い子が初めて書くような、簡素な線。

 しかし、その形は不思議と心に残る。

 見たこともないのに、昔から知っていた気がした。


「……コルナ」

 口から零れた音が部屋の空気を震わせ、窓を震わせ、遠くの雲をも震わせる。

 広場の黒が、びくりと跳ねた。

 母の歌が、一瞬だけ深く潜り、すぐさま別の旋律へ繋がる。

 “起こす”歌から、“眠らせる”歌へ。

 重なる二つの声が、黒の皮膜の綻びを探す。


 ルークが眉をひそめ、エリアを見る。

「お前……今、何をした」

「名前を、呼んだの」

「誰の」

「根の。――“ここにいるよ”って、言っただけ」


 兄は言葉を失い、短く息を吐いた。

 そのとき、戸口が突然叩かれる。

「ルーク! エリアちゃんもいるか! 村長が家々の灯りと花を“広場へ向けろ”って!」

 ティオだ。

「どういうことだ」

「リサさんの歌を手伝うんだ! 花の香りと光を通して、道を作るって!」


 兄は迷わず頷くと、家中のランプを掴み、窓辺の花を抱えて戸外へ飛び出した。

「エリア、ここで――」

 言い終える前に、エリアも鉢を胸に抱え、兄の背に続く。

 兄が振り返る。

「ダメだって言っても、来るんだろ」

「うん」

「じゃあ離れるな。手、出せ」

 握られた手は、少し汗ばんであたたかい。


 外は、黒と白の境界だった。

 屋根の雪は灰色にくすみ、空の雲は縫い跡のように裂けている。

 広場に近づくほど空気は重く、言葉が喉に貼りつく。

 それでも――灯りと花の列ができていた。

 家々の窓からランプが差し出され、門扉や塀の上に鉢植えが並ぶ。

 花の香りが細い道になって、広場の中心へと伸びていた。


 中央に、母。

 歌う母の足元へ、道はまっすぐつながっている。

 黒い皮膜はその道をぐるりと避け、触れようとしては退き、また押し寄せる。


 エリアは自分の鉢を列に加え、掌を土へ。

「ここだよ。ここを通って。――お母さんのところへ」

 花の葉がぴんと伸び、白い香りがふわりと強まる。

 列に連なる花々が、次々と低くうなずいた。

『行って』『渡して』『つなげて』

 香りの道は濃くなり、母の歌と重なる。


 黒が、焦っていた。

 空の縫い目から新たな影が垂れ、道を横切ろうとする。

 エリアは一歩前へ出て、息を吸う。

 胸の奥で、さっきの記号が白く燃える。

(名を呼ぶ。触れる。責任を持つ)


「――コルナ。ここにいていい。

 でも、踏んじゃだめ。道は花のもの」


 黒い蔓が、彼女の足もとでぴたりと止まった。

 ほんの一拍。

 やがて、その端がゆっくりと折れ、道を避けるように退いた。

 ざわっ、と村中の花が拍手するように葉を鳴らす。

 兄が信じられないものを見る目でエリアを見た。

「……お前、すげぇな」

 エリアは照れて肩をすくめる。

「花が、教えてくれただけだよ」


 道が最後に母の足元へ届いた瞬間、歌が大きくふくらんだ。

 母の周囲で白い光が渦を巻き、黒の皮膜が裂ける。

 雨が一滴、二滴――やがて、ざぁっと降り始めた。

 洗い流されるように黒が薄まり、空の縫い目が閉じていく。


 人々の歓声。

 泣き笑いの声と抱き合う腕。

 兄がエリアの肩をがしっと抱いて上下に揺する。

「やった! やったぞ、エリア!」


 だが。

 母だけが、笑っていなかった。

 光の渦が収まると、母はふっと膝をつき、胸の辺りを押さえて静かに息を吸い込んだ。

 エリアの足から血の気が引く。

「お母さん!」

 駆け寄ろうとした瞬間、母は顔を上げ、いつもの穏やかな微笑みで首を横に振った。

「大丈夫。……今日は少し、歌いすぎただけ」


 けれど、その目の奥に、深い疲れが沈んでいる。

 母はそっと手を広げ、エリアを抱き寄せた。

「ありがとう、エリア。あなたの道が、助けてくれた」

 耳元で、ほんの微かな囁き。

「今夜、話そう。――“約束”の続きを」


 その声に混じって、風が小さく鳴った。

 東の森の方角から、別の気配。

 花でも、村でもない、よそ者の匂い。


 エリアは母の背中越しに暗い森を見つめた。

 花びらが一枚、ひらりと舞い落ち、濡れた石畳に貼り付く。

 雨脚はもう弱い。

 しかし、その夜が“別れの夜”になることを、

 このときの彼女はまだ知らなかった。

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