第九話:名も知らない、すれ違う心
放課後にしては、まだ陽射しがまぶしかった。
昼間の暖かさがまだ残っていて、体操着の上から流れる汗がじんわりと肌に張りついていた
グラウンドはまだ賑やかだった。
その中で私は、ひとり静かに呼吸を整えていた。
トラックの真ん中では、誰かの足音と息遣いが規則的に響いていて、
その外側では、私は他のマネージャーたちと一緒にタオルの整理をしていた。
ときどき、視線が自然と彼の方へ向いてしまう。
考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
他のマネージャーが持っていたタオルを受け取り、陸上部の共用バッグに入れながらも、
遠くから聞こえてくる足音が、どうしても気になって仕方がなかった。
近づいては、遠ざかって、
また戻ってくるそのリズムのなかで、
彼が今、何周目なのかもわからないまま、
私は同じ動作を繰り返していた。
「鹿島さん、それ、ここに入れて大丈夫だよ」
横からかけられた声に、ハッと我に返った。
「あっ、はい。ありがとうございます」
顔を上げると、マネージャーの先輩が微笑みながらバッグを私の方へ押してくれた。
「気にしないで。最初はみんな、わかんないことばっかだから」
そう言って、先輩はまた陽射しの方へ視線を戻した。
私はバッグの紐を握ったまま、どこかぎこちない姿勢で止まっていた。
タオルを入れようとした手が、ふと、そこで止まった。
顔を上げなくてもわかる。
トラックの上、陽射しを裂くように走っていたあの姿が、
今も変わらず──そこにあることが。
「……」
他のマネージャーたちは、すでに次の作業へと移っているようだった。
ひとりで少しだけ遅れて、何となく、タオルをもう一度たたんでからバッグに入れた。
ようやく意識が戻ってきた。
慌てて体を反転させて、他のマネージャーたちのところへ足を向けた。
「鹿島さん、大丈夫?」
少し離れたところで、先輩がタオルの束を手にしていた。
すぐに駆け寄って、それを受け取った。
「すみません、遅くなって」
「ううん、ゆっくりでいいよ」
先輩はやわらかく笑いながら、タオルを渡してくれた。
私は軽く会釈して、その手元の感触に意識を向けた。
──それでも、
どうしても、耳が他のほうへ向いてしまっていた
グラウンドを走る足音。
耳に残る、あのリズム。
今、何周目なんだろう。
でも、それは重要なことじゃなかった。
大事なのは、
どうしてかその音を聞くたびに、
胸のどこかが静かに震えるような気がしたってこと。
だめ、
今は集中しないと。
私は両手で自分の頬を、そっと二回叩いた。
「はい。このタオル、日当たりのいいところで干しておいてくれる?」
別の先輩がバスケットを持ち上げながら声をかけてきた。
私はうなずいて、すぐに手を伸ばした。
「あっ、はい」
バスケットを持ってグラウンドの端のほうへ向かった。
フェンスの近く、日差しがよく入る場所を選んで、
一枚ずつ丁寧にタオルを干しはじめた。
風が軽く裾をなでていく。
陽射しはタオルの上に、均等に降り注いでいた。
こうやって、手だけ動かしていれば──
少しの間だけでも、
余計なことを考えずに済む気がした。
タオルの端を広げかけて、
指先でもう一度布をなぞった。
整えたはずの折り目が、なぜかずれていくような気がした。
「でもさ、後藤くんって……」
遠くないところで、
ほかのマネージャーたちのグループから小さな声が聞こえてきた。
「……なんか、淡白じゃない?」
「そうそう。誰から見ても人気あるのに、本人はまるで興味なさそう」
「それなのに、かっこいいって思っちゃうんだよね。ああいうクールさ、反則だわ」
私は顔を上げなかった。
手はずっと、タオルの上をなぞっていた。
でも、視界はぼやけていて、
自分がどこに焦点を当てているのかも、はっきりしなかった。
だからだろうか。
干していたタオルの端を、
もう一度押さえてみた。
角を整えるふりをしながら、
すでにきれいに広げたものを
何度も触り続けて──
私は今、
何を直そうとしていたのかさえ、
よくわからなくなっていた。
ただ、思考がどんどん
変な方向に流れていくような気がして──
それを、どうにか沈めたかった。
次のタオルに手を伸ばしかけたそのとき。
「話しかけにくくない?」
背後から、どこかくすくす笑うような声が飛んできた。
「そうそう。さっきも誰か挨拶してたのに、スッと笑って通り抜けてさ〜」
「でも、そういうの逆に印象に残らない?」
「後藤くんってさ、別に何もしてないのに、不思議と気になっちゃうんだよね」
──コツン。
胸のどこかを、軽く叩かれたような感覚。
自然と視線が下を向いた。
なんでもない会話のはずなのに、どこかぎこちなくなってしまった。
その瞬間だけ、何かが膨らんで、
すぐに静かにしぼんでいくような気がした。
重さはないのに、確かに響いていた。
それがどんなものだったのかまではよくわからなかったけど──
あのときの私は、しばらく動けなかった。
グループの中の先輩たちの言葉は、私に向けられたものじゃなかった。
なのに──
「そのうち、誰かが告白しちゃったりして」
先輩たちの間で、軽い冗談のように言葉が飛んだ。
別の先輩が笑いながら応じる。
「それは困るよ。後藤くん、あんなに気を配ってくれるのに。私たちだけでも、線引きちゃんとしないと」
「うん、マジでそれ。告白なんかしちゃったって、関係が気まずくなるだけだもん」
「今の距離感がちょうどいいんだよね」
「だからさ、見てるだけにしよ〜」
「クサッ、それな。ラクすぎて逆にズルい」
軽い笑いが輪の中に広がっていった。
私に向けた言葉じゃないのに、
なぜか──
胸が締めつけられるような感覚
私は、
ただうつむいたまま、
タオルの端をずっと触っていた。
それが整っているのか、乱れているのか、
もう、自分でもよくわからなかった。
「でもさ」
また先輩たちの会話が続いた。
「1年生の中から、狙う子出てくるかも」
「そうだ、それ。後藤くんに一番近いのって、あの子たちじゃん」
「後藤くんって、無意識に面倒見よすぎるからさ」
「あの年頃なら、そういうの全部特別にじちゃうし」
「もし“目線が変わった”って思えたら、すぐ言うこと。いいね?」
「やたら変に近づいたら、関係崩すってもん知らないやつ、いそうにないけどね~アハハ!」
ちょっと冗談まじりの口調だったけど、
私は、
その一言一言がずっと耳から離れなかった。
別に私を名指ししたわけでもないのに、
どこかで、
静かに──
名前も出ない会話が、
私を中心にして、回っているような気がした。
干し終えたタオルを一通り見直して、
何となく一枚をもう一度めくってみた。
そのとき──
「そろそろ片づけよ。影になったら乾かないし」
先輩の一人がぽつりとそう言って、
ほかの皆も、
それぞれバスケットを手にゆっくりと動き出した。
私はタオルの端をもう一度押さえた。
日に温まった布の手ざわりが、指先をすり抜けていく。
その何でもない感触が、なぜか、ずっと残った。
少し止まっていた体を、ようやく静かに動かし始める。
バスケットを手に取って、
先輩たちのいる方へ、
自然と歩を進めた。
前の方から聞こえてくる笑い声が、
なぜか、遠く感じた。
片づけが終わったあと、
マネージャーたちは木陰に集まって座っていた。
誰が言い出したわけでもないのに、
整理を終えた手で水筒のふたを開けたり、
服の裾についた土を払ったり——
いつもと変わらない光景だった。
その中で、三年の先輩のひとりが、笑いながら口を開いた。
「みんな、今日もお疲れさま」
言い方はゆるくて、声はやさしかった。
「顧問の先生が言ってたよ。
うちのマネージャーは、本当にまじめだって。
選手たちも、みんな感謝してるって」
そう言ってから、
自分の水筒のふたをゆっくり開けて、言葉を足した。
「特に後藤くん。
最近、前よりも無口になってるんだって。
楽だけど、逆に静かすぎて困るって」
「それ、もともとの性格でしょ」
別の先輩が笑いながら応じる。
「嫌いってわけじゃないけど、ちょっと声かけにくいよね」
「マジでそれ。だから、誤解されないように、気を付けよ?皆」
また別の先輩が水筒を置きながら話をつないだ。
「この前さ、後藤くんが水筒返すときあったじゃん。
一年の子が“ありがとうございます〜”って、けっこう距離近めで言ったら、
無言でくるっと背中向けたんだって」
「えー、マジで?」
「うん、それ聞いた子がいてさ。
たぶん、ただびっくりしただけなんじゃない?」
何気なくするような会話の中。
私は黙って聞くことしか出来なかった。
「一年のみんなも、知ってるよね? 後藤くんって、
ああ見えて、ずっとああいう子だから」
先輩は水筒を置いて、静かに笑った。
「あんま、喋らないの、皆好みでしょう?ああいう感じ」
それから、少し間を置いて、
無造作にこう付け加えた。
「別に特別な意味なんてないから」
それは、
誰に向けたわけでも、
何を狙ったわけでもない言葉だった。
流れでぽろっと出たにすぎないのに——
なぜか、それがずっと残った。
他の子たちがうなずくのに合わせて、
私も、ただうなずいただけだったのに——
なぜか、胸のどこかが静かに鳴ったような気がした。
言葉ではうまく言い表せないけど、
その瞬間、どこか反応を間違えたような、
妙な感覚が残った。
ただ、空気に合わせただけなのに、
なぜか——私だけが、どこかズレてしまったような気がした。
みんなが水筒を閉じて、ゆっくり立ち上がる。
誰かは、軽く伸びをして、
また別の誰かは、
「今日、ほんと暑かったよねー」
なんて言いながら、
グラウンドの外側へと先に歩いていった。
解散の雰囲気が自然と漂い、
皆揃って脱衣室へと歩みを踏んだ。
私もその輪に混ざって、ゆっくり動き始めた。
他の人たちがどんな表情をしていたのかは、
あまりよく覚えていない。
ただ——
静かに後片づけをしながらも、
胸のどこかが、
小さく揺れている気がした。
誰かに名前を呼ばれたわけでもないのに、
なぜか、
自分に向けられた言葉のように感じてしまうのは、どうしてなんだろう。
なぜ、
ただそれだけのことで——
歩く足が、少しだけ重くなるんだろう。
誰も私を見ていなかったのに、私は——
なぜか、見られている人みたいに、そっと動いていた。
気がつけば、指先に力が入っていた。
汗なんて一滴も出ていないのに、
どこか体力を奪われるような感覚だった。
言葉にできない感覚が、
身体のどこかに、うっすらと残っていた。
実は、ここで止まることもできたのかもしれない。
そうしていれば、よかったのかもしれない。
でも、
そのあとに待っていたのは——
指先が焼かれるような、まだ消えきらない灰色の温もりだった。
第九話までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、鹿島綾乃の視点から、
名前の出ない会話や、さりげない言葉に揺れる心を描いてみました。
自分に向けられたわけではない一言でも、
なぜか胸の奥に響いてしまうことがある。
その小さなざわめきが、彼女にとっては大きな意味を持つのかもしれません。
ただ空気に合わせていただけなのに、
どこかで自分だけがずれてしまったように感じる瞬間。
その違和感こそが、綾乃の繊細さを映し出し、
静かに心の奥に残っていくのだと思います。
彼女の中に芽生えた揺らぎが、
今後どのように姿を変えていくのか、
引き続き見守っていただければ幸いです。
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