表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第六話:彼がいる場所

放課後のグラウンドは、いつもと変わらない。


赤い日差しがトラックの端に長く影を落とし、

まだ残っている教室のざわめきが、風に乗ってかすかに届いてくる。


その中で、俺はいつも通り走り出した。


「後藤くん、準備できた?」


トラックの外から誰かに呼ばれた。

声を聞くだけで誰かはわかる。鹿島綾乃——陸上部の新しいマネージャーだ。


「ああ」


短く答えた。

ストレッチはすでに済んでいて、今は心拍数を上げるタイミング。

喋ってる余裕も意味もない。


走ってる間は何も考えない。

体だけが語って、汗と呼吸がすべてを代弁する。

スポーツってのは、俺にとってそういうもんだ。


この瞬間を生きているって感覚——

言葉より、ずっと確かな証拠。


「今日はランニングのあと、何するの?」


鹿島がまた聞いてくる。


「みんなとサッカー練習がある」


「へぇ〜 忙しいんだ。あ、でも陸上練習のあとだと大変じゃない?」


そろそろ集中したいところだが、話しかけてくる。

嫌ではない。ないが……正直、今は邪魔になる。


「悪い。今は練習に集中したいから、あとで話そう」


軽く手を上げてそう言って、もう一度トラックに向き直った。


「それじゃ、頼む。ちゃんとサポートしてくれ」


後ろにいる鹿島を見なずに俺はただ前だけを見てた。


指先と足先、全身の感覚をトラックに集中させる。

呼吸を整えて、膝に少し力を入れる。


その瞬間——


「用意……」


鹿島の声が小さく響いた。

聞き慣れたテンポ、聞き慣れた高さ。

問題ない。このくらいなら十分だ。


「ドン!」


短い合図とともに、俺はトラックを蹴って走り出した。


地面を蹴った瞬間、全身の感覚が目覚める。

空気の密度、日差しの角度、脇腹にじわりとくる痛み——

全部、感じる。


膝が張って、肺が締め付けられる。


でも関係ない。

そんなの、いつものことだ。


大事なのは今、

どのタイミングでスピードを上げられるか——

そして、

そのあとでもう一歩、踏み出せるかどうか。



何周くらい走っただろうか。


太ももが重くなって、足裏が地面に張りつくような感覚がしてきた。


もう限界か?

一瞬、視界がにじむ。


呼吸、呼吸だけは絶対に乱しちゃダメだ。

まだだ、まだ——


決められた時間内に、トラックをより速く走る。

誰かが見れば単純な行為に思えるかもしれない。


でも、俺は一度もそうだと思ったことはない。


トラックに立って、走り出すその瞬間ごとが、

自分の限界を超えるために、真正面から己とぶつかる戦場だから。


剣を持ってないだけで、

毎日、自分との見えない戦いをする。


勝つこともあれば、負けることもある。

でも大事なのは、戦うという行為そのもの。


それが、俺が生きてるって証

だから——


「止まられてたまるかーーー!!」


持ち主に抗うようにぎくしゃくする体への叫び。


叫んだからこそ、俺は走るのをやめない。

この言葉を証明するために——


ラスト一周を走り終え、スピードを少しずつ落とす。


胸の中で心臓が激しく暴れてる。

耳がボワンとして、足先が痺れる。


それでも、走る。


まだ完全には止まらない。


だんだんとペースを落としながら、トラックの外れまでいく。


深く息を吸ったその時——

ようやく、現実の音が少しずつ戻ってきた。


「お疲れ。すっきりした?」


穏やかな声が、そっと響いた。


小さく息を吐きながら、頷いた。


「水……持ってきたよ」


差し出されたペットボトルが視界に入る。


無意識に受け取って、喉に流し込んだ冷たい水で、

少し意識が冴える。


「思ったより長く走ってたね。今日、調子良さそう」


俺は黙って、軽く頷いた。


未だに答えられる余裕は出なかった。


ただ、息を整える時間と、

現実に戻るまでのちょっとした猶予が必要だった。


鹿島は黙ったまま、俺の横に立ってた。


足元でスニーカーを小さくトントンと二回蹴って、止まる。


何かを言おうとして迷ってる様な仕草。


「ねえ……」


小さな声。


俺は顔を向けず、視線だけ横に流した。


「その、朝練なんだけど……明日から私も一緒に手伝おうか?」


その言葉に、思わず目を閉じて、また開いた。


——ちょっと意外だった。


今の練習を手伝ってくれてるのだって、部の指示じゃない。


俺が真剣にやってる姿を見ながらサポートするのが部活の勉強になるからとか言って手伝い始めたんだから。


なのに、朝練まで?

どうしてそこまでする?

どう見てもこの子は陸上そのものには興味がないようにしか見えなかった。


「今だって自主的にやってくれてるのに、朝練まで?

流石に、大変じゃねえか?」


思ったまま口にした。


「……えっと、それは……」


鹿島は両手を組んで、左右に回しながら言葉を選んでるみたいだった。


もちろん、手伝ってくれるのなら助かる。


正直に俺には得しかない。 でも、どうしてもおかしいと思った俺はそう言うしかなかった。


「あ、ううん。変なこと言ってごめん。

ただ……後藤くんが走ってるところ、もっと見たくて……」


少し黙った。


俺が走ってる姿?

そんなの、横で見てりゃいいんじゃないか。


「俺が走ってるとこなんて、マネージャーじゃなくたって見れるだろう」


思ったことを、そのまま口にした。


どうしても、腑に落ちなかった。


「……あっ、そ、そうだね。ごめん、忘れて」


視線を逸らして、指先でストップウォッチをいじりながら、

そう言った。


そして、数秒の静寂のあと——


「そ、それより、すごいよ後藤くん!

記録、0.1秒更新したよ!」


いきなり記録計を取り出して、そう言ってきた。


そして俺に記録計を見せながら、必死に笑った。


最高記録から、ちょうど0.1秒更新された数字がそこにあった。


「おお、ほんとだ。

お前がサポートしてくれたおかげだな。ありがとな」


そう言って、俺は彼女に笑顔を向けた。


なぜ彼女がこうやって少しはしゃいでいるかは分からない。

彼女なりの理由があるんだろう。


でも、今日の成果は間違いなく彼女のサポートのおかげだ。


そこだけは、素直に感謝していたから。


鹿島はストップウォッチを握ったまま、ぎこちなく笑ってた。

視線はずっと下に向いていた。


その顔を少しだけ見つめてから、俺は水をもう一口飲んだ。


冷たい水が喉を通って、ゆっくりと体にしみ込んでいく。


もう一度、口に含んだ水を飲み干してから、

ペットボトルをベンチの上に置いて、歩き出す。


「ありがとな、水、助かったよ」


そう言うと、鹿島は静かに頷いて笑った。


でも、その笑顔もすぐに消えて、

口元はまた、いつもの何でもない表情に戻っていた。


俺はその場を立ち上がった。


もう、だいぶ落ち着いてきたし、そろそろ着替えて

サッカーの練習に行かないと。


「じゃあ、俺もう行くから。明日の部活でな」


返事がない鹿島にそう残して、早足でその場を後にした。


「う、うん! また明日……」


最後まで言い切れず、小さくなる声を背にしながら——


鹿島は……ちょっと変な子だ。


いい子だとは思うけど、

俺が走るとこが見たいってだけで、朝練まで付き合おうとするなんて。


まあ、彼女なりの事情があるんだろ。

深く考えないようにしよう。


それより今日も、アイツらと練習だ練習。


陸上は自分の限界を試すもんだけど、

サッカーはチームがどれだけ一つになれるかの挑戦。


アイツら、今日もまた砂ぼこりまみれで頑張ってんだろうな。


「陸上の自主練でちょっと遅れるって連絡は入れといたけど、急がなきゃな」


そう呟いて、もう俺はまた走っていた。



「ふっ!」


「ナイス、後藤!」


相手チームが高く蹴り上げたボールを胸で受け止めて、

すぐに右足で前に落としてドリブルに入る。


ディフェンダーは三人。


前方に攻撃陣はいない。


どうする?

後ろの中島に戻す? 強引に突破?

それとも斜めに走ってフェイクで陣形を崩す?


——いや。


ドリブルを止めて左を見た瞬間、右足で高く蹴り上げた。


「待ってたんだよ、田中!」


やっぱり、あいつは大事なとこで必ず先に動いてる。


シルエットだけ見て直感的に蹴って、ほとんど外さない。


「いいぞ、後藤! 走れ!」


「へっ、わかってるって!」


三人のディフェンダーを一気に飛び越えて走る。


相手のDFは、俺と田中のどっちをマークするか決めきれず、迷ってる。


「飯島! 中川! 野田! 何やってんだ!!」


相手のエースが叫ぶ。

その声に慌てて俺にマークが集中する。


だが——


もう遅い。


俺は再び、田中が上げてくれたボールに向かって跳び上がり、

そのまま頭で叩き込んだ。


狙いは、ゴール左隅。


シューーーンッ!


狙い通り、ネットの端っこに吸い込まれた。


「よっしゃあ!!」


そう叫んで、俺は田中のもとへ走った。


「さすが、後藤! やっぱお前は最高だよ!」


肩を組んで、軽くセレモニー。


その余韻もそこそこに——


ピッ—— ピッ—— ピッ——


ホイッスルが鳴り、試合終了。


「はぁー……やっぱ後藤がいるチームが勝つんだよな」


野田がぶつぶつ文句を言った。


「お前がちゃんとマークしてれば、点入らなかっただろ!」


阿部が怒りながら野田の腕を引っ張る。


「おいおい、やめとけ。試合じゃねーんだし。

楽しんだならそれでいいだろ」


俺は笑ってそう言った。


「まあ、それはそうだけど……お前ら、次はちゃんとマークしろよな」


阿部は腕を離しながらも、ちゃんと釘を刺す。


あいつも田中と同じで、このメンツのリーダー格。


さっきの試合で怒鳴ったのも、まあ、無理はないだろう。


だからといって、友達で喧嘩したらまずい。

こうやってあいつをブレイクさせる必要があるってことだ。


「わかったよ……」


飯島と中川、それに野田。

三人とも、ばつが悪そうに下を向いてた。


「まあまあ、阿部。それくらいにしとけよ。

あいつらだって、わざとじゃないだろ」


俺はフォローに入った。


「人が良すぎるんだよ、お前は。

練習だって、本気でやらなきゃ意味ねーんだろう」


「阿部、後藤が言ってんだろう、その変にしとけよ。

みんな気まずそうになるだろう」


阿部が炎なら、田中は雲。

みんなの自由を大事にする、そんなリーダー。


あいつが出てくると、ちょっと空気が和らぐ。


「田中、ナイスアシスト」


そのタイミングで、俺もすかさず話に入った。


「お前、さっきもそれ言っただろ」


田中が呆れたようにため息をついた。


「そうだったっけ? アハハハ!」


俺が笑うと、

みんなもつられて笑い出した。


今じゃ学校も別々になっちゃったけど、

このメンバーと一緒にいると、本当に気が楽だった。


高校でも、こいつらとまたサッカーできるなんて。


だから、俺はこいつらのことを、本当に大事だって思ってた。



——その日が過ぎて、多くのことが変わった。


でも、その日の俺は——

ただ、走っていたんだ。

第六話までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、後藤高広の視点から、

走るという行為を通して浮かび上がる、

彼なりのまっすぐな生き方と、仲間とのつながりを描いてみました。


冗談を言い合いながらも、

本当の気持ちはあまり表に出さない——

そんな彼の仕組みを少しでも感じ取ったのなら嬉しいです。


また、サッカーの場面では、

率直なやり取りやテンポのある掛け合いを通して、

自然と生まれる信頼関係を大切に描きました。


大きな事件は起こらないけれど、

それでも、日常の中でふと立ち上がる感情の揺れや、

ほんのわずかな選択の余白を、これからも丁寧に綴っていきたいと思います。


ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ