第四話:別の機微で届いた、ひとつの心
教室の中が、なんだか妙に静かに感じられる日だった。
誰かのささやき声、窓の外をかすめる風の音、ページをめくるさらさらという音まで——
すべてが、いつもより少しだけ鮮明に聞こえてきた。
時間割どおりに流れていく一日で、特別なことは何もなかった。
それなのに、心のどこかが不思議とぽっかりと空いているような気がした。
何かを、取りこぼしているような感覚。
でも、それが何なのかはわからなかった。
机の上にはすでにノートが開かれていて、
私は静かに、ペンを持つ手をそっと持ち上げてから、またゆっくりと下ろした。
書くことがあるわけでもなく、書く必要もなかった。
ただ、指先に残る感覚を感じながら、そこに座っていた。
「ねえ、源さん」
「えっ?」
後ろの席からかけられた声に、振り返る。
「大丈夫? なんか、悩みがありそうに見えて」
彼女は心配そうな顔で、私にそう声をかけてきた。
「あ……すいません。そんな雰囲気出てましたか……?」
心の中を見透かされたような気がして、思わず少しうつむく。
その瞬間、知らず知らずに顔が赤くなっていた。
「あら、気を引くつもりじゃなかったんだけど。ちょっと気になっただけ」
「そ、そうですか……それなら、よかったです……」
私はまだ顔を上げられないまま、小さく答えた。
「ふふ、かわいいね。源さんって」
軽く笑いながらそう言ったけど、からかうような口調ではなかった。
顔が一気に熱くなった。
私、今きっとすごく変な顔してる……
「ねえねえ源さん、お昼、誰かと一緒に食べたりするの?」
私が何も言えないでいると、彼女はさらっと話題を変えた。
「え、まだ……入学したばかりですし、一緒に食べる人はいないです……」
私は顔を上げられずに、そう答えた。
「私もまだ。探してるところ。だから、源さんさえよければ、これからお昼一緒に食べない?」
「え……?」
その言葉に顔を上げて、彼女の顔を見つめた。
彼女は口元に軽く笑みを浮かべながらも、表情全体は真剣で、何よりも私を見るその目がとても優しかった。
「わ、私……あまり話せないし、面白くもないんですけど……それでも、いいんですか……?」
私は不安な気持ちのまま、そう口にした。
すると、彼女はいたずらっぽい顔で言った。
「ふふ、今も十分おもしろいんだもの。小動物みたいでかわいいし」
また“かわいい”って言われて、私はますます恥ずかしくなってうつむいた。
「あら、ひょっとしてかわいいって言葉に弱いタイプ? じゃあ、ほどほどに言うね。ごめんね。」
その言葉にもう一度顔を上げて彼女を見ると、彼女は苦笑いながら、両手を合わせていた。
その瞬間、
この人なら、もしかしたら一緒に過ごしてもいいかもしれない——
そんな気がした。
言葉は確かに軽やかだけど、私を見るまなざしと向き合う姿勢には、まっすぐな気持ちがあったから。
「え……その……」
どう言えばいいのか、言葉を探していたそのとき——
キーンコーンカーンコーン
三時間目の休み時間が終わるチャイムが鳴り響いた。
「あら、もう次の授業か……仕方ない。それじゃ、続きは授業のあとにしよっか」
彼女はそう言って、ふわりと微笑んだ。
「は、はい……」
私は小さな声でそう答え、席を正して授業の準備に戻った。
授業が始まると、教室は再び静けさに包まれた。
チョークが黒板を擦る音と、ページをめくる紙の音が、空気の中に淡く溶けていく。
私はペンを手に取り、ノートに今日の日付を書き記した。
数字を綴る指先は慣れた動きをしていたけれど、思考はすぐにどこかへ逸れていった。
——お昼、一緒に、食べない?
さっきの言葉が、何度も心に浮かんだ。
驚くほど自然で、そして、驚くほど受け入れたくなった言葉。
人って、こんなにも簡単に、誰かと近づいてしまってもいいのかな——
……そんなふうにさえ、思ってしまった。
私は静かに視線を落とした。
ふと浮かぶのは、さっきのまなざし。
口元はいたずらっぽく笑っていたのに、
その奥に見えた優しい本音が、どうしようもなく温かく感じられた。
——あの顔をもう一度思い出すだけで、胸の奥が少し揺れた。
私を萎縮させないように。
「大丈夫だよ」と、そっと言ってくれているような——
そんな空気だった。
言葉以上に、
彼女がくれた表情と視線と、そして静かなぬくもりの方が、ずっと強く残っていた。
いけない、授業に集中しないと——
そう思って、私は小さく首を横に振り、黒板へと視線を戻した。
椅子が引かれる音。
誰かが弁当を取り出す、袋の擦れる気配。
教室はいつの間にか昼休みらしいざわめきに包まれていた。
私はゆっくりとペンを置いた。
「四時間目も終わり! それじゃさ、さっきの話、続きしよっか?」
すると、後ろの席にいたあの子がそう言いながら私の隣に近づいてきた。
「えっ……でも、本当にいいんですか? 私なんかと一緒にいても……」
私はうつむいたまま、彼女の顔を見ることなく答えた。
「もちろん。あ、でも無理には言わないよ。源さんは、どうしたいの?」
彼女はそんな風に、明るい声で私の気持ちを尋ねてきた。
「わ、私は……」
言葉が、喉の奥で渦を巻いた。
大丈夫かもしれない、という気持ちと、 もしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない、というためらいが混じっていた。
「昼休み、どんどん過ぎてくよ? このままパスするつもり?」
今度はまたさっきみたいにいたずらっぽかったけれど、
その声の奥に、私は確かな真剣さを感じ取っていた。
「迷惑……じゃないかなと思って……」
「そんなの、経験してみなきゃ分からないでしょう? それに、源さんって誰かにわざと迷惑かけるような、悪い人なの?」
「え? あ、いえっ! 私はそんな……」
「なら、いいじゃない。ほら」
彼女は私に、手を差し出した。
「私、宮本愛。前にクラスで自己紹介したんだけど、もしかしたら忘れられてるかもって思って」
私はその差し出された手を、そっと取った。
そしてゆっくりと顔を上げ、彼女を見つめた。
「わ、私は……源春香です。その、迷惑……かけちゃうかもしれないんですけど、よろしくお願いします……」
その言葉が気に入ったのか、
彼女は私の手をそっと持ち上げて、優しく二回、振ってくれた。
「こちらこそよろしく。じゃあ、これからお昼一緒に食べてくれるよね?」
「……はい、私でよければ」
私は少し照れくさく笑いながら、そう答えた。
私たちは窓際の、今日は誰も座っていない、ぽつんと空いた席に並んで座った。
陽の光がガラス越しに柔らかく差し込み、
その温もりが、私の手の甲まで、静かに届いた。
お弁当を取り出す手が、なんだか妙に慎重になった。
誰かが隣にいる状態で、こうしてお弁当を広げるのが——
どうして、こう緊張するんだろう。
「これ、自分で作ったの?」
彼女が私のお弁当を指差して、そう訊いた。
もしかして、この人は……他の子たちとちょっと違うのかもしれない。
普通、最初に聞かれるのは「趣味は?」「どの中学出身?」みたいな、
決まりきった質問ばかりなのに、
この人は、最初から「一緒にお昼食べよう?」って誘ってきた。
しかも、私の反応をちゃんと見ながら。
もちろん、ふざけてるような口調のときもあるけれど、
お昼に誘ってくれたときは、とても真剣な表情をしていたし。
誰かが、私の状態に最初に気づいてくれて、
軽く流さなかったのは——初めてだった。
だから、かな。まだ名前すらまともに呼んでいないのに——
少し、心が和らいだ。
「はい、料理するのは好きで……昨日の夜に食べた鮭の塩焼きと、残ってたおひたしで簡単に作ってきました。量は少ないですけど……おかず、地味ですよね?」
「ううん、そんなことないよ。自分でお弁当作れるなんて、すごいと思う。私は料理そんなに得意じゃないから、いつもお母さんが作ってくれるし。」
「えっ、そうなんですか? 宮本さん、料理得意そうなイメージだったのに……」
「えっ、そう見えた?」
彼女はふっと目を閉じて微笑んだ。
そして、何かを思い出したように、再び目を開いた。
「ねぇ、敬語使うのやめない?」
「えっ……?」
その言葉に、
私は思わず弁当から目を離して、彼女を見つめてしまった。
意外だった。
あんな言葉は、軽い感じで言うのが普通なのに
実際、彼女もこれまではそうだった。
けれど——今は違った。
口調は確かに柔らかったけど、その言葉自体は真剣で。
視線を逸らしたら、何だか悪い人になってしまいそうな、そんな気がした。
「無理なら、いいけど。だって、私もうタメ口だし、源さんも楽になったらいいと思って。礼儀正しさとか建前とかうっとうしいでしょ? 私、そんなの全然気にしないから。」
今回は、私のことを配慮したからかな。
満面のやわらかな笑みを浮かべながら、そう言ってくれた。
そんなにすぐ、距離を縮めてもいいものなのかな。
「えっ、あ、うん……」
言ってしまった。もう、引き返せない。
こんなに早く、タメ口で話してもいいんだろうか……?
「ほんと? 本当に、これからタメ口してくれるの?」
けれど、まるで子どもみたいに嬉しそうな彼女の笑顔を見た瞬間、
さっきまでの不安は、すうっと消えてしまった。
代わりに、胸の奥に、あたたかいものが静かに、けれどはっきりと広がっていく。
そうだよね。あんなに嬉しそうなのに、私だけいつまでも臆病なままじゃ、だめだよね。
それに、変わりたいって——ちゃんと自分で、そう決めたんだから。
だったら、彼女の本気には、私も本気で応えないと。
「うん、よろしくね、宮本さん」
私は思いきって、そう返した。
「ん〜? まだ硬い」
彼女はそこまで言って
「私たち、名字も“ミヤモト”と“ミナモト”で似てるし、いっそあだ名で呼び合わない?」
またイタズラっぽく笑いながら、そんな提案をしてきた。
「えっ……ええっ?」
あまりにも予想外で、思わず大きな声が出てしまった。
——恥ずかしい……!
「あら、驚かせるつもりはなかったのに、ごめんね。でも、本当よ?
私、あなたのことがとても気に入ってて、お互いあだ名で呼びたくなって」
軽く笑っていたけれど、その目はさっきと同じように真剣だった。
「え、えっと……その……」
「もちろん、無理にさせるつもりはないの。源さんは、どうしたい?」
私が戸惑っていると、彼女は少しだけ口角を上げて、軽く聞いてきた。
でも、それが私への気遣いから出たものだってことは、すぐに分かった。
——絶対に、ふざけてる訳じゃない。
せっかく勇気を出したのに、今もまだこんなに緊張しているのに、これ以上踏み込むなんて……
「だから、“はるちゃん”って呼んでもいい? 私も、“あいちゃん”って呼んでいいから」
私がまた迷っていると、先に彼女が一歩を出してくれた。
「えっ……ほんと? そうしていい?」
息が詰まりそうなほどの緊張感のなかで、
私は、恐る恐る彼女に問いかけた。
「ほんと、ほんと。私、はるちゃんのことすごく気に入ってるの。これからもずっと一緒に過ごしたいって思うくらい」
彼女は今度は細めた瞳で、穏やかな表情を浮かべて、そう言った。
その横顔があまりにもまぶしくて、私は思わず視線を落としてしまった。
——何で、ここまで……?
私はそんなに面白くないし、
おしゃべりも上手じゃない。
一緒にいたって、楽しいことなんてたぶん、そんなにないはずなのに。
でも、こんなにいい人、ここで私が迷って手放したら、きっと後悔する。
それだけは絶対にイヤだ。
もう、存在感のない、誰かの記憶の片隅にしかいないようなままではいたくない……!
私も、輝きたい。
こんなに明るくて、元気で、
それでいて礼儀正しい人と一緒にいれば——
きっと私も、少しずつ変わっていけるはず。
だから、もう一歩……!
すぐにでもはじけそうな胸を押さえながら、私は視線を上げて、できる限りの勇気を込めて言った。
「……うん、わかった。私もあなたともっと仲良くなりたいと思う。だから……」
私はもう一度、息を飲んでから言った。
「よろしくねっ、あいちゃん!」
「うん! 私もよろしくね、はるちゃん!」
彼女は、私の勇気にとても優しい笑顔で応えてくれた。
——それが、あいちゃんとの最初の出会いだった。
あのとき彼女が見せてくれた顔は、間違いなく本気だった。
けれど私は、まだ彼女のことを何も知らなかった。
そして——
彼女もまた、私に全てを知られることを望んではいなかった。
全てを知らない少女と、
全てを知られることを望まない少女。
私たちの出会いは、そこから始まった。
第四話までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、源春香の視点から、ひとつの出会いと、心の変化を描いてみました。
誰かの言葉やまなざしに、胸の奥がふと波立つ瞬間。
それは、日々を静かに生きてきた彼女にとって、戸惑いとあたたかさが入り混じるような、繊細な心の揺れでした。
たったひとつのやさしい声が、彼女の世界に小さな灯りをともす。
そんな時間を、そっと感じ取っていただけていたら嬉しいです。
これからも、登場人物たちの静かな感情の動きを、大切に紡いでいきます。
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