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第三話:届かない、でも届きたい

いつもの朝が、いつもより静かに感じられた。


何かが、ぽっかり抜け落ちたような気配。


いわゆる――違和感。


何が抜けたのかは、わからなかった。


思い出せないなら、仕方がない。


その程度に割り切って、机の上に広げた言語文化の教科書を見つめた。


言語文化。


言葉と思考、表現と伝達――そんなものは、元々自分には関係のないものだと思っていた。


ボールペンを何度か転がして、止めた。


止まった先で、指先がほんの少しだけ宙をさまよう。


特に意味のない仕草だった。


でも、その瞬間――ふと、


陽射しが柔らかく降りそそいでいた坂道の感覚が、かすかに蘇った。


鮮明な記憶ではなかった。


ただ、漠然とした感覚。


どこか懐かしくて、それでいて見知らぬ時間。


誰かが名前を言い、


誰かがその答えを返し、


そして誰かは――


泣きそうな顔で、無理に笑おうとしていた。


俺は視線を落とし、机の上を見つめた。


どうしてそんな場面が浮かんだのか、


自分にもわからなかった。


「……。」


小さく息をつく。


そして、再び教科書に視線を戻した。


変わらない一日。


変わらない教室。


何も変わっていないはずなのに――


不思議と、いつもと違って見えた。


もしかしたら、そういう日なのかもしれない。


ときどき訪れる、身体は平気なのに、心だけふわふわ浮いているような――そんな日。


窓の外に目を向けた。


校庭を横切って、誰かが走っていた。


まだ授業が始まる前なのに。


あれじゃ授業に支障が出るだけじゃないんだろうかって思う程に、


そのスピードも、フォームも、通常の自主ランニングとはまるで違っていた。


見慣れた後ろ姿。


見覚えのあるシルエット。


――後藤高広。


同じクラスだが、言葉を交わしたことは一度もない。


これから先も、関わることはないだろうと思っていた。


そう思いながら視線を教室に戻そうとしたそのとき――


校庭に面した廊下の窓辺に、誰かが静かに寄りかかって立っていた。


そこからもまた、“後藤”を見つめているような気配だった。


距離があって顔まではわからなかった。


……だけど、その視線には、ただならぬ感情が宿っているように見えた。



あのとき、私は気づいた。

また、あの人を目で追っていたことに。


校庭を駆け抜けるその姿に、目が離せなかった。


いつからだろう、

私の視線は自然と、彼を追いかけるようになっていた。


なぜなら、私は——


数日前、放課後に忘れ物を取りに戻ったときのこと。

グラウンドを全力で走る影が、ふと目に入った。


その瞬間、私は目的も忘れて、ただ茫然と彼の動きだけを見つめていた。


後になって知ったのだけれど、

彼は私と同じ新入生で、陸上部に入ってすぐに先輩たちから期待を集めるエースだという。


その言葉を聞いたとき、

私は思わず胸が高鳴っていた。


「おーい、後藤! 自主練もいいけど、ホームルームに遅れるなよー!」


通りかかった体育の先生が、笑いながら声をかけた。


「おう、先生! この一周だけで終わるんですから!」


そう言って走るスピードを少し緩め、声の方へ顔を向けた彼は、

無邪気な笑顔を浮かべながら応え、再びペースを上げていった。


私の名前は鹿島綾乃。


高校に入学して、まだ数日。

今、私は——

いつもの私なら、決してしなかったかもしれない選択を前にしていた。


数日前、校門の前で陸上部の先輩から渡された募集用のプリント。


しばらく見つめてから、そっと鞄の中にしまった。

誰にも見られないように、一番奥のポケットに。


捨てられなかったけど、取り出すこともできなかった。


特に何かが変わったわけじゃない。

ただ、見ないようにしていただけ。


なのに、どうしてか簡単には忘れられなかった。


「私は……何をしたいんだろう。」


そう呟いたそのとき、

廊下の向こうからチャイムの音が響いた。


反射的に肩が少しだけ跳ねた。


「……ホームルーム、行かなきゃ。」


私は静かに歩き出した。


教室へ戻る廊下は、相変わらず静かだった。


足音が床に触れるたび、小さな音が広がる。


歩くたびに、

さっき窓の外で見た彼の姿が何度も脳裏をよぎった。


速く動く足、

大きく振られる腕、

吐息の合間に浮かんだ表情。


まだ、何かを決めたわけじゃない。


ただ、あの姿が、時折頭から離れなかった。


何事もなかったように、

私は教室のドアを開けた。


わずかに軋む音とともに、

教室内のざわめきが徐々に耳に入ってきた。


誰かが静かに本を読んでいて、別の誰かが友達と囁くように話していた。


私は何も言わず、

自分の席へとゆっくり歩いた。


席に座ったあとも、

窓の向こうに見える校庭が、頭から離れなかった。


……ついさっきまで、彼はあそこを走っていた。


あんなに距離があったのに、

彼から伝わった熱が、

まだ胸の奥に残っている気がした。



ホームルームがすぐに終わり、一時間目までのちょっとした間。


「ねえ、鹿島〜 あとで一緒にお弁当食べよ?」


筆箱を机に戻していた私に、前の席の子が明るく声をかけた。


私は手を止めずに、顔だけ少し向けた。


「ううん、大丈夫。誘ってくれてありがとう。」


「え〜、また一人で食べるの?」


「今日はちょっと、用事があって。」


その子は少し唇を尖らせたけど、すぐに他の友達の方へ顔を向けた。


何事もなかったかのように、また教室に笑い声と話し声が広がっていった。


私は再びペンのキャップを閉じた。


ぱっと見では、ただ適当に忙しいふりをしているように見えたのかもしれない。


でも、本当に忙しいわけじゃなかった。


ただ、今は誰かと一緒にお昼を食べる気分じゃなかっただけ。


「鹿島、昨日の宿題やった?」


今度は隣の子が声をかけてきた。


私は頷きながら、カバンからノートを取り出して見せた。


「うん、これ。ここのとこ、ちょっと難しかったよね?」


「うわ〜、ほんとに鹿島って頭いいよね。」


「そんなことないよ。ただ……流して書いただけ。」


みんな、たまに私に話しかけてくれる。


そういう時、私は自然に合わせて、

誰かが助けを求めれば、ちゃんと応えようとしている。


それは、きっといいことだと思ってる。


でも——


本当は、一人で本を読んだ方が楽だった。


だから、学校が終われば図書室に寄ったり、まっすぐ家に帰ったりした。


中学三年間、その生活が変わることはなかった。


それが一番、私には合っていたから。


だけど——


「はあ……陸上部、入ったほうがいいのかな……」


忘れようとしても、ふと頭に浮かんでくる。


「あれ? 鹿島、陸上部に入るつもりか?」


私の独り言を聞いたのか、クラスの男の子が話しかけてきた。


「あ、うん。数日前に募集の紙をもらって……

ただ考えてるだけで、まだ決めてないよ。」


「そっかー。よかったら、テニス部、一回見に来てみたら?

ちょうどマネージャー探してたところなんだよ。」


その瞬間、"マネージャー"という言葉に、頭の中が一瞬固まった。


何気なく言われただけなのに、

どうしてこんなにも胸が締めつけられるんだろう。


全然違う部活の話なのに——

なぜか、彼の姿が浮かんできた。


「そ、そうなんだ? 一応、もうちょっと考えてみるね。」


私はぎこちなく笑いながら答えた。


「おう、いい返事待ってるから!」


そう言って、彼はまた男の子たちの輪へ戻っていった。


私は机の上に置いた筆箱を、もう一度開けて閉じた。


指先が、机の上でペンを握っては離すのを繰り返した。


思考が、なかなかまとまらなかった。


……それなのに、私の目はまた、窓の外へ向いていた。


校庭の向こうを、もう一度見たかったわけでも、

ただ気分転換をしたかったわけでもない。


ただ、さっきの彼の姿が——

まだ、自分の中に残っているような気がした。


遠くを走っている人影

そのスピード、呼吸、揺れる髪。


そのすべての光景が、まだはっきりと心に残っていた。


私はゆっくりと顔を上げ、窓の外を見つめた。


もう、そこには誰の姿もなかったけれど、

まだ——そこに彼がいるような気がした。


わざと目を逸らしたけれど、

胸の奥が、まだざわざわと騒いでいた。



終礼が終わっても、しばらくぼんやりと席に座っていた。


周りでは、少しずつ立ち上がる気配が広がっていく。


ざわめきと椅子を引く音が、教室の空気を満たしていった。


私も静かに鞄を手に取った。


肩紐の位置を直して、椅子を机の中に押し込んでから、ゆっくりと立ち上がる。


ふと、廊下の方に視線を向けた。


数人ずつグループを作って、何人かの生徒が連れ立って出ていくところだった。


その輪の中に混ざらないように、私は少し遅れて歩き出した。


教室を出て、廊下をゆっくりと歩く。


まだ人が多い階段を避けて、私は静かに一階へ向かった。


校庭には、誰の姿もなかった。


授業も、練習も、生徒たちの笑い声も——すべて、もう過ぎ去った時間。


今はただ、静かな空間がそこに広がっているだけだった。


ふと、口の中で渦巻いていた思考が、そのまま言葉になってこぼれた。


「今日は、自主練ないのかな」


そう呟いて、校舎を離れようとした私は、不意に足を止めた。


止まる理由なんて、どこにもなかったのに。


けれど、なぜか、それ以上歩けなかった。


私はゆっくりと首を回した。


ついさっきまで見ていた校庭。


今は、誰もいないその場所。


ふと、校庭の端にある掲示板が目に入った。


数日前、陸上部の先輩から紙を手渡されたときのことが、


頭の奥のほうで静かに浮かんできた。


私はそのまま立ち尽くして、


ただ、その場所を見つめていた。


遠くから見れば、


ただの何枚かの紙にしか見えないのに——


どうしてだろう、なぜか目が離せなかった。


私はその場所へ向かうことも、


歩き出すこともなかった。


かといって、


視線をそらして背を向けることもできなかった。


ほんの少しだけ、


もう少しだけ、


その場所を見ていた。

第三話までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、鈴木潤の視点から始まり、物語の途中で、彼の視線の先にいたひとりの少女——鹿島綾乃の心に、そっと寄り添ってみました。


言葉にも思考にもならないまま、それでも身体の小さな反応や行動であらわれはじめる感情。


彼女にとっては、それがまだ“気づいた”とは言えないほどの、小さな心の揺れでした。

でも、その小さな一歩が、物語を少しずつ動かしていきます。


登場人物たちの心の温度を、これからも丁寧に描いていけたらと思っています。


ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。

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