第二話:始まりは、そうやって静かに
その日は何事もなく、静かに過ぎていった——
けれど、それは“その日だけ”だった。
なぜなら——
「えっ、お前、○○中だったか? おおー! どっかで見たことあると思ったわ!」
「マジで!? うわ、懐かしっ。名前なんだっけ?」
静かだった教室が、誰かの大きくてはしゃいだ声によって、また目を覚ました。
教室の一角からあふれたその明るい声は、あっという間に空間を横切った。
後藤高広。
入学して数日しか経っていないのに、すでに陸上部のエースとして先輩たちから期待されているらしい。
噂によると、全国大会優勝を狙っているとかなんとか。
その名の通り、高く遠くへ飛んでいけそうな姿だった。
——俺とは違う。
「うわっ、そのお弁当めっちゃうまそう! お前のお母さん、料理上手じゃん」
「ははっ、このクラス気に入るな。みんな話しやすいし、雰囲気もいいし!」
今日も彼は、クラスメイトたちと軽やかに言葉を交わしていた。
まるで最初からこのクラスの中心だったかのように、自然で、気負いのない距離感で。
俺は黙ってうつむいた。
そんな俺のすぐ近く——席から3メートルも離れていないところで、彼は「ナイスショット~」なんて軽口を飛ばしていた。
……うるさい。
悪気があるわけじゃないってのはわかってる。
けど、あの明るすぎる声は、いつも俺の耳に刺さるように届く。少し落ち着かないって言うか。
これじゃ、ただ静かに休むことさえ難しい。
だからといって「少し静かにしてください」って言える訳もないし。
いや、言おうといえば言える。けど、その瞬間——
“誰にも関わらない”という俺のルールは崩れ、
余計にクラスの注目を集めることになる。
それに、あの人気者の後藤高広に正面から対立したって噂になるんだとしたら——
損する方は100%、俺だ。
もちろん、彼の性格を考えれば、俺が何か文句を言ったところであまり気にすることはないだろうし、たとえ気にしたとしても恨んだりはしないと思う。
だが、“噂”っていうのは、いつだって第三者が勝手に広めるものだから。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「先生来るよー! みんな席ついて!」
教室のドアが開き、ある女子生徒の声が響いた。
一瞬で騒がしかった雰囲気が落ち着き、後藤も自然と話をやめて自分の席に戻る。
ああいう面にはいつも驚く。
活発でありながら、無礼ではない。
空気を乱さずに、中心に立つことができる人。
——だからあいつは、あれだけ人気なんだろうなと、あらためて実感した。
教室の扉が開く。
低く響く革靴の音が廊下に響き渡っていく。
数人の生徒がその音に反応し、顔を上げた。
「よし、みんなちゃんと座ってるな」
担任だった。
教壇の前に立った彼は、まず大きな日誌を広げた。
「今朝のホームルームは、さくっと終わらせるぞ」
癖のように投げる軽い口調。
教室を一度ざっと見回すと、担任は続けた。
「学級委員長、まだ決まってなかっただろう。今日決めよう」
その言葉に、教室の空気がほんの少しざわつく。
「えっ、じゃあ今から立候補してもいいんですか?」
前の方の席から誰かが手を挙げて聞く。
その声に、何人かの生徒が視線を交わした。
——別に驚くことではなかった。
初日から目立ちたがる子は、どこにでもいる。
正直、誰がやろうが構わなかった。
いや、誰もやる気ないんだとしても、それはそれで自然だと思った。
敢えて前に出る人がいれば、雰囲気が複雑になるだけだから。
けど、担任にはその気がないようだった。
「ああ、自由に立候補すればいい。だから、もしやりたい人いたら手を挙げるように」
沈黙。
その静けさを破るように、ひとりの子がそっと手を挙げた。
「……はいっ!」
か細い声だった。
教室の前方、廊下側の席に座っている女の子だった。
名前も顔も、まだ見慣れない子。
思わず、その方向に顔を向ける。
震える指先、緊張したまなざし。
その時まで静かにいた周りの生徒達が、少しずつざわつき始めた。
「そう、立候補出たね。名前は?」
「う、上原結衣です!」
何人かの生徒が、その名前を口に出して繰り返した。
しかし、それ以上の反応はなかった。
他に手を挙げる者はいなかった。
担任は教壇の前で日誌をめくると、前の列の生徒に紙の束を渡した。
「他にも立候補したい人いたら、名前書いて提出すること。後ろに一枚ずつ回せ」
紙はバサリと音を立てて机の上を流れていく。
「あまり時間ないから、やりたい人はすぐに書いて提出しろ」
何人かが何かを書く音がし始め、俺の机にもすぐ紙が届いた。
俺はペンを取った。
そして静かに、二文字を書いた。
——棄権。
ペンを置いて、うつむいた。
腕を枕にして机に伏せる。
時間が1〜2分ほど経っただろうか。
「全員書いたな? じゃあ集めるぞ」
担任の声と同時に、教室のあちこちで紙を回す音がした。
数枚の紙の束が教壇の上に積まれた。
担任は日誌を脇に寄せ、一枚ずつ紙をめくり始めた。
俺は上体を起こした。
教室は静かだった。
カサ、カサ……紙をめくる音だけが響いていた。
しばらくして、担任が顔を上げた。
「立候補者は3人。
上原結衣、高橋蓮、新井瑞希。」
小さなざわめきが教室をかすめた。
予想したかのように頷く者もいれば、
「え、あの子が?」というような表情を浮かべる者もいた。
担任は再び日誌を開き、淡々と告げた。
「投票は終礼の時間にやる。
それまでに誰に入れるか考えとけ」
その言葉が落ちると同時に——
チャイムが鳴った。
1時間目の開始を知らせる鐘の音。
椅子を引く音、教科書を取り出す音。
ざわめきはすぐに消え、教室はまた平常の授業モードへと戻っていく。
俺は鞄を開けて教科書を取り出した。
ゆっくり机の上に置き、
そのまま視線を下ろす。
1時間目の授業が始まった。
ページをめくる音が時折響くだけで、教室は静かだった。
教師の声とチョークの音、誰かが鉛筆を転がす軽い音が重なり、独特のリズムを作り出していた。
教師は教壇の前で本を開くと、静かに口を開いた。
「この単元は、中学でも一度やったことがあるはずだ」
「でも、中学のときとはちょっと違う。
概念自体は同じでも、見る目が変わってきているだろうからな」
チョークが黒板をなぞり、「表現の方法」という文字が残された。
指の動きに従って、白い粉が軌跡を残す。
「詩を書くとき、小説を書くとき。
書き手はなぜ、その言葉を選んだのか。
それを見るのが、この単元の核心だ」
教室は相変わらず静かだった。
多くの生徒が、教科書か黒板に視線を向けていた。
だが、集中の深さにはばらつきがあった。
俺はゆっくりとページをめくった。
下段に載っていた短い詩が目に入った。
——『揺れる木の影の下で / 僕は君を思った。』
飾り気も技巧もない文章だった。
それなのに、その一文が妙に引っかかった。
この詩の作者は、どんな気持ちだったんだろう。
「揺れていた」のは、本当に影だったんだろうか。
それとも、心のほうだったんだろうか。
「……鈴木」
不意に聞こえた名前に、顔を上げた。
教師は顔を上げることなく、教科書を見ながら言った。
「その詩、最初の一行を読んで、どんなふうに感じた?」
一瞬、視線が俺に集まる。
俺は落ち着いて、けれど少し低めの声で答えた。
「……言葉より先に、感情が動いた気がします」
教師は静かに頷いた。
「いい表現だな。感情が先に動いた、か……」
チョークが再び黒板に触れる。
『感情は言葉に先んじる』という言葉が、慎重に書き留められていく。
「それが、文学の始まりなのかもしれない」
教室は再び静かになった。
俺は再度、詩の一文を見つめた。
さっきより、ほんの少しだけ、その意味がくっきりと浮かび上がってきたような気がした。
一時間目は、静かに過ぎていった。
内容は、初めて聞くものじゃなかった。
予習していたおかげで、流れは大体つかめていた。
だからといって、適当に聞くのはまた別の話だ。
「慣れているから」って油断したら、意外と何かを落としてしまうものだから。
俺は教科書を閉じて、ちらりと時計を見た。
もう眠い。が、眠るのは家に帰ってからと決めている。
それまでは、なんとか耐え抜くしかなかった。
チャイムが、もう一度鳴った。
二時間目の始まりだ。
俺は教科書を開き、手に鉛筆を取った。
授業は繰り返され、いつの間にか時は流れ、終礼の時間。
教室には、一日分の疲れがそのまま染み込んでいた。
静かに教科書を片付けていた生徒も、窓の外をぼんやり眺めていた生徒も、
みんな一様に担任の声に耳を傾けていた。
「じゃあ、今朝話してた学級委員長の投票をするぞ」
教卓の前に立った担任が、淡々とした口調で言う。
配られた紙とペン。
一瞬の静寂のあと、投票が始まった。
結果は―
上原結衣が12票。他は11票と9票。
こうして、最も静かな子が学級委員長になった。
「えっ、結衣が!?」
どこからか驚き混じりの声が聞こえた。
動揺を隠さない声だったが、別に不思議ではない。
口数が少なくおとなしい生徒が、意外と中心になることは、よくあるものだ。
そんなざわめきも、すぐに薄れていく。
席を立つ者、カバンを片付ける者――
それぞれが小さな集団になって、教室を出ていった。
俺は急ぐつもりはなかった。
机にカバンを掛けたまま、ゆっくりと片付けをしていた。
「今日、クラスの雰囲気よかったよね」
「てか、結衣まじですごくない?」
無意識に耳に入ってくる会話が、静かなざわめきに変わっていく。
その中で――
上原結衣は、静かに、自分の席から立ち上がっていた。
表情はよく見えなかったが、少し緊張が解けたのか、両手を軽く重ねているのが見えた。
俺は一瞬だけ、そっちに目をやってから、すぐに視線を外した。
――あの日から、何かが少しずつ、変わり始めた。
第二話までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、鈴木潤の視点から、彼の日常と教室の空気感を静かに描きました。
誰とも関わらずに過ごそうとする彼の前に、眩しいほど自然と場に溶け込むクラスメイト——後藤高広が現れます。
何も起こらないようで、確かに「何かが始まった」そんな一日。
小さな変化の予感を、あなたも感じ取っていただけていたなら幸いです。
ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。