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第十五話:触れた手、踏み出し始めた歩み

黒板には、計算式が四行書かれていた。


間隔は一定だったが、三行目だけ少し長く、バランスが崩れて見えた。


先生はそのまま説明を続け、


俺のノートはその行で自然と一マス上にずれてしまった。


直すには中途半端な位置だったから、そのままにしておいた。


黒板の前に立つ先生は、四行目の締めを口だけで加えた。


チョークもその行も、それ以上は使われることなく、


手を挙げたり質問する者は一人もいなかった。



鞄のジッパーを開け閉めする音があちこちから聞こえ、


教室の空気が少しずつ動き始めた。


俺はゆっくりと鞄を背負い、教室を出た。


廊下ではすでに、それぞれ散っていく足音が混じっていた。



屋上の床には、金属フェンスの影が長く伸びていた。


陽の光はフェンスの向こう側に滑るように差し込んでいた。


床の上を軽く一周してから、


俺は縁に腰を下ろした。


鞄は隣に立てかけた。


いつも通りの姿勢、いつも通りの風景。


金属フェンス越しに見えるグラウンドでは、ユニフォーム姿の人たちが忙しなく動いていた。


「まさに、青春そのものだな」


そんな独り言を漏らしながら、しばらく今日やるべきことについて考えていると——


キィ――

と、


左側で金属のドアが開く音がした。


俺は顔を向けずに、


フェンス越しの風景に視線を固定したまま、


聞こえてくる足音だけに意識を移した。


その足音は、床を押すように軽く、一定の間隔で——


俺の背後から左側へと、徐々に移動していき、


やがて止まった。


「…あの、すずきさん? いないんですか…?」


俺はゆっくりと立ち上がった。


一歩踏み出して、体を左に向けると、


きょろきょろと辺りを見回しているみなもとさんの姿が見えた。


どうやら後ろを振り返るという発想がないのか、


彼女は少しずつ前方へと進んでいた。


俺はそのまま、みなもとさんに向かって慎重に歩み寄った。


「すずきさん…?」


彼女の動きは徐々に控えめになり、


進むスピードもどんどん遅くなっていった。


俺はなるべく音を立てないよう注意しながら、


一歩ずつ彼女の後ろに静かに近づいていった


そして、腕を伸ばせば肩に触れられるほどまで近づいたとき——


「えっ?」


彼女が振り返った。


「わぁっ!」


と、彼女は体をびくっと震わせて、反射的に後ずさりして、


「す、すずきさん…?」


俺だと気づいて、


「ふあ…びっくりした…」


と、小さく息をついて、肩の力を抜いた。


「すみません、驚かせるつもりはなかったんですけど。あの縁にいたんですが、なかなか気づいてないようで…」


俺は右手で少し頭をかきながら、さっきまでいた場所を指差した。


まあ、この場所に不慣れなら、気づけないのも無理はないんだが。


「え、い、いえ。大丈夫です」


彼女は少しうつむき、両手を揃えて人差し指をもじもじと動かした。


その仕草を静かに見つめていると、


彼女はふと何かを思い出したように顔を上げた。


「あっ、そうだ。愛ちゃんに相談してみたんですけど、」


愛ちゃん…昨日聞いた話だと、校内で評判の良い彼女の友人だったっけな


「分かったって言って、手伝うって言ってくれました。」


「本当ですか?それは助かります」


そう言いながらも、自然と口元が少し緩んでしまったのが自分でも分かった。


「でも……その……」


彼女は再び言い淀み、俯いた。


「……他に、何か問題でもあるんですか?」


俺は表情を元に戻して尋ねた。


「そういうわけじゃないんですけど……愛ちゃんがすずきさんがどんな人なのか気になるって言って、一度会ってみたいなって……あっ、もちろん断ったから安心してください! こういうのは本人の意思が一番大事なんですから!」


言いながら、彼女は急に両腕を横に振り、

そのまま両手で軽く拳を握って、下に少し力強く下ろした。


今さらだけど、表現の仕方が本当に豊かな人だなと、改めて思った。


「そう……だったんですね。」


俺は少し息を吸ってから、


「ひと通り片付いたら、挨拶くらいはするようにします。礼儀ですから」


少し表情を緩めて、そう答えた。


「本当ですか?」


彼女は目を輝かせて、じっと俺を見上げてきた。


思わず、俺は視線を逸らすように少し顔を背けて、


「……はい」


とだけ、短く返した。


そうやって、お互い言葉がなくなって、数秒くらい経った後、


「そ、それでですね、すずきさん。絵、描いてきたんですけど……」


彼女が慎重な口調で静寂を破った。


背負っていた鞄を下ろし、ジッパーを開けてスケッチブックを取り出す。


そのままスケッチブックを広げてパラパラとめくり、やがて手を止めた。


「わ、私……絵を描くのは好きなんですけど、誰かに見せたことって、あんまりなくて……あの……」


そう言って、再び俺をじっと見つめてきた。


「安心してください。どんな絵でも、笑ったりはしないんですから」


彼女の目をまっすぐ見ながら、答えた。


創作をする立場の上で、他人の作品を見くびるなんて——


それは自分の顔に泥を塗るのと同じ、愚かな行為だから。


「はい……じゃあ……」


彼女は小さく息を飲んで、スケッチブックをゆっくりと回して、


裏側を俺に向けた。


そこには——


青空の下にある、灰色の屋根と白いコンクリート。


たくさんの窓と、二階中央に見える円形のバルコニー。


黄色い正門と、ゴム素材のような赤茶の道、そしてその脇にある、自然石がパズルのように組まれた小道。


それらの全体を縁取るように立っている二本の大きな木と、一定間隔で植えられた小さな芝生。


「……」


俺はそのまましばらく動けず、考え込んだ。


何も言わずに黙っていると、みなもとさんの方から口を開いた。


「あ、あの……すずきさん……?」


どこか不安げな声。


だが、


「これは……使えませんね。色味が明るすぎて、そもそも合いません」


俺の口から出た言葉は、それだった。


気づかぬうちに、少し顔が歪んでいた。


「えっ……」


彼女はそう、小さく声を漏らすと、そっと上体を伏せた。


屋敷が曲線を描きながら、彼女と一緒に下に下りる。


「でも、いい絵ですね。もし、こんな明るい屋敷だったら、主人公の家系もそんな不幸ではなかったかもしれませんね。」


そう言って、俺は彼女の様子を見ながら、静かに微笑んだ。


「え……?」


その言葉に、彼女はゆっくりと上体を起こした。


揺れる瞳、かすかに震える肩。


「はい、問題ないです。今すぐには使えないんですけど、色味やトーン? そういうのを調整すれば、十分使えます。正直に言って、驚きました」


そんな彼女に、柔らかく今自分が感じた率直な感想を伝えた。


彼女はスケッチブックを口元まで高く掲げ、小さく体を震わせた。


「う……嬉しいです。もし、すずきさんにがっかりされたらどうしようって、心配してたのに……」


その心から喜んでいる様子に、なぜか少しばかり気恥ずかしくなって、


そっと視線を逸らした。


……そもそも、そこまで期待してたわけじゃないし、


ただ、少しだけ、気になっただけだったから


そんな反応してくると、こっちが困る。


「こうやってずっと立ってるのもあれだし、とりあえず座りましょうか? あ。」


話題転換も兼ねて、それに、もっと気楽に話せればと提案しかけて、ふと気づいた。


この屋上には、腰を下ろせるような場所なんてどこにもない。


床は全てコンクリートで、座るとしたら直に地面に——


俺はズボンだから構わないが、みなもとさんはスカートだ。


俺みたいに座ったら、きっと脚が汚れてしまう。


「すみません、考えが足りませんでした。みなもとさんはスカートなんですから、そのまま座ると、足が汚れちゃいますね」


頭をかきながら、少し困ったような表情で言った。


「あっ、大丈夫です。じゃあ、他のところに移動するのはどうですか?」


彼女は相変わらず両手にスケッチブックを抱えたまま、微笑みながらそう言った。


俺はうなずいた。


「じゃあ、階段はどうですか?今の時間なら、教室は全部鍵がかかっているだろうし、話せる場所はそこしかないと思うんですが」


俺は右手を差し出し、掌をそっと見せながら、彼女に提案した。


「あ、はい。いいと思います。」


すると彼女はうなずき、鞄を持ち上げた。


俺は屋上の扉を引いて、中へと足を踏み入れた。


そして、すぐ下にある階段の隅に腰を下ろした。


続いて、みなもとさんが俺と少し距離を置いて隣に座った。


少しの沈黙


先に口を開いたのは俺のほうだった。


「絵は普段から描いているんですか?」


「はい。小さい頃から絵を描くのが好きで、ほぼ毎日描いています」


彼女は小さく微笑みながら、そう答えた。


「昨日確か、読書もたくさんしたって言われましたが、もしかして絵を描くようになったきっかけが、感動した物語の場面を直接再現してみたかったからなんですか?」


俺がそう尋ねると、


「えっと…その…」


彼女は言葉に詰まった。


あまりに深い質問だったかと思って、質問を変えるべきかと考えていると、


「そうだったん…でしょうか? 分かりません。ただ…気づいたら、もう描いていたんですから」


彼女はそう言いながら、顎に人差し指を当てた。


俺とは、出発点が違う人だって


そう思った。


専門用語ではないが、彼女はおそらく本能型アーティスト…というカテゴリーに入るんじゃないかな


「すずきさんは、物語を書き始めたきっかけが別にあったんですか?」


今度は彼女の方から質問してきた。


「はい、私はありました。幼い頃からストーリーのある数多くのゲームをプレイしながら、自分もこんな物語を作ってみたいって思ったのがその始まりでした。」


俺は正直に答えた。


「きっかけをそうはっきり覚えてるって羨ましいですね。そんなものがあれば、何かやめたい時にも初心を思い出して、またやる気を吹き込むことが出来るから」


すると彼女は、俺の方を見て一瞬微笑んで、すぐにまた顔をもとにし、少し上を見上げた。


「やめたいと思ったことがあったんですか?」


俺も視線を正面に向け、そう尋ねた。


「いえ、それはなかったんですけど…時々不安になる時があって。もし絵をやめたら、また描けるようになるかな…って」


俺は何も言わなかった。


どう言うんだとして、無責任な言葉になるしかない。


芸術とは元々、自分自身との戦いだ。


他人の言葉に揺れるたびに、自分もその資格を疑ってしまう。


「すずきさんは…字を書くのをやめたいって思ったことありますか?」


彼女は無理に笑みを浮かべ、俺を見ながらそう尋ねた。


「ないですね。やめてしまったら、それこそあいつらに面目がないんですから。ハッピーエンドでも、サッドエンドでも、バッドエンドでも、最後までやり遂げたいです。」


俺はしばらく彼女の目を見つめた後、再び顔を正面に向けて答えた。


「… すごいですね、すずきさんは」


そう言う彼女の声には、わずかな震えが混じっていた。


「絵に関しての責任感が何なのか…私も一度深く考えてみる必要がありそうです。」


一瞬迷ったように見えたが、すぐに決意に満ちた声でそう言い、俺の方を見た。


「そうですね。みなもとさんが納得できる答えを見つけたらいいですね。」


初めて出逢った入学式の朝に似たようなこと言ったな。


そう思いながら、俺は立ち上がった。


「では、そろそろ帰りましょうか。残りの話は明日することにしましょう。」


「え?」


すると、彼女は立ち上がらずに俺を見上げた。


「明日も…話せるんですか…?」


あ、そういえば、特に約束したわけじゃなかったな。


思ってたより話し甲斐があったせいか、つい一方的に言ってしまった。


「はい、今日、みなもとさんと話しながら、私の考えも少し整理した部分がありましたから。みなもとさんさえよければ、これからも放課後にこうして少しずつ話せますでしょうか?」


俺は柔らかく微笑みながら、目を丸くしている彼女を見下ろした。


「……はっ、はい。私も……すずきさんと、こうして創作についての話、もっとしたいです!」


彼女はぱっと立ち上がり、両目に力を込め、拳を握りしめながら答えた。


「じゃあ、決まりですね。ジャンルは違いますが、創作者同志として、これからよろしくお願いします。」


俺は手を差し出した。


「えっ、私なんかが創作者同志だなんて…」


彼女は手を差し出しかけて、少し迷った。


「これから、よろしくお願いします!たくさん学びます!」


けど、すぐ力強くそう答えて、そっと俺の手を握った。


そして、俺たちはお互いに手を三回くらい振ってから、手を離した。


「では、帰りましょう。私は徒歩ですが、みなもとさんは?」


一緒に階段を下りながら、俺たちは会話を続けていった。


「私はバスです。校門をくぐって10分くらい歩くとバス停に着くんです。」


どの方向ですか?


「左です」


「同じ方向ですね。じゃあ、バス停までご一緒します。」


「分かりました。そういえば、すずきさんは…」



想像だにしていなかった、仲間ができちゃった日


この日から俺を含み、世界が確実に変わり始めたことに気づくまでは、


そう長い時間はかからなかった。

第十五話までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、鈴木潤の視点から、

放課後の屋上で交わされた、創作に関するやり取りを描きました。


彼にとって、創作とは基本的に一人で向き合うものであり、

他人と協力することや、

自分の内面を言葉にすることは、

これまで特に必要としていなかった行為でした。


けれどこの日、

言葉や視線のやり取りを重ねる中で、

彼は自分の“物語”に、

誰かが“色”を添えてくるという経験をします。


それがどんな意味を持つのか、

この時点では、彼自身にもはっきりとは分かっていません。

ただ、相手の描いた絵を一度立ち止まって見つめ、

言葉を選びながら向き合い、

気づけば「また明日、話しましょう」と口にしていました。


そして、彼を手伝いたいと思っていた春香は、一瞬迷いながらも、その手を握りました。

それは、彼女にとっても、はっきりと心が動いた瞬間でした。


今後、二人の関係はどう変わっていくのか、

そしてそれぞれが抱える“物語”と“空白”がどのように交わっていくのか――

ぜひ、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。


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