第十四話:語り始める輪郭
丘を一つ越えて、交差点を渡る。
登校の道のりは、いつもと変わらない。
誰かと会話を交わすことも、誰かを待つこともない。
決まった時間に家を出て、決まった道を歩く。
顔を上げれば澄んだ空、足元には砂利混じりの歩道。
その間のどこかに、自分という存在が紛れ込んでいる。
ふと、道端に咲く花が目に入った。
その間を、猫が素早く駆け抜けていく。
瞬間的に、アイツはいいな。自由で、と思った。
いつになったら、こんな型にはまった日常から抜け出して自由になれるのだろう。
毎日が家と学校の往復。
たまにゲーセン。
これといった変化もない、ただ日々を過ごしているだけの人生。
だからといって、何か不満があるわけじゃない。
ただ、もう少しだけ自由に——
この広い世界で、想像を現実にする。そんなことがしたい。
そう思っているだけだ。
日差しがアスファルトの上に長く伸びていた。
その暖かさが足裏から伝わってくるようで、ほんのりと体も温もった。
風が唇をかすめていったせいか、気づけば少し乾いたように感じられた。
道沿いには、冬の間ずっと葉を落としたままの木々の枝が、
首をもたげて空を見上げていた。
その隙間から電柱が見え、電線が風に揺れている。
毎日見ている風景なのに、今日はやけに目に入ってくる。
静かだ。
まるで世界が一瞬止まったように。
周囲のすべてが止まっていて、自分だけが取り残されたような感覚だった。
無意識のうちに、息を吞んだ。
視界はようやく戻り、再び地面を踏みしめていることに気が付いた。
顔を元に戻し、足早に学校へ向かった。
校門が近づくにつれ、ざわめきがかすかに聞こえてきた。
明るく挨拶を交わす声や、今日の弁当の中身について話す声、昨日見たドラマが面白かったという声などが、かすかに耳に入ってくる。
自分にとっては特に意味のない会話の中を、いつものように静かに通り抜けていく。
人はどうして、何でもない話に夢中になれるのだろう。
俺は、いつも「意味のある」生き方をしたかった。
でも、どうすればそれが出来るのか分からなくて、
子供の頃から今まで、親に言われた通りただ勉強だけしてきた。
幸い、親に似て頭は良かったし、
勉強しながら新しい知識を身に付けるのは楽しかったから、別に苦労ではなかった。
でも、何か違う気がしていた。
ただこのまま勉強して、いい会社に入って、安定した生活を送る——
それが、本当に「意味のある」人生なのだろうか?
校門をくぐり、まっすぐに伸びた道を歩く。
グラウンドを横切れば少し早いけど、
わざわざ土を踏んでまで時間を短縮したいとは思わなかった。
階段を上り、左に折れる。
左手に見えるグラウンドでは、運動部が朝練をしていた。
ああいうのって、楽しいのだろうか。
身体を動かすことにあまり興味も楽しさも感じない俺にとって、
ああいう光景は時々不思議に思える。
右に体を向けて、校舎の入口へ入る。
自分の下駄箱を見つけ、運動靴から上履きに履き替えて、階段を上る。
三階に到着し、廊下を歩いて一年B組の教室へ入った。
ガラッ——
教室の雰囲気は、いつも通りだった。
前の方では本を開いたまま突っ伏している人がいて、
窓際では向かい合って話している二人がいた。
その中の一人が、俺が入ったのに気づいたか、席から立って近づいてきた。
「宮田くん、おはよう」
そう言って、にこっと笑いながら軽く手を上げた。
「ああ、宮本。おはよう」
少しだけ顔をそらし、鞄を机のフックに掛けながら答える。
「宮田くん、ちょっと冷たくない?」
その言葉に振り返ると、宮本さんは少し不満そうな顔をしていた。
「別に。そんなつもりじゃなかった。」
席に座って、右手で顎を支えながら答えた。
朝から宮本さんの相手をするのは、俺にとって少々しんどい。
「ふ〜ん、本当かな〜」
予想通り、宮本さんは表情を切り替えて、少し意地悪そうな顔になった。
「それより、宮本さん。源さんと話してたんじゃなかったの?」
俺は静かに宮本さんの顔を見て、顔を少しそらして窓際を見た。
同じクラスの女子で、宮本さんの友人である源さんが、こちらを見ていた。
「ああ、私ったら。宮田くんからかおうとしてたら忘れちゃった。」
彼女は少しばつが悪そうな顔をした。
「まったく…俺はオモチャじゃないんだよ」
うつむいて、頭を軽く掻いた。
人をからかって楽しんでるところで、宮本さんは人が悪い。
「ごめん、ごめん。あ、あとでおかずあげるから」
「いらない」
少し不満そうな顔をして、また顔を背けた。
「困ったな〜。とにかく宮田くん、あとでね!」
彼女はわざと俺の目の前で手を振ってから、くるりと背を向けて行ってしまった。
少し気を吸い取られたような感じ。
誰にも気づかれない程、そっと息を吐いた。
この感覚は、以前にも何度か感じたことがある。
中学の頃、俺に話しかけてきた女子たち
休み時間になるたびにさりげなく近づいてきて、聞いてもいないことを一方的に話してくる子。
授業中に俺が発表をしたら、授業が終わった途端、「すごいね」と笑ってくる子。
無礼だとまでは思わなかった。
ただ、
なぜ俺に話しかけて来るのか、
なぜ俺と仲良くなりたいのか、
その理由が俺にはよく分からなかった。
ある子は、俺の口数が少ないのを
「恥ずかしがってるから」と思って、さらに距離を詰めようともした。
別に断らなかったのは、そのほうが面倒が少なかったから。
人は元々、目的なしに動けるのだろうか。
ほとんどの場合、
俺が素っ気なく反応すると、いつの間にか興味を失っていた。
別に何かあった訳でもないのに、
ある日を境に話しかけることもなくなり、目を合わせようともしなくなって、
気づけば、俺の前から消えていった。
彼女たちの「目的」は、いったい何だったのだろう。
ふと、窓際を見やった。
宮本さんは両手で怪獣の真似のような仕草をしながら、源さんと話していた。
そういえば、最近ああいうアニメが流行っていると聞いたような気がする。
世の中のことはあまり興味がないので、よく知らない。
けれど、あの二人は楽しそうだった。
宮本さんは——
今まで俺に近づいてきた人たちとは、少し違った。
もちろん、ああいうタイプだから俺があまり反応しないと距離を詰めようとはするれど、
「積極的であっても線は守る」という微妙な距離感を維持している。
そのおかげで、何となく俺は自分のペースを乱されずにいられる。
ページをめくる音、
ペンがノートを走る音がする。
朝のホームルームの時間は、いつもと変わらず、
特に意味もなく過ぎていく。
連絡事項といっても、
生徒なら守って当然のことばかり。
担任が教室を出ると、教室は再び騒がしくなった。
俺は静かに鞄から教科書を取り出し、机の上に置き、
イヤホンを取り出してポケットのスマホに接続した。
すぐに、テンポの速い曲が流れてくる。
最近、練習している曲だ。
自然と、
ゲームセンターの画面の前に立っている自分の姿を想像しながら、
指先が静かにリズムを刻み始めた。
チャイムが鳴ると、
あちこちから椅子を引く音と、ざわざわした声が一斉に広がった。
俺は鞄から財布を取り出し、席を立った。
教室のドアに向かおうとした瞬間——
「宮田くん」
また宮本さんに呼び止められた。
「どうした?」
体をゆっくりと回しながら答える。
宮本さんの隣には、源さんもいた。
この二人はいつも一緒にいるからな。
「やっぱり、おかずちょっとあげたくて。宮田くん、いつも購買でしょ? 栄養足りてるかなっと思って」
「あっ、愛ちゃん、幾らなんでもそれはちょっと心配すぎるっていうか」
源さんは困ったように笑いながら、宮本さんを制するように手を上げ——すぐに下ろした。
「さっきいらないって言っただろう。俺、購買行くから」
「あ……」
そのまま体を反転させ、教室を後にした。
親切にするのはその人の自由だが、断るのもこっちの自由だ。
この前もらった宮本さんのおかずは確かに美味しかったが、
今はそれより一人でいたい気分の方が強かった。
廊下を進み、階段を下りて一階へ。
左に折れて、校舎を出た。
「おい、まだかよ?」
「入れてからそんな経ってないでしょ。もうちょっと待ってよ」
「こら、それあたしが買おうとしてたやつじゃん!」
「うるさいな、早いもん勝ちでしょ」
予想通り、購買の入口辺りは騒がしかった。
電子レンジを巡って言い争う生徒たち、
隣の人のパンを指差して文句を言う声。
俺はその混雑の中で、できるだけ他人と肩がぶつからないように気をつけながら購買の中に入った。
幸い、中はそこまで混んではいなかった。
俺は素早く焼きそばパンと牛乳を手に取り、レジへと向かった。
「焼きそばパンと牛乳ね、350円になります」
財布を取り出して会計を済ませ、そのまま静かに外へ出た。
教室のドアを開けて入ると、
すでに多くの生徒たちが弁当を広げて、楽しそうに会話をしていた。
人は、なぜ食事をしながら話をするのだろう?
俺には、いまいち理解できなかった。
家で親と一緒に食事をする時も、必要以上の会話はしなかった。
食べ終わったらすぐ自分の部屋に戻っていた。
それに、両親同士でもあまり会話しなかったから、
こんな風景を見る時は、どうしても違和感を感じる。
俺は静かに席に戻り、
焼きそばパンの包装を剥がし、
牛乳パックにストローを差して、昼食を取り始めた。
食事をしながらふと思った。
もし重力がなかったら、
今頃空中で浮遊感を感じながら、昼食をとっていたのだろうか。
そう思って、軽く首を横にして窓際を見ると、
いつものように宮本さんと源さんが微笑みながら会話をしつつ、弁当を食べていた。
俺は再び顔を元に戻し、食事を再開した。
いつの間にか時間が過ぎて、放課後になった。
生徒たちは次々に立ち上がり、それぞれ輪を組んで教室から出ていく。
俺も机を片付けて、静かに席を立った。
「宮田くん、今日も飼育小屋、行くんでしょ?」
すると、背後から宮本さんの声が聞こえた。
振り返ると、いつの間にか宮本さんが立っていた。
「うん」
軽くうなずいて、短く答える。
「そっか。宮田くんのそういうところ、みんな分かればいいのに」
にっこりと笑いながら、そう言う。
「俺は別に注目されたくない」
再び体を向け直し、鞄を手に取りながら答えた。
「あ、宮田くん!」
宮本さんが、少し焦ったような声を出した。
顔だけ少し振り向くと——
「また明日ね!」
と言って、また満面の笑みを浮かべながら手を振っていた。
「ああ、また明日。宮本さん」
体をまっすぐに向けて、
特別なポーズも取らずにそのまま挨拶を返し、
教室を後にした。
何も特別なことのない一日。単調な日常。
でも、当時の俺は、
その中に確かな温もりがあったことに——
まだ気づいていなかった。
第十四話までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、宮田弘明の視点から、
「意味のある生き方とは何か」という問いと、
その答えをまだ持たないまま、繰り返される日常の風景を描きました。
彼にとって、他人と関わることや、
何気ない会話をすることは、
「意味」のあるものに含まれていないんです。
突然起こった事件なんかにふと立ち止まる瞬間はあっても、
感情が大きく動くわけではなく、
必要な反応の後、また自分のペースに戻る。
それが今の弘明です。
宮本との関わりも、
彼にとっては“特別なもの”ではなく、
ただ“そういうことがあった”程度の出来事にすぎません。
それでも、誰かの声や視線が、
ほんの少しだけ彼の中に残っていく。
それが今の彼にとって“意味”を持っているわけではありませんが、
まるで空気のように、静かに積もっていくものかもしれません。
今後もそれぞれの距離と関係を繊細に描き続けるつもりです。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
ご感想・ご意見など、お気軽にお寄せください。




