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第十三話:動き出した境界線

トラックの上に陽射しが長く伸びていた。

土の匂いが濃く立ち上り、風に舞った砂埃はすぐに地面へ沈んだ。


――タッ。

短い音。グラウンドの方だ。

もう一度。今度は少し長く響いて、そのすぐ後に誰かの声が聞こえた。

思わず顔を向けた。


視界にいくつもの影が重なる。

ピッチャーが大きく腕を振りかぶった。

そのまま前へと振り下ろすと同時に、ボールが弾丸のような速度で飛び出す。

動体視力には自信がある俺でも、その軌道を目で追うのは無理だった。


――パシッ。

音と同時に、


「スト〜ライク!!」


審判役の生徒の大声が響いた。

バッターはバットをコトンと下ろし、砂が軽く散った。

歩き去るバッター、その後に続く号令の声。


新しいバッターが入ってくる。

ヘルメットを直し、足先で一度だけ打席前を軽く払った。


野球か。

そういえば立花が、今日レギュラーが決まる大事な練習があるって言ってたな。

宿題忘れたせいで、担任に敷かれて強制居残りで随分疲れたし、


「応援ついでに、少し覗いてくか」


そう口にしながら、足をグラウンドへ移した。


だが、立花の姿は見えなかった。


「あれ、後藤? どうしたんだよ」


後ろから声がして振り返った。


「まさか、お前……ついに野球部に入る気になったのか?」


「お前のスピードなら、外野、バッチリだって!」


立花とよく一緒にいた野球部の連中だった。


「ああ、そんなんじゃなくて、立花の応援ついでに、ちょっと見てこうって思って」


軽く答えた。

……そう言えば、こいつら、練習中なのにどこ行くんだ?


「そういえば、お前らどこ行くんだ? 今、練習中だろ?」


少し首をかしげて聞く。


「ああ、顧問の先生が必要な備品を忘れたらしくってさ。持ってきてくれって」


「そうそう! サボりじゃねーから、誤解すんなよ〜」


笑いながら言う。


「そっか。じゃあお疲れ」


手を軽く上げて見送り、またグラウンドへ視線を戻した。


「おーう、お疲れお疲れ!」「後で俺らも出るから見てよなー!」


遠くから聞こえる声にまた手を上げて答えた。


野球部か……

もちろん、興味がないわけじゃねえが、野球までするには体が持たないんだよな。

今だって陸上に、あいつらとサッカーもやってるし。


小さな頃読んだ漫画みたいに、分身術でも使えりゃまた別だけどな。

って、んなもん出来るわけねえし。

飛んだ想像だ。


――タァン。

お、今のは打ったな。


だが、プレーには目を向けず、立花の姿を探して周囲を見回していた。

「あ、いた。」

遠く、グラウンドの端の石段に、立花を含む野球部の連中が見えた。

立花のやつ、野球する時は、必ずあのバンダナ巻くからな。

無地だが、緑色でいっぱいのバンダナが随分と目立っていた。


……さて、どうすっかな。

来たのはいいが、立花のやつ順番待ちしてる様子だし。

少し考えた後、せっかく来たんで、応援の一言でもやってこうよって決めた。


「じゃ、部外者は引いて見るか。」

そう呟いて、少し離れた場所で立花の番を待つことにした。

そうだ、下手に近づいてボールに当たられたら大変だし、横に行こう。


足を運んでグラウンド脇へ向かうと、砂が靴の下でザリと鳴った。


「はい、1班ここまで! 次、2班、交代ー!!」


声が響き、選手たちが一斉に動き出す。

石段に座っていた二チームの部員たちが、次々と立ち上がる。


それに従って緑のバンダナも立ち上がった。


立花がグラウンドへ歩いていきながら肩を軽く回した。


やがてマウンドの前に到着した立花は、盛られた土の上に立った。

前後に動きながら、足で土を踏み固める。


その姿を見ていたら、なんだか身体がうずうずしてきた。

トラックで軽く跳ねたくなるような衝動。

気づけば足が勝手にその場でリズムを刻んでいた。


立花はやがて動きを止めた。

高さの調整、もう終わったのか。


立花はマネージャーからボールを受け取って、グローブをはめた。

その後、ボールを下に向けたまま指を何度か動かした。


……緊張してんのか?


マウンドの上だけが不自然に静かになった。

立花は微動だにしなかった。

右手は腰の辺りで止まったまま。

帽子を直し、深く息を吸った。

その動きすら硬い。


キャッチャーが右手を上げても、立花はうつむいたまま動かない。

ただ、ボールを握る指先だけがわずかに震えていた。


「おい、あいつ、どうなったんだ?」


外で見ていた先輩たちがざわつく。


「おい、タチバ――」


「立花!!」


先輩たちより先に、俺が叫んだ。

瞬間、周囲の視線が全部俺に向いた。


「何やってんだよ! しっかりしろ!!」


構わず叫ぶ。

立花は俺の方を見て口を動かしたが、何も聞こえなかった。

ただ、腕を振った。


先輩たちも再び立花を見る。


「うッ!!」


立花の体はほとんど動かず、ボールだけが手から飛び出した。

動きがおかしい。

腕と肩だけ急に跳ねたみたいな感じで――


ボールは曲がるように見えて、キャッチャーミットを逸れ、左側に抜けた。


――タッ。

短い音。


空気が止まった。


反射的に音の方向を見ると、女の子が座り込んでいた。


俺は一気に駆け寄った。


「大丈夫ですか!? どうかしましたか!?」


すぐに怪我を確認する。


「これは……」


膝の外側が赤く腫れ上がっていた。


「うっ……」


声も出せず、震えている。


そんな中、彼女の後ろ髪を絡んでいる黄色の髪留めが目に入った。


この髪留め……まさか。


顔を確かめるために、俺は前に回り込んだ。


間違いない。


「お前……鹿島じゃねえか! おい――」


“大丈夫か”と言いかけたが、やめた。

どう見ても言葉を返せる状態じゃない。

しばらく歩きづらくなるのは確かだった。


右の方を見ると、ボールが転がっていた。

立花の暴投にそのまま当たってしまったのか。


「おい、君! 大丈夫か!」


最初に来たのは、さっき審判をしていた先輩だった。


「大丈夫か!?」


後ろから立花も駆け寄ってくる。


鹿島はまだ声を出せず、うめき声だけ漏らしている。


「先輩! 俺が保健室まで連れていきます!」


立花が拳を握って言う。


「いえ、俺が連れていきます」


俺は立花の肩を軽く叩き、先輩へ向き直った。


「後藤、お前が?」


「そうだ、後藤。俺の暴投でこうなったんだし、ここは俺が――」


首をかしげる先輩、身を乗り出す立花。


俺は二人から半歩下がり、軽く笑った。


「お前、今日、重要な練習だろ? だから俺に任せとけよ。どうせ、今日暇だから」


立花を見て言った。


「だ、だけど――」


立花の肩をもう一度軽く叩くと、

あいつは黙り込んだ。


「俺の“騎士道精神”、知ってんだろ? 仲間と女の子、両方を助ける機会なんだ。俺にやらせてくれよ」


そう言いながら、俺はにやっと笑った。


「……ああ、お前のその父さんの、な……」


立花も気まずそうに笑う。


「わかった。でも、この借りは絶対返すからな」


「おう、今度一発奢れよ」


立花は先輩を見て言った。


「後藤に任せましょう、先輩」


「……まぁ仕方ないか。後で様子を見に行く。今日の臨時監督は俺だからな」


先輩は少し鹿島に視線を向け、俺に視線を戻した。


……いや、俺は送ったらすぐ帰る気だけどな。


軽く頷くと、二人はグラウンドへ戻っていった。


さて、どうするっかな。


父さんは“心を許した関係じゃないなら、命に関わる場合以外は一切女に触れるな”って言ったけどな。


「鹿島、立てそうか?」


「う、うぅ……」


鹿島は顔を歪め、ゆっくり首を左右に振った。


……困ったな。


触れずに保健室へ連れていければいいんだが。


……保健室?


そうだ、先生に何か手があるかも――!


そこまで考えた瞬間、俺は叫んでいた。


「悪い! ちょっとここで待ってくれ! 保健の先生呼んでくる!!」


俺は校舎へ向かって全力で走った。



「先生!!」


勢いよく保健室のドアを開ける。


「後藤!? どうしたの、どこかひどいケガでもしたの!?」


先生は驚いて立ち上がり、廊下へと歩いてきた。


「はぁ……はぁ……俺じゃなくて、鹿島が! 怪我した人を運べるもの、ありますか……!」


周囲を見回したが、それらしいものはなかった。


先生は短く息を吸った。


「残念だけど、そういったものはないわ」


顔を少ししかめながら言った。


「くっ……じゃあどうすれば……あ、先生、一緒に来てくれませんか!」


少し考えたが、すぐに答えは出た。


「ええ、一緒に運びましょう。案内してくれる?」


「はい! こっちです!」


俺と先生は急いで鹿島の元へ走った。



「鹿島!」


グラウンドに着くや否や駆け寄る。

うつむいていた鹿島は、俺の声に反応したのかゆっくり顔を上げた。

顔色は相変わらず良くなかった。


「鹿島さん、ちょっと見るね」


先生が近づき、膝を確認する。


「これは……腫れが強いわ。しばらく歩くのは無理ね」


そう言って首を振った。


「後藤くん、手伝って。私は右側を持つから、左側お願い」


「了解!」


俺は鹿島の左腕をそっと取り、肩にまわした。

その瞬間、鹿島はビクッと小さく震えたが、意識しないようにした。


これは単なる救助行為だ。

絶対女に触れることじゃないから。

父さんも認めてくれるはず。


……鹿島は大丈夫なんだろうか。


顔を見ると、鹿島は真っ赤になっていた。


恥ずかしいんだろうか。

まぁ、男に肩を貸されるなんて慣れてないだろうし。

鹿島は基本、大人しくて控えめな子だしな……。


「せーのしたら立つのよ。せーの」


先生の合図に合わせて立ち上がる。

息がぴったり合って、崩れずに支えられた。


先生の歩幅に合わせてゆっくり歩き出す。


「……あ、あの……ありが……と……」


鹿島が小さく俯いてつぶやいた。


それを言うなら、「ありがとうございます」じゃないか?先生がいるのに、何で俺に言うんだ?


小さな疑問が浮かんだが、口に出さず、ただ首を少しかしげた。


その拍子に、首の後ろに鹿島の手の感触が伝わった。

いつもこの手で色々手伝ってくれていたのか。

礼は言ってきたつもりなんだが、なんか……改めて考えて見ることになる。


「それで……何があったの? 何か飛んできた物に当たったように見えるけど」


先生が聞いてくる。


「ボールです」


即答した。


「……それは大変ね。フェンス位具備しろって毎回職員会議で言ってるのに。……外傷だけで済めばいいけど……」


先生はグラウンドを見てから、また歩き出した。



「ふぅ……着いたわね」


保健室前に着いた途端、先生はため息をついた。


「お疲れ様でした」


そう言いながら俺はそっと笑って見せた。


先生はドアを開けた後、俺達は鹿島をベッドに座らせた。


「じゃあ、俺はこれで失礼します。鹿島、ちゃんと診てもらえよ」


軽く会釈して手を上げる。


「もういくの? 鹿島さんと一緒に帰るんじゃないの?」


先生が首をかしげた。


「え」


少し間を置き、


「俺と鹿島は、そういう仲じゃないんです。むしろ鹿島が気まずくなるはず。な? 鹿島」


口元を少しだけ上げて、鹿島を見た。


「……うん、そうね。気をつけて帰ってね、後藤くん。今日は……ありがとう」


小さく言って手を振る。


「おう!」


勢いよく返事して、そのまま保健室を後にした。



――一日くらい走るのを休むことにしただけのあの日、


むずむずする体と違って、

外部から、また別の何かが動き始めてた。

第十三話までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、後藤高広の視点から、

**「心を許した関係じゃないなら、命に関わる場合以外は一切女に触れるな」**という父の言葉と、

目の前の事故がぶつかった場面を描きました。


 


高広にとって、その教えはただのルールじゃなくて、

行動するときの前提みたいなものでした。


でも今回は、鹿島が怪我をしていて、

そのまま何もしないわけにもいかない。

だから彼は、教えを守りつつ、今できる方法を自分なりに考えて動きました。


 


特別な気持ちがあったわけでも、

かっこつけたかったわけでもありません。

「こう動くのが自然だ」と思ったから、そうしただけです。


 


あの一件が特別な意味を持つことは、彼にはなかった。

しかし、外部では別の動きが始まり、何かの変化をもたらすのかもしれません。


 


それぞれの気持ちや距離がどう変わっていくのか、

これからも見守っていただけたら嬉しいです。


 


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