第十二話:名前を越えた真心、初めて触れた想い
すずきさんは、屋上の出入口へと歩き出していた。
その背中が、少しずつ遠ざかっていく。
「……あ、あの!」
私は息をのんで、思わず彼を呼び止めた。
その瞬間、彼の足が止まった。
ゆっくりと振り返る姿に、胸が大きく高鳴る。
気づけば、一歩だけ前に出ていた。
「まだ……昨日の答え、聞いてませんですけど……」
すずきさんは立ち止まったまま、少しうつむいて考え込むように沈黙した。
短い静寂。
三秒ほど経った頃だったかな。彼は顔を上げた。
「兄は……弟をあまりにも愛した挙句、弟を試します」
その声は静かだったけど、僅かな力が込められていた。
「弟が強くなるのを望んだからです。」
その言葉が終わった瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
悲しい話だと思った。
でも――それだけではなかった。
……その声には、何かが宿っていた。
これまで誰にも話したことがないような、そんな慎重さ。
「それは……本当強い愛ですね。
誰にでもできることじゃないし、誰にでも受け止められるものでもないんです。」
思ったままを、ゆっくりと口に出す。
そして一拍置いてから、もう一度息を整えた。
「愛するがゆえに、壊れていく相手を見ながらも、
胸の痛みを抱えて、それでも愛を貫こうとする。
そんなの……羨ましいくらい、でも少し怖いくらいに強い心ですね」
両手を胸の上に重ね、そう言い切った。
すずきさんの瞳が、一瞬だけ大きく見開かれ、すぐに元に戻る。
「……ああ。大切な人を守るために、自分が傷つく覚悟を持つ――
危うくも、崇高な愛と言えるでしょう。」
彼は少しうつむいたまま、低く、それでもはっきりと答えた。
その声が届いた瞬間、屋上を渡る風の音がもっと鮮明に聞こえた。
鉄製のフェンスが風を受けてかすかに震え、
その音はまるで――誰かの心が静かに揺れる音のようだった。
私は小さくうなずき、胸の前で重ねた手をゆっくりと下ろして組んだ。
理解は出来た。
それがどれほど痛くて、危うい愛なのか。
でも……そんな愛を持てる人が、いったいどれだけいるんだろう。
少なくとも、私は違う。
誰かを傷つけることを怖がる私には、
そんな愛はきっとできない。
そっと目を閉じて、また開く。
暖かい風が頬をかすめ、心の奥の何かを少しだけ軽くしてくれた気がした。
「私は……そんな愛はできません。
大切な人を傷つけてまで愛を貫くほど、私は強くないから」
小さくうつむきながら、そう言った。
言葉を交わすうちに、彼の書いている物語について話してみたくなっていた。
「それにはあまりにも多くの感情が込められている」――そんな気がしたから。
彼は静かにうなずいた。
「そうですね……」
再び、静寂が訪れた。
けれど、それは気まずいものではなかった。
まるで、お互いの心の奥を静かに覗き合っているような沈黙だった。
すずきさんの表情には、不安も迷いも見えなかった。
まっすぐな真剣さだけが、静かに滲んでいた。
「同感です。
人を傷つけるなんて、私にも出来ないことです。」
――どれくらいの沈黙があっただろう。
彼はそうやって、思いがけない答えを静かに口にした。
「やっぱり……あの日の“タメ口”は、私を傷つけるためじゃなかったんですね」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「お前は、十分に明るい。だから、いくらでも変われるはずだ。」
あの日、心に残った彼の言葉。
自分さえ信じられなかった私を、信じてくれた言葉。
それは彼にとっても――同じ想いだったのだろうか。
彼のその言葉には、私が知らない彼自身の気持ちも、重なっていたのかもしれない。
確かめてみたくなった。
「……それを、覚えていたんですか」
彼は顔を上げ、まっすぐに私を見つめた。
その真剣な瞳に、思わず視線を逸らしたくなったけれど――
それ以上に、真実を知りたい気持ちの方が強かった。
「はい。私にとって、あれは忘れられない瞬間でした」
ためらわずに、そう答えた。
――どうか、今度こそ届きますように。
「あなたのあの言葉があったから、今の私がいるんです。」
そう心の中でつぶやき、彼の言葉を待った。
「あなたは、変わりたいと言っていましたね」
それは、私が彼と出会うきっかけになった、あの日の独り言。
中学の頃、誰かの影の中で埋もれていた私が、
“変わりたい”と心の底から願った、あの瞬間。
「私はあの日あなたから、私にない生きのある姿と率直さを見ました。
だから、きっと変われると思ったんです。
ただ、あなたの“本気”に応えるには、敬語よりもタメ口の方が
伝わるんだと思ったんです。
もしそれで不快な思いをさせていたのなら……ごめんなさい。」
彼はそう言って、そっと頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。
「い、いえ!全然!大丈夫です!
むしろあの言葉のおかげで、自分を信じてみようって思えたんだし……」
両手を左右に振りながら、慌てて答える。
「むしろ、タメ口で言ってくれたからこそ、
あなたの気持ちがまっすぐ伝わってきました。
やっぱり、あの時の言葉は本心を込めたものだったんですね。
ありがとうございます」
両手を胸の前で重ね、そっと頭を下げた。
「いえ、そんなたいそうなもんじゃないです。
ただ、自分が思ったことを言っただけですから。
でも……伝わったのなら、私も少しは嬉しいんですね」
そう言って、彼はわずかに口元を緩めた。
その小さな変化だけで、胸が高鳴った。
やっぱり、私の感じた通りだった。
彼は優しい人。
ただ、それをうまく出せないだけ。
きっと彼は――
誰かを傷つけないために、そして自分も傷つかないために、
感情を閉ざす方を選んだんだと思う。
それが正しいかどうかは分からない。
でも、少なくとも私には、
彼の中には“優しさ”が確かにあると
そう感じられた。
「……あの」
考えがまとまったわけじゃない。
でも、気づいたら口が動いていた。
あんなに優しいのに、それを表に出せないなんて――
そんなの、あまりにも悲しい。
彼が、もっと自分の優しさを受け入れられるように。
自然に、もっと笑えるように。
何もできない私でも、
そっとそばにいるくらいなら、きっとできる。
彼が私を信じてくれたように、
今度は私が、彼を信じてあげられるなら……
彼も、少しずつ、
ありのままの自分を受け入れられるようになるかもしれない。
だから――
彼を助けたいって思った。
次から次へと浮かんでくる想いが、
一瞬のうちに頭の中を駆け抜けていった。
「もしよければ……あなたの物語の絵を、私が描かせてもらえませんか?
こう見えて、絵にはちょっとだけ自信があります」
今の私にできる、“私なりの想い”をそのまま伝えた。
彼は、驚いたように目を大きく見開き、私を見つめた。
「何で、そこまで……」
少し顔をそらして言いかけたけど、
すぐにまた視線を戻し、柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、思わず心が揺れた。
――この人、笑う時こんな表情するんだ。
「いえ、すみません。今のは言い間違いでした。」
彼はそう言って、軽くうつむいた。
「じゃあ……お願いしてもいいでしょうか?
私は絵がまったく下手で。
一度見てみたいんです。自分の物語が“絵”になったら、どんなふうに見えるのか」
彼はそう言って、右手を軽く差し出した。
――その手。
廊下でも、同じように差し出してくれたっけ。
もしかして、それは彼なりの“受け入れる”仕草なのかな。
「え……?本当に…許してくれるんですか……?」
信じられなくて、思わず問い返してしまった。
私、本当に――彼を手伝えるの?
頭が混乱しているその時
「はい。あなたも気になってるんでしょう?
この物語がどうなるのか」
彼の言葉が聞こえてきて、我に返った。
これは夢じゃなくて、現実
「はい!
兄が弟を愛した挙句、弟を試してしまう悲しくても切ない物語……
最後まで見守りたいんです!」
そう言って、胸の前で指を組んだ。
彼の口元が、さらにやわらかく笑みに変わる。
「なんて言うか……あなたって、本当不思議な人ですね」
「えっ……やっぱり、変ですよね……?」
慌ててうつむく。
“変”じゃなくて“不思議”って言ったけど、
きっと気を使ってくれたんだと思った。
でも――
「いえ、変じゃないです。
むしろ、ここまで物語に対する理解度が高いあなたがすごいと思いましたし」
顔を上げると、彼はまだその笑みを浮かべていた。
思わず顔が熱くなり、緊張がゆるんで変な表情になってしまった気がする。
「す、すごいだなんて、そんな!
ただ昔から本を読むのが好きで……なんとなく感情が分かるようになっただけです!」
両手で慌てて顔を隠す。
「なるほど。つまり直感じゃなくて、経験の積み重ねだったんですね。
ようやく納得しました」
彼は静かにうなずいた。
その落ち着いた反応に、私も手を下ろした。
え……これも、褒められたの?
二回も?
すずきさんって……本当、なんなんだろう。
お姉ちゃんの他に、こんなふうにまっすぐ私のことをありのまま語ってくれる人…いなかったのに
じっと見つめると、彼も私を見返してきた。
反射的に目をそらす。
「……?」
小さな声で首を傾げる音。
「す、すみません……そういう言葉、言われ慣れてなくて……」
俯いたまま、ちらりと彼を見上げた。
「別に褒めた訳じゃないです。
ただ感じたことを言っただけです。
それに、その言葉はあなたに十分ふさわしいと思います。
人の感情をそこまで捉えられるなんて、誰にでもできることじゃないから。
自分を誇っていいと思います」
彼は先ほどの微笑みを消して、真剣な表情でそう言った。
私は顔を上げ、ただぼうっと彼を見つめていた。
彼の言葉一つ一つが頭では理解できても、胸が追いつかなかった。
“自分を誇っていい”――
姉にも時々言われた言葉。
でも、素直に受け止められたことはなかった。
「そ、そんなことよりすずきさん!
明日の放課後まで絵描いてきたらいいでしょうか?」
わざと話題を変えた。
「明日の放課後?できますか?」
「はい!一日あれば十分です!」
勢いよく答える。
さっきの言葉を聞いたままでは、心がもたなかった。
「……? はい、それならありがたいですが」
彼は首をかしげながら、そう言った。
どうか――これ以上は、聞かないで。
体の緊張は解けず、呼吸も浅くなる。
「そ、それじゃあ、明日また!
あと、愛ちゃんへの相談の結果もお伝えしますね!」
テンションを上げて言うと、彼は少し微笑んだ。
「……はい。よろしくお願いします」
そう言って、彼は再び出入口の方へ向かった。
ほっと息をつく。
その背中が見えなくなるのを待っていると――
「みなもとさん」
彼が私の方に振り返りながら、名前を呼んできた。
「は、はい?」
思わず体が震える。
「今、呼吸が少し乱れています。
何があったかは知らないんですが、
まず深呼吸。
その後転ばないよう気を付けて階段降りなさい。」
そう言い残し、ドアを開けて姿を消した。
感情がないような口調だった。
けど、暖かさを感じた。
それは、多分私を気遣ってくれたから言えたこと。
「やっぱり……優しい」
小さく笑ってつぶやく。
――あ、でも私、変じゃなかったかな?
変にテンション上がって、絶対おかしく見えたのに違いない……!
顔が一気に熱くなる。
胸がいっぱいで、息が詰まりそうだった。
この気持ちが何なのかは分からない。
でも今はただ――
「……深呼吸、しないと」
さっきとは違う理由で、落ち着く必要があった。
「すー……はー……」
深呼吸を三度繰り返す。
少しだけ、心が整った。
頬に手を当ててみる。熱はない。
「ふぅ……」
安堵の息をつき、ゆっくり歩き出す。
――そういえば、どんな絵を描くか言ってないね?
うーん……屋敷にしようかな。
兄が出られない屋敷。
登場人物を描くには、まだ内容読めてないし……。
もし絵が気に入らなくても、風景なら失望されにくいだろうし。
もちろん、張り切って描くつもりだけど。
うん、頑張ろう。
「♩ ♪ ♫ ♬~」
小さく鼻歌を口ずさみながら、
屋上のドアを開け、階段を下りていった。
初めて感じたあの気持ちを、
確かめられた日。
初めて見た、彼の笑顔。
不思議と心地よかった時間。
階段の窓から差し込む夕焼けの光が、
私の心まで、やさしく染めてくれるような気がした。
第十二話までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、源春香の視点から、
ほんの小さなきっかけが、人と人との距離を変えていく瞬間を描きました。
最初はただ話してみたかっただけ。
でも、彼の言葉に少しずつ心を動かされて、
気づけば、「そばにいたい」という願いに変わっていました。
誰かを助けたいと思う気持ちと、
その人に近づきたいと思う気持ちは、
きっとどこかで重なっていて——
春香にとって、彼との出会いはまさにその“重なり”だったのかもしれません。
そして今回、初めて彼の笑顔を見ることができたこと。
その一瞬は、春香にまた深く、でも整理出来ない感情になったのかもしれません。
彼が語った“兄と弟”の物語、
その奥にあった彼自身の想い。
それを受け止めようとした春香の言葉。
そして、交わされた“絵”の約束。
次回以降、春香と彼の関係がどう変わっていくのか。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
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