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第十話:隠れた心と触れた真心

廊下を歩く足音さえ低く響く時間。


今日は、何だかそんな静けさが嫌ではなかった。


はるちゃんは疲れたと言って先に帰ってしまい、


私はそのまま、もう少しだけ残りたくなった。


ただ歩いていた。


校庭へと続く廊下の端を抜け、


グラウンド脇の道をゆっくりと進んでいく。


そのときだった。


建物の影が長く伸びる角で、


誰かの背中が目に入った。


見覚えのあるシルエットだった。


いつもと変わらない制服姿、きちんと落ち着いた黒髪。


周りには誰もいなかった。


私は無意識に歩みを遅らせた。


その背中はグラウンド脇を抜けて、建物の裏手へと消えていく。


あんなところに何の用があるんだろう。


興味が湧いて、こっそり後を追うことにした。


周囲に誰もいないのを確かめて、つま先をそっと上げる。


まるで、


…音もなく動く猫にでもなったみたいに。


そのまま、彼が消えた建物の横道を抜け、裏の角を曲がった。


すると、そこには——


錆びた鉄柵と、薄く剥げた灰色の屋根の下に並ぶ小さな小屋があった。


飼育小屋。


中学のとき、グラウンドの隅にあった飼育小屋を思い出した。


似た造り。似た匂い。


けれど、あの頃とは違って——


その中で誰かが静かにしゃがみ込んでいる姿は、


初めて見る光景のように感じられた。


小さな小屋の前で、


膝をつき、背を丸め、


彼は片手をそっと柵の中に差し入れていた。


短い髪が少し乱れ、


指先はゆっくりと動いていた。


何かを撫でるような、繊細な仕草。


けれど——


彼がとても慎重に息を潜めているのは分かった。


毎日、こうしてここで動物を世話しているのかな。


気づけば不意に立ち止まっていた。


声をかけることもできたけれど、もう少しだけその姿を見ていたかった。


彼の唇がわずかに動いていた。


小さな動物に話しかけているのか、


それとも独り言なのか。


…今は、静かだった。


風が軽く吹き抜けた。


錆びた鉄柵の隙間から土の匂いがすり抜けていく。


そのとき——


彼が小さく笑った。


はっきりとは言えないけど、口元がわずかに上がったように見えた。

あるいは…眼差しが柔らかくなっただけかもしれない。


けれど——


その表情は…


私が知っている彼とは、


どこか少し違って見えた。


私はそのまま視線を固定したまま、


動けなくなっていた。


どんな感情なのかは分からなかった。


ただ、


その瞬間が目の前から


静かに過ぎ去ってしまうのが


少し惜しいと。そう、感じた。


その刹那——


彼がゆっくりと顔を上げた。


そして、ふいに——


視線が交わった。


何秒だったのかは分からない。


ほんの一瞬、


でも、確かに目が会った。


彼の瞳が、


確かに私を捉えていた。


「…どうして、宮本さんがここにいるんだよ?!」


聞き慣れた声だった。


けれどその言葉は、


予想とは少し違っていた。


私は無意識に視線を逸らした。


声よりも驚いたのは、


自分が逸らしてしまったということ自体だった。


言葉もなく顔を背ける。


そして、


何かに追われるように


角の壁に背をつけ、息を殺した。


陽の当たらない裏手はひんやりしていた。


背中に触れる壁の感触は冷たくて硬いのに、


むしろ、それが落ち着かせてくれる気がした。


そっと息を吸い込む。


角の向こうからは


一瞬の静寂が流れた。


彼が動く気配は感じられなかった。


だがその静寂の向こうから


低く抑えられた声が聞こえてくるだけだった。


「…隠れるのは、何故」


独り言のようでもあり、


私に語りかけているようでもあった。


その言葉に何か答えるべきだと思ったが、


何も言葉が浮かばなかった。


口を開くことさえ、


どうも


妙に恥ずかしく感じられた。



少しためらった末に、


壁に背中を預けたまま


そっと顔だけを覗かせた。


指先はまだ壁をしっかりと握りしめており、


片方の肩は少し固まったように緊張していた。


その姿勢のまま—


私は舌を少し出し、


おどけたように笑ってみせた。


「見つかっちゃった?☆」


口角はじゃんと上げた。


けど、指先から伝わる冷気が


私の動揺っぷりを語っていた。


何でもないふりをして、


依然と角に身を寄せたまま。


その瞬間、


彼が少し身じろぎするのが見えた。


でも、それ以上の動きはなかった。


そして—


彼の視線が私を向いた。


逃げない瞳だった。


揺らぎも、疑いもない


彼特有の揺るぎない眼差し。


その視線を真正面から受け止めると、


息が、一瞬止まった。


心臓までどきりと落ちるような感覚がした。


「その表情、普段はしないだろう。」


静かだったけど、不思議なほど深く心に響いた。


その言葉に、


口角に浮かべていた笑みが


一瞬揺らいだ。


私はそっと視線を落とした。


表情を隠せようとして隠せられる訳ないって、


分かっていた。


でも、彼に見破られてしまったということで、


そうするしかなかった。


しばらく無言だった宮田君が、静かに口を開いた。


目を避けた私にそのまま言葉を投げかけた。


「何で隠れたんだよ。…俺が怖い?」


落ち着いた口調だった。


けど、その中には軽い冗談も、皮肉もなかった。


ただ、真っ直ぐ私に聞いていた。


瞬間、胸がどきりと鳴った。


見つかったのが恥ずかしかっただけだったのに—


不思議と、その言葉に心から答えたいと思った。


「ううん…怖くない。そういうのとは…ちょっと違うっていうか。」


壁に身を預けたまま、ゆっくりと言葉を選んだ。


宮田君が少しでも誤解しないように、


私の中でもまだ整理されていない気持ちを


慎重に、一つずつ取り出すように。


「ただ…そういうことってあるでしょう。


声をかけようか迷ってるうちに、


タイミングを逃してしまって、もっと気まずくなるようなこと」


口角を無理にでも上げて付け加えた。


「だから、つい—隠れたの。それだけ。」


宮田君は、ずっと黙ったままだった。


返事の代わりに、視線だけが静かに私を向いていた。


私は少し不安になった。


あまりに変に聞こえたのかな?


逆に誤解させてしまった?


そう混乱した私は少しごまかしたくなった。


でも—


彼の眼差しは、


そんな隙さえ与えなかった。


「嘘だと、思わない。」


その一言に、思わず息が漏れた。


「だけど—」


そう言って少し息を吞んだ宮田君は


私の方へ二歩ほど近づいてきた。


「何でそのタイミングをそこまで迷っちゃったのさ。」


初めて見る眼差し。


初めて聞く口調。


宮田君は、こんな人だったんだ。


私を見るその真剣で飾り気のない視線に、思わず笑みがこぼれた。


私、この子と仲良くなれてよかった。


「何だよ、その笑いは。さっきとはまた違うし。それに、答え。まだ聞いてないんだけど。」


宮田君は、少し照れくさそうに顔をそらした。


「あ、ごめんなさい。」


私は壁から手を離し、慎重に歩み出た。


少し無理な姿勢をしていたせいか腰と肩が凝っていた。


けど、今は宮田君と話すのが大事だから。


「だって、宮田君が動物の世話をしている姿初めて見て…ぼっとしていたもの。」


私も照れくさそうに笑いながら答えた。


「もしかして…ついてきたの?」


彼は低い声で言った。


「あ、うん。校庭から校門に向かう途中で偶然宮田君を見かけて、気になってついてきてみたの。」


何か悪いことをしたわけでもないのに、胸がやけにドキドキしていた。


宮田君は何も言わなかった。


「迷惑…だったかな?もしそうだったら、ごめんね。」


その言葉に、宮田君は一瞬目を瞬かせると、


「迷惑なんかじゃ…ない。」


少し視線を横に逸らした。


「そっか。だから、宮本さんがここにいてたのか。」


そしてそんな言葉を呟いた。


私がどんな反応をすべきか考えていると、


宮田君は何か言おうとして言葉を飲み込んだように、


唇だけを静かに閉じた。


「その動物、名前何ていうの?」


私は話題を変えて雰囲気を和らげようとした。


言いながらも、少し馬鹿げていると思ったけれど。


「…オレオ。」


しばらく間を置いた後、静かな返事が返ってきた。


「オレオ?」


私は首を少し傾げた。


「お菓子の名前なんじゃない?」


「うん。黒くて白いから。」


宮田君は静かに答えた後、再び檻の中へと視線を戻した。


それと同時に—


ゆっくりと体を動かし、さっき自分がいた場所へと戻っていった。


私は無意識のうちに後を追った。


宮田君が膝を曲げてしゃがみ込むと、


檻の奥で小さな体が少し動いた。


「オレオ—」


宮田君が小さくオレオの名を呼び、指先を差し出した。


その呼びかけに誘われるように、


檻の中のウサギが慎重に鼻を突き出した。


黒い瞳、柔らかな毛、


そして—本当に黒くて白い、名前通りの色。


オレオは宮田君の指先に鼻を近づけた後、


そっと—


舌を伸ばして彼の指を舐めた。


私は無意識に息を呑んだ。


宮田君の指先がごく静かに、


ウサギの額を撫でていた。


ゆっくりと、慎重に—


その手つきからは、


どこまでも静かで優しさしか感じられなかった。


ただ静かに触れ、留まり、


そっと引いていく指先。


私はふと、


その指先を羨んでいる自分に気づいた。


(いいなぁ……)


その一言が、心のどこかで静かに浮かび上がった。


理由はよく分からない。


撫でられてるオレオがうらやましかったのか、


それとも、あんなふうに撫でてあげられる宮田君がうらやましかったのか。


ただ——


静かに伝わってくるあたたかさが、


Changsup Park, [2025-10-03 오후 9:11]

なんだか胸をくすぐった。


「……ほんとに好きなんだね」


つい、ぽろっと言葉がこぼれて、


言ったあとちょっと気恥ずかしくなった。


でも、宮田君は顔をそらさなかった。


「うん、好きだよ」


短くてあっさりした返事だったけど、


その中には、たくさんの想いが込められてる気がした。


私は小さくうなずいて、


それから少しだけ近づいて、


彼の隣にしゃがみこんだ。


オレオは、私を見ても驚かなかった。


いや、もしかしたら——


あまりにも静かに動いたからかも。


「オレオ……かわいい」


そっと手を伸ばすと、


オレオが宮田君の手から、私の手にちょこんと鼻を寄せてきた。


「くすぐったい……うふふ」


私は小さく笑って、オレオを見つめた。



そうして、しばらくふたりでオレオを見つめ、そっと撫で、笑い合いながら時間を過ごした。


とても楽しかった。


この時間がずっと続けばいいのにって思うくらいに。


でも、今思えば、きっとこのときから——



予想外の“反撃”を受けたあの日。


だけど、その反撃が、ふたりの距離を縮めてくれた。


それに気づいたのは、もう少しあとのこと。


でも、私にとっては、かけがえのない思い出の一日だった。

第十話までお読みいただき、ありがとうございました。




今回は、宮本愛の視点から、


思わず隠れてしまう心の揺れや、


動物を通して触れた温もりを描いてみました。




「見つかってしまった」瞬間の恥ずかしさ、


それをどう言葉にすればいいか分からない戸惑い。


けれども、素直な気持ちを少しずつ言葉にしていく中で、


彼女は自分でも気づいていなかった想いと向き合い始めます。




ほんの小さな仕草や一言が、


人と人との距離を変えてしまうことがある。


それは時に予想外の“反撃”のように感じられても、


確かに彼女の中に残り、


かけがえのない思い出へと変わっていくのだと思います。




この小さな揺らぎが、今後どのように重なり、


彼女たちの関係を紡いでいくのか。


引き続き見守っていただければ幸いです。




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