水面に広がる波紋のように
チャイムの音が鳴り響く。
うっすらと目を開けた千尋は机に突っ伏していた顔を上げ、朝礼前の予鈴に浮足立つ面々をぐるりと見渡すといつも喋っている友達ふたりがまだ室内にいないことに気づいて瞬きをする。
千尋の友達なだけあってマイペースを貫くような性格をしているふたりは、それほど時間に余裕を見るような性格をしていない。朝礼に間に合わないのはしばしばで、今更驚くようなことでもなかった。だが、今日のように一限が移動教室の日に教室に遅れてくるのは初めてだ。
そして、たったそれだけのことに胸騒ぎを覚えるのも。
「…………調子、狂う」
どうしてこれほど不安を覚えてしまうのか、心当たりはきっちりとある。
昨日の非日常を体験してしまったからだ。些細なことすら引っ掛かるほど過敏になっているのも、友達を関係者ではないかと疑ってしまうのも。
普段であれば、あのふたりは遅刻だと誰かに言われたら、ああそうですか、と何の疑いもなく素直に信じられるというのに。
何もなければいい。朝礼が終わるころに気張っていたのががっくりとくるほど呑気に「遅刻しましたー」と笑いながら入ってきてくれたらいい。それだけで、千尋の心配は杞憂に終わり救われる。変な肩肘を張らないで済む。
そう必死で思う一方で、胸騒ぎがやまないのは、友達ですら関係者から逃れられないと確信しているからだ。
雪は言った。
神の一族は総じて美形だと。
友達二人も顔立ちは整っている。少なくとも片方はそこらの男子よりもかっこいい外見をしているし、もうひとりは文句なしに愛らしい。
神の一族だと名乗られたら、否定できないほどに。
「(しかも、従者が学外の人ばかりではないとあいつが証明した)」
昨夜の段階でお互いの従者の特徴を教えあった時、咲希の方にはクラスメイトがいると聞いた。学内きっての美少年として噂になっていた人物だというその人物は、よくよく聞けばクラスの違う千尋とも委員会で接点がある生徒だった。そういうこともあるのかもしれないと思ってはいたが、自分側で学内の者はいなかったので意表を突かれた。
知っている人が一族の者でもおかしくはない、単なる知り合いだった人が味方かもしれないし敵かもしれない。昨日まで何も知らなかった千尋や咲希とは違い、神の一族としての自覚がある者はずっとこの日を恐れながらも待っていた。
命を奪い合う古からの聖戦。勝つか負けるかしかない理に縛られた最悪の舞台。
それが今日から千尋たちを取り巻く現実なのだと後になってから身に沁みて感じる。
もやもやとして晴れない苛立ちに舌打ちをして鞄の中から夜翅に貰った写真を取り出す。
貰った時のままビニール袋で持ち歩くのは憚られたので、シンプルなデザインのアルバムに綴じ直してある。夜翅は《天の姫》勢力だけの写真だと言っていたが、その厚さは正直言って異常だった。
何百にも及ぶ膨大な量に昨夜同様に吐き気を覚えたものの、仮にも護ってくれると誓ってくれた相手からの忠告とあれば無視をするわけにもいかない。
既にしぶしぶとながらも一通り目を通してはあるのだが、意味はなかっただろう。写真に写っていたのは揃いもそろって皆が一度見たら忘れられないほどの強烈なインパクトがある美形だった。おかげで、総じて美形だった、という我ながら情けない印象しか残っていないほどに。
「(馬鹿みたい、なんて、もう言えないか)」
御伽噺が現実になるなんて――それもその渦中で他人を巻き込む厄介者になるなんて。
現実にはとうに飽きていた。何の変哲もない日常をひっくり返すような非日常を求めていた。退屈な毎日を刺激するスパイスが、スリルが欲しかった。
毒を飲み干す覚悟はあったから。
両親の手前、言葉にしたことはなかったが、ずっと何かが起こるのを切望していた。この生ぬるい空気に犯された世界を壊してくれる何かを待ち望んでいた。それは嘘ではない。
だが、こんな展開を願っていたわけではなかった。咲希と争うのが定めだったのだとしたらそれは受け入れる。でも、誰かに迷惑をかけるのだけは嫌だった。誰もが千尋みたいに考えていると思い込んだことなど一度足りとてなかったからこそ、それだけは起こってほしくなかった事態だった。
「(理不尽な世界だ、相変わらず)」
願ったことは叶えてくれないのに、願わないことばかり叶えてくれる。無理難題な無茶苦茶な試練ばかりを提示して、何の策も思い浮かばないのに助けてなんてくれない。
鬱屈した思考が煩わしく、本鈴の音を契機に結局空いたままの席を見やりながら授業の用意を整えておく。
友人たちが来るにしろ来ないにしろ、一限の授業はあるのだ。世界は千尋が背負った使命程度では揺らがないのだから、この程度の誤差で流れが変わったりはしない。
教室へ入ってきた担任の姿を視界におさめ、もう習慣化した号令の声をかける。途端に周囲で賑やかに飛び交っていた雑談が止んで椅子を引く音が室内を埋めた。礼、と声を張れば操り人形よろしく皆がそれに従う。
何一つ昨日と変わらない毎日の繰り返しは、哀しくなるほど平和的でいつも通りでそれなのにどこか遠い世界の出来事だ。
既に隔離されてしまっている、既に隔離してしまっている。もう戻れない日常の輝きに見惚れてしまう。
失ってから初めて気づいた普遍は、もう懐かしく思うほど手が届かない位置にある。
これからどうすればいいのか、なんて当事者である千尋にわからなければ誰にもわからない。
昨日は雪を安心させるために何も知らなかった頃と同じ振る舞いを心掛けていたが、夜翅たち従者の言う猶予期間を終えた今日からは一歩でも“日常”から離れた世界に踏み出せば戦場になるのだ。
怪我を負うだけならいいが、最悪待ち受けているのは死だ。悠長に悩む暇はもうない。
ルールで行動を制限されているとはいえ、咲希の従者が校内にいるのだから。
「(従者、姫を護る騎士みたいなものなんだろうけど)」
一般人がいる時には手を出せない決まりとはいえ、相手側の従者がいるというのに自らの従者がゼロというのは心もとないものだ。頼るつもりがないとは言っても始終警戒しないで済む場所があるというのはそれだけで心強い。
千尋の従者が存外薄情なのか、それともたまたまだったのかは本人たちに訊かなければわからない。
鬨の声が上がったからには皆それなりに動き出している可能性もある。夜翅も玲も透も優しいとか気配りが上手とかこまやかだとかそういう印象が根強いが、使命を果たすための準備を怠るような馬鹿ではない。昨日の短くも濃い時間で把握しているのでそこは疑っていない。
夜翅は疑うべもなく放っておけば自己犠牲すら厭わないお人よし。
玲は一線を引きながらも女の子には親切にするだろうフェミニスト。
透は喰えない性格だが親切心を見せてくれてはいる一番の食わせ者。
常識人がいないのが傷なのだが、いたらいたで混乱の種にしかならない。千尋が必要としている気配りや温和な性質も、これからの血なまぐさくなるだろう非日常を思えばいらないものだ。遠からず、捨てなければならなくなる。
あくまでこれから起こるのは殺し合いなのだ。そこに仁義はない、正当性もない。勝者に残るのは人殺しの汚名と、命を消したという罪悪感。
だから夜翅に問うたのだ。一番心優しそうで、誰よりも人の死に心痛めそうな彼に。
なぜ、逃げないと。
「――――」
担任の話が右から左にすり抜けていく。雑音のように、ノイズのように、終には効果音になって。
前から真面目に耳を傾けていた、ということではないのでそのまま聞き流すつもりだった。
黒板に白いチョークが走るまでは。
「……は?」
頭が真っ白になった。思考が停止した。呆然とした声がどよめきに消えた。
信じられなくて目を疑う千尋を嘲笑うように、大きく黒板に書かれた見覚えのある名前がやけに白々しく映る。
担任の「入れ」の声に扉が開いた。今見たものを冗談だと言える材料が欲しくてそちらを見るが、入ってすぐに視線があったそれは、並外れた容姿に頬を染めた女子ややっかむのも忘れて大口を開けている男子など歯牙にもかけずに艶やかな笑みを返してくる。
そのまますまし顔で教卓の横に立った少年――玲に驚きが消えうせ腹の底から笑いが込み上げた。
確かに転校生だろうとは思った。でも、流石に季節外れすぎるから、新学期からの転校生だろうと思っていた。
行動に移すのが早い、とかのレベルではない。最初からそのつもりで先手を打っていたのだ、彼らは。
「初めまして、それからよろしく。これが定番の挨拶かい?」
季節外れの転校生、神谷玲がセオリーに従う気はないと主張するように肩を竦めて見せる。ぶしつけに向けられる好奇の眼差しや見惚れる瞳に怯えもしなければ照れもしないその態度はふてぶてしく、退廃的な雰囲気の彼をよりいっそう周りから浮かせている。
協調性を見せない皮肉げな物言いに担任が渋い顔で玲に名前を促す光景は無駄な努力だと見えているのでなかなかに滑稽だ。
喉の奥で殺した笑みを目ににじませた千尋は、怒れる担任そっちのけで茶目っ気たっぷりにウインクをよこした玲に口ぱくで「ご苦労様」とねぎらう。
空席の椅子は埋まらない。クラスで一番仲のよかった友達ふたりが敵なのかもしれない。笑顔の下にずっと殺意を忍ばせていたのかもしれない。
そんな懸念は相変わらず否定できなかったが、何があっても味方がいる限り孤軍奮闘にはならないとそう思えるだけで負担は軽くなる。
いてもいいのだと、従者がいる限り心の天秤は保たれる。それはイコール、精神的に追い詰められるのはありえないという事実証明。戦いが始まる前に精神的に参るという可能性が減るということだ。
護り手を受け入れた時に最大限その忠誠を利用するのを決めたのだ、護られるのが嫌でも力をつけるその時まで傍にいることを許す。
――――それが、見返りなく護ってくれる彼らへの裏切りでも、いい。
負けないと、強くなると、改めて自分自身に誓いを立てる。
そうすることでしか、前に進めないと本能的に悟っていた。
*******
千尋のクラスに転校生が来た、という情報が咲希のクラスに入ってきたのは、朝礼もといホームルーム直後のことだった。遅刻してきた生徒が物凄い勢いで扉を開けるなりそう叫んだのだから堪らない。相当な美形が来たという噂にミーハーな女子はもちろんのこと、殆どの女子生徒が食いつき、ものの見事に躍らされて担任の話が終わり次第見に行く始末だ。
廊下を通して聞こえた黄色い声が噂の信憑性を高めてしまったこともあるが、それにしたって思春期真っ盛り、色恋に興味のある年代の女子高生らしい行動力は物凄い。女子で興味がないのはほんの一握りだけで、それでも周囲の空気に呑まれて観に行っているあたり、騒がない方がおかしい流れになっている。
今頃千尋の教室はごった返していることだろう。そして咲希ひとりが室内に残ったように、どこのクラスも似たような状態なのは推して然るべきだろう。
広げていた文庫本を閉じて徐々に姦しくなる廊下を見やり、男子グループの中心で話している稀紗羅にそれとなく視線を向ける。
何の話で盛り上がっているのかこの距離では聞き取れないが、楽しげな様子を装う彼の目は遠目にも笑っていない。寧ろ険しい。普通に怖い。
味方ではないのだと、訊かないでも教えてくれる。
噂になるほどの美形の転校生が神の一族であるのは昨日の今日なので予想できていたが、敵対勢力であるというのは芳しくない事態だ。
彼ら――従者たちにとっては、だが。
「これでやっと、フェアなのに」
ぼそりと悪態を吐き、嫌味にも似た言葉を吐いてしまったことに嫌悪感を覚える。
わかっている。どれだけ拒んでも彼らの使命は咲希を護ることだ。その目的を阻んだり害を成したりする存在を、諸手を挙げて歓迎するはずがない。
でも、と。思うのだ。
咲希の味方が学生として学校にいるのだ。四面楚歌の状況下に千尋の従者が乗り込んで居座るのは従者の役目を考えたら起こって当然の事態だ。騒ぎを起こして乗り込んできたなら非難の向けようもあるが、転校生としての登場なら正式な手続きを踏んでいるので文句を言ってはいけない。第一、牽制するように現れたのはひとりだけであって、稀紗羅以外に桜祈も傍にいる咲希の方が安全で有利なのは揺るがない事実だ。
彼は自らの役目を遂行するため、千尋のそばに馳せ参じた。非難される謂れはなく、同じ立場ならそうしただろうと至極尤もなことを言うだろう。
だから、これでいい。多勢に無勢でなくなっただけではないか、とそう思う。
そしてそれは正論だ。正しい考え方だ。稀紗羅の反応が間違っている。
だけど、わかっていた。
咲希が本当に安全なら、彼らは放っておいてくれた。護られたくないと言う咲希の言葉に傷つこうと、従者としての決意を蔑ろに扱われようと、咲希の意志を尊重してくれた。
姫だから、主だから、越えられない壁がそこにはあるから。
護りたくても、諦める。
それが、たったひとつ向けられた、望みだから。
だが、安全ではないから稀紗羅はぴりぴりとした雰囲気になっている。
千尋の従者は強い、そう言ったのは彼らだ。警戒をしなければいけない存在なのだと彼らが教えてくれたのだ。
それなのに、頑なに、頑固に、愚かしいほど強く。咲希が従者を拒み、護られるのを厭うているから警戒を解けない。相手がたったひとり――――されどひとりでも十分なのだと思い知っているからこそ、気を張っている。
もしも咲希が折れさえすれば、素直に護られるだけのお姫様でいれば、稀紗羅も今みたいに気を張る必要がなくなる。余計な負担を強いないで済むし、安全は今よりも確実に保障される。
それぐらい、わかっている。
邪魔をするのはプライドか、虚栄心か。それとも、なけなしの優しさか。
唇を血が出るほど強く噛み締めて、迸りそうになる感情を鎮める。それでも体の最奥で燻っている熱は治まらず、火照った頬を冷ますように咲希は机に突っ伏した。
神の一族について、なぜその渦中に咲希と千尋がいるのかは従者の説明と雪の話から大まかに理解した。それが逃れられない呪縛であり絆なのだと諦めもついた。生死をもってしか終幕を迎えられないくだらない争いなのも、もう繰り返し聞かなくてもいい程度に頭に現実として刻み込んだ。
子どものころから傍にあった御伽噺。悲しくて切なくてかわいそうな姉妹のお話。
わが身に降りかかった災厄と忌むべき因縁は夢のようで。
わが身を蝕む現実は氷の褥のように奈落へと突き落して。
だけど、それがすべてではないのだろうと察せられないほど話についていけていないわけでもない。現実から逃げてもいない。思考を停止させていない。
彼らに嘘はなくても、その覚悟が本物でも、両親が咲希を謀っていなくても。
話してくれていないことはそれこそ山のようにあるのだろう。
「(それを責めるつもりは、ないけどさ)」
桜祈以外の者は訊いたら答えてくれる。慧斗は咲希を姫として敬い、稀紗羅はクラスメイトのよしみなのか必要以上に気遣ってくれている。それは昨日の咲希に対する真摯な受け答えから推し量れる。
訊かないのは甘えたくないからだ。
護られることを頑なに拒んでおいて、都合よく情報だけ得ようとは思わない。
千尋は、融通が利かないことで、と笑うのだろうけど。
「(それに考えないといけないことは他にもあるし。例えば――どこからきて、どこへと還る?とか)」
神である証の最もたるもの。それは際立った美貌ではなく、常人が扱うのは到底不可能な異能だと咲希は考えていた。
けれどそれは、その力は、何だ。
神の血を引く証のようなものなのだとしても、具体的にそれはどのようなものなのか。
こともなげに従者は使ってみせたが、そんな人並み外れた力が宿っていたのすら気づかなかった咲希がどうやってそれを使えるようにするというのか。使い方はおろか、内に力があることすら実感できていないのに、行使しなければならないなど無茶ぶりもいいところではないか。
しかも、千尋の話からすると戦いは一般人のいないところのみ、神の一族しかいない場所でなければならないときている。昔ならばいざしらず、今時深夜ですら人が歩くこの世の中。田舎ならまだしも、どうやって人ごみあふれる土地から誰の目もない場所を探し出すというのだろう。
問題だらけの矛盾だらけ。護る護られるでもめる以前に、解決しなければならないことの方が多い気がしてならない。
机の冷たさに飽きた咲希はゆっくりと顔を上げる。そのついでに盗み見た稀紗羅は既に動揺も冷めたのか、馬鹿騒ぎをしている周りの友達との会話に集中している。
そうしていれば、稀紗羅も普通の少年だ。人より少しだけ見目のいい、未来ある少年だ。
もう咲希に構わないでほしい、そう思うほどに普通の姿をしている。
咲希にさえ関わらなければ、笑って、泣いて、思い出を重ねて、世間一般でいうところのしあわせな人生を歩んでいくことだって、できるに違いない。
その未来を奪うのは、神などではない。
従者になるという愚かな使命などではない。
「そう、奪うのは――――」
従者を受け入れて、夜翅を紹介してくれた千尋を思い浮かべる。
他者を己の定めに巻き込むことに躊躇せず、切り捨てることも厭わないだろう決意は薄氷のように脆くて鋭い。迷いを胸の奥深くに沈めて前を見据える覚悟は、逆風に歯向かう硬い意志の表れだ。
それが虚勢を張ってやっと前に向いているだけなのだと知っている。
毅然としていても、そこに恐れがないわけではないと知っている。
ずっと隣りにいた。誰よりも近い場所にいた。同じ時を同じように生きてきた。同じ物を食べて、一緒に寝て、遊んで、喧嘩して。お互いが一番の理解者だった。
だから、千尋も知っている。咲希が見抜いているように、あちらも咲希が胸の奥に沈めた想いや決意や弱さを、何もかも見通している。
だからこそ、千尋はそこを狙うだろう。従者を拒む理由を知るからこそ、想いを理解しているからこそ、正々堂々と挑んでくる。的確に急所を狙い、使えるものは何だって利用する。甘さなど見せず、情けもかけず、成すべきことを成す。
双子は対等だから、そこに姉や妹と言う概念はない。
ひっそりと呟いた言葉は最後まで音になることなく溶けていく。何もかもがやるせなくて、咲希は項垂れた。
昨夜のうちにインターネットで御伽噺について検索してみたが、結果はやはり世界に数多あふれる神話のどれにも当てはまらない物語だと裏付けただけだった。粛々と語り継がれてきた神話伝承すべてを否定して、事実として君臨する話だということだけだった。
世界全土を巻き込んで忌まれ続ける宿命の姫という肩書も、立ち位置も、夢物語では終わらない。おぼろにしかこの世に残っていなくとも、たくさんの神話に霞めされていようとも、一族にしか系譜の糸が見えなくとも、ここにある。この命が真実として繋いでいる。
「帰り、どうやってまこうかな」
視界に揺れる前髪を払い、咲希は机の中から教材を取り出すと顔色を曇らせる。
お前の意見は関係ないのだと言った桜祈。御身を護ると誓った慧斗。一途に護る意思を見せる稀紗羅。全員思うところは違うくせに、冷たくあしらう程度では到底役目を放り出してくれそうにないのだけは共通している。
誰も素直にまかれてはくれない、一筋縄ではいかない者たちだ。放課後までに何か小細工を考えておかなければ、学校にいない慧斗はともかくふたりの目を盗んで下校するのは難しい。同じクラスの稀紗羅は特に。
「こんなの、がらじゃないのにな」
考えるのは苦手だ。悩むのも嫌いだ。呑気に笑っていたいわけではないが、鬱々とするのは性に合わない。
それでも咲希が望まれなかった命である以上、逃避はできない。望まれているのは未来が閉ざされる結末だけだと知っていても、何もしないではいられない。
双子は罪だと、御伽話と信じた神話は語る。どちらかの死で生まれてきたことを一族に贖い、宿命を科した天と地の赦しを乞えと囁く。その時まで負の連鎖は決して途切れないと現実を突きつける。
望まれたのは、片方が欠ける未来。
望まれたのは、この命の終焉。
どうしたって考えなければいけなくて、いい加減何もかも放り出したい気分だった。それでも従者を受け入れないと決めたのが咲希自身である以上、時間がある時はしっかりと悩まないといけなかった。
思考を停止した先に待ち受けるのは、死だけなのだから。