月夜の思惑
陽も暮れて夜の帳を照らす街灯と月明かりだけが頼りになる帰り道。
道路に淡くふたつの影が揺れる。
「今世における戦いのルールを説明するとね、いくつかあるんだ」
千尋の鞄を手に持ちながら常に柔和な表情をしていた夜翅は不意に沈んだ声で切り出した。横からかけられた声が誰に向かって説明をしているのかは今更訊くまでもなく、のんびりと歩いていた千尋が瞳を眇めた。
この場に透と玲はいない。三人そろって家まで送ると申し出たのだが、必要がないと千尋に断られたのだ。透がやんわりと護衛は必要だと言い含めたので力の最も強い夜翅だけが帰路の共を許されたが、それも彼女の本意でないのは一目瞭然だ。
危機感がないわけではない、そうすぐに咲希が攻撃には移らないと確信しているし、家の方の問題が残っているから、使命とやらで殺し合いをするのはこの際置いておくとして、両親にその旨を伝えないのは薄情だろう、と。
落ち込む夜翅を気遣ったわけではないだろうが、知らない方がいいことなのかもしれない事情を両親に話す覚悟を定めて無理をすることもなく千尋は笑った。
恐怖も絶望も嘆きも何もない、綺麗な瞳で。
「いくつ?」
これからの戦いで必要になる情報だからか千尋が足を止めた。
みっつ、と返した夜翅は瞑目する。
ざわりと風が騒いだ。
「ひとつ、人目のつく場所での戦闘は禁止」
神々の戦いの基本は力の行使と武器の二種をうまく使い分けることだ。神代ならばそれこそ顔を見たらすぐに戦闘開始となっていたが、時が流れ銃刀法違反などさまざまな規制と秩序と常識にあふれ縛り付けられている現在の下界では、おおっぴらに戦うのは好ましくない。
最も武具の方は、神代のころに使われていたものが神の一族の住まう場所に奉納さている。それらは来る時まで厳重に管理されている。その為、正式な手続きを踏んでからでないと使えない。
問題なのは神としての力だ。行使している場面を見られれば好奇の視線に晒されるどころか最悪利用される。何より人がいる場所で使うというのは関係のない一般人を殺傷する確率が高くなるということでもある。今回千尋たちに科せられた戦いは神々の私恨と私情が生み出した負の連鎖だ。そこに力なき存在は巻き込めない。
それが弱き者へかけられる最大限の配慮であり、夫婦喧嘩の果てに見境をなくした《天帝》と《大地の女神》が最後まで忘れなかった神の矜持だ。その決まりを破るということは神への反逆に等しい。
「ふたつ、自害は禁止」
《天帝》と《大地の女神》の些細なきっかけから始まった争い。そこからの逃避はいっさい禁じられている。ましてや神という種族は神聖な存在。いくら命に限りがあるようになったとはいえ、人とは一線を画した存在だ。自らの手による命の冒涜を犯すことは最大の禁忌として神代から戒められている。
散るならば潔く戦いで。
泣き叫んでも不可抗力の事態であっても、他の死に方は選べない。
「みっつ、従者以外の神の血筋も参戦可能」
古来のルールに則るのであれば従者だけなのだが、神の血筋である者たちは自らの姫に対して程度の差はあるもののそれなりに強い敬意を払っている。一族の者は例外なく幼いころから姫に仕える為だけに力を磨き、腕を鍛えてきた一騎当千の兵ばかりだ。傍観しろという方が無理な話である。
ましてや今回の従者は年齢層が低い。従者が名誉ある役割であっても、その為だけに一族が存続してきたのだとしても、保護者がおとなしく黙っているはずがない。その為に特例として加えられたルールだ。致命的な打撃を与えないという条件を守るのであれば参加が許されるという追加項目だった。
「姫、これをあなたに」
難しい顔で思案に入った千尋へ夜翅は羽織っていた上着の内ポケットからビニール袋を取り出して差し出す。
「これは?」
「味方の写真。みんながみんな参戦するわけじゃないけど、覚えておかないと危険だから」
今日はまだいい。千尋の予想通り、というほどぴたりとあたったわけではないが、姫の決意云々に関わらず説明する猶予期間としてお互いに争わないようにしようと協定を結んでいる。仮にこのタイミングで襲撃があったとしても、ルール違反として向こう側の姫が命を差し出さねばいけなくなるだけだ。
問題なのは明日からだ。学校という共同生活の場での時間が一日の大半を占める為に戦いに発展する見込みは杞憂と思えるほどまずないが、そのぶん学外での危険は増す。日常と非日常の切り替えがワンテンポでも遅れたら命取りになりかねない。何より命を奪わない程度になら関与が許されている関係者が奇襲をかけるには都合がよすぎるのだ。
相手からの奇襲を防ぐためにも千尋には短期間で味方の顔を覚えてもらわねばならない。これはその為に玲が透の指示で用意していた写真だ。
無言でビニール袋に入った写真を眺めていた千尋が夜翅を見据える。
「夜翅、君はどうして逃げないの?」
唐突に、だが聞かれるだろうと予測はしていた質問に夜翅はそっと千尋の手にビニール袋を握らせる。
風が吹き荒れる。ともすれば人の声など吹き消してしまいそうなほど強く、激しく。
「あなたは、僕に逃げてほしいの?」
「そうかもね。君は、こんな殺伐としたのは苦手そうな感じだから」
「……うん、そうだね」
何の疑いもなく言われた断定口調の言葉。否定するだけの材料も思いつかずごまかすことも疲れた夜翅は臆病さを肯定してからっぽになったてのひらを握りしめる。
他の者がどうなのかを気にしたことはないが、夜翅個人としては生き物の命を奪うのは嫌いだ。できれば誰にも傷ついて欲しくないし誰とも争いたくない。誰の涙も見たくない。人類皆兄弟といいたいわけではないが、叶うならば敵も味方も関係なくふたりの姫とその守護者と皆で仲よく笑って過ごしたい。
その願いを嘲笑うかのような、血で血を洗う現実にこれから身を投じるのかと考えただけでも息が詰まる。吐き気が襲ってきて嫌になる。使命なんて忘れて逃げ出したくなる。奪うものの重さに押しつぶされてしまいそうになる。
きっと、夜翅は優しすぎた。殺し合いに参加するには幼すぎた。
この世界にある全てのものを、愛しすぎた。
その自覚は夜翅自身十分にある。
それでも、そうだとしても。
「僕は、逃げないよ」
夜翅に逃げる気はなかった。もしかしたら千尋は夜翅に逃げてほしかったのかもしれないが、逃げるという選択肢がなかった。
「絶対に、あなたを護るよ」
希望などないこの宿命を駆け抜ける。
その為にこの手を血の色に染めることになっても、たくさんの人を傷つけることになっても、構わない。
ただひとり、目の前で目を見開く少女を護れるなら、いくつもの罪と咎に身を落としてもいい。
――それぐらい、夜翅にとって千尋は大切な少女だった。
どうしてと、千尋は尋ねるだろう。初対面で、仲よくもなくて、寧ろぎくしゃくとした関係なのに。
どうしてと、問うだろう。姫と従者だからという言葉で済ませるには含みを帯びた宣言だから。
「言っとくけど、優しさを殺してまで、傍にいる価値はないよ」
虚を突かれた顔で夜翅を見返していた千尋が痛みを堪えるような顔をして目を逸らす。
逃げてほしかったと如実に語る反応に夜翅は気づかないふりをして千尋の前に出ると空いている方の手で千尋の手を取り歩き始める。
優しさを殺してまで、と言った千尋は気づいていない。
「(あなたもね、優しいよ)」
いきなり過酷な運命を突き付けられたにも関わらず、責めるどころか人の心を思いやれる二代目《天の姫》。
護るよと繰り返した誓約は、微風に乗って消えていった。
******
当代《地の姫》の神凪咲希が守護されることをにべもなく拒否したのも、話をまともに聞かずに逃げたのも、驚くまでもなく予想できていたことだと桜祈はひとり学校の屋上で眼下の景色を眺めていた。
街灯と家の灯が暗がりの中に点々と灯り、車のライトが行き交う度にチロチロと光が揺れている。鬼火のような幻想的な光景はこれから起こる惨劇も何も知らぬが故の純粋な色彩に見えた。
あの道のどこかを今、咲希はひとりで帰っているのだろう。お互いに干渉を戒めている初日とは言え追いかけるべきだと稀紗羅は焦っていたが、あの手の少女には逆効果だと諌めたのが数分前。冬だからか陽が落ちるのが早く女ひとりを歩かせるのは別の意味で不安な時間帯だが、咲希ならば大丈夫だろうという根拠のない確信がある。
ましてや今日は‘あれ’が神託を下した日だ。一般人など最早敵ではない。それだけの力を《地の姫》は揮える。
「問題は明日からだ」
それなりの正義感と口の悪さを持つ二代目《地の姫》。女子にはそこそこ甘く男子には手厳しく接するが、その根底にあるのは「泣かれたら面倒臭い」という打算。一度言い出したら引かないと言う頑固で強情な一面があり、意見が対立した際は説得するには骨が折れる相手だ。一言では言い表せられない性格をしているのは事前に調査をしていたので知っていたが、情報通り一筋縄ではいかないのが今日のやり取りで思い知らされた。
ひねくれているわりに護ることに対して異論のない稀紗羅は物事を直視しすぎて気にも留めていないみたいだったが、慧斗は桜祈と同じ観点から気づいている。
咲希が己のてのひらの限界を知りながら、無力感を知りながら、従者を拒む理由がそこにあることを。その懸念を解消できるだけの信頼関係を築くのがいかに難しいかを。
「……気づいたのも、あるか」
慧斗が明日になるまで手出しはできないと断言したあの時に、勘の聡い彼女は気づいていたのだろう。殺し合いという定めを突き付けておきながら何故それが今日からではないのかというその矛盾に対する答えに。
敵対する《天の姫》の従者と桜祈たちが顔なじみであることも、親しく付き合っていたことも、その上で姫の為にならば殺せてしまうことも、あの時の一言で悟ったのだ。一度は警戒を解き、不思議そうに染まっていた瞳が硬質さを取り戻すほど、会話の流れから告げる気のなかった事実に辿り着いた。
口に出して確認してこなかったのは、せめてもの優しさだったのか。
元から彼女がおとなしく護られてくれるような性格でないことは承知していたので拒絶されたことにはダメージを受けなかったが、護るべき対象に気遣われたのは気に食わない。
桜祈の力が従者としては異端扱いされるほど弱いと知れた時に見せたあの動揺も。
「――出てこい」
眼下の光景は変わらない。時の流れが刻々と深まる闇でしか見分けられない。
灯る明かりも減らずに増えてさえいるようで、桜祈は感情を映していなかった双眸に傲慢とさえ言える冷ややかな輝きを宿す。
うろたえたようにひとつの影が屋上に滑り出てきた。
「お疲れ様です。桜祈さん」
焦った所作とは違いのんびりとした鈴を転がしたような声で桜祈をねぎらった清楚な印象の強い美少女が一礼をする。その横に遅れて上がってきたらしい秀麗な顔立ちの少年が並んだ。丁寧にあいさつをした少女とは異なり、少年は人形めいた顔の造形には不釣り合いな不遜な態度で桜祈を睨み据えた。
「……説得に失敗したのかよ」
「成功する確率など初めから万にひとつもない。それは最初に言ったはずだ」
神託が下り、日常が崩壊したのを報告されたその場で《地の姫》に味方する者すべてに桜祈は告げた。
我等が姫は従者を受け入れない、と。
誰も真面目に取り合わなかったけれど、桜祈は言った。
姫は味方を拒む、と。
「貴様といい一族連中といい、救いようのない愚か者だな」
護られるのを厭う姫、その存在を否定した者たち。
どうして厭うのかを考えもせずに、ただ否定だけを繰り返して何が見えるのか。
《天の姫》と《地の姫》を護られるだけの存在と決めつけるのは人形になれと命じるのと変わらない。神の血筋で最強の力を誇る夜翅はそれを嫌ってずっと悲しげな顔をしていたというのに。
「だから指を銜えて見てるだけか!」
「時雨!そんな言い方はだめ!」
「あのな、お前は甘すぎるんだよ!」
激しい怒声に怯むことなく強い口調で嗜めた少女を怒鳴った少年――時雨がだるそうに一蹴してあざけりすら見せずに愚弄した桜祈の真正面に立つと胸倉をつかんだ。
「桜祈。俺はあの時言ったな?俺はこいつを――天海を護るだけで手一杯だから、お前に使命を譲ってやるって」
「――ああ」
「それはお前がらしくなく必死だったからだ。当代《地の姫》を護る使命を俺よりも重んじていたからだ」
従者は軽い気持ちでなれるものではない。生半可な覚悟でなろうと思えるものではない。生死がかかっている。姫の未来が委ねられている。
護り通せたその暁に何か報酬が出るわけでもない。
与えられるのは、姫を護る者であるという名誉だけ。
その他には何もない。失うばかりで、得なんてない。
そんな死が渦巻く抗えない宿命に中程度の力しか持たない桜祈が志願した時、時雨は戸惑った。
誰に対しても冷酷で無関心を貫き、常に世界を見下して生きているような印象しか人に与えない桜祈。その彼が従者になりたいと志願したという驚きと、志願してなれるものではないのになぜ名乗りをあげたのかという疑問が時雨を混乱させた。
稀紗羅のように姫と何らかの接点があったわけでもないのに、目の色を変えてまで食い下がった理由への興味。
神託が下った場での発言に、ああそういうことだったのかと納得した――それさえも時雨の見当違いだったみたいだが。
「お前は言ったな、姫は俺たちを拒むと。わかっていたなら何とかできたんじゃねぇのかよ。従者になったのはそれが理由じゃなかったのかよ!」
やりきれなさに感情のまま怒鳴った時雨の腕を桜祈は見下ろし無言で掴み返す。
時雨の視界が反転した。全身に響く痛みに意識が遠くなる。
天海が悲鳴を上げて地に伏した時雨に手を伸ばすのを見るともなしに見ていた桜祈はてのひらに闇の力を発動させる。
人からしたら異常な力も、神の一族の中ではとても弱い力だ。姫を護るには微弱すぎて、取るに足らない力だ。
桜祈にも、時雨の言い分は痛いほど理解できていた。弱い身で過酷な運命に飛び込んだ理由が《地の姫》に従者の存在を認めさせることにないのならどこにあるのかと。桜祈が時雨の立場でもそう問うただろう。
見たこともない女に恋をしているのかと、稀紗羅に問われたことがある。
敬愛しているのかと、人に対して物を尋ねることなどない慧斗にも問われたことがある。
桜祈はそんな綺麗なものではないとふたりの危惧する心を受け取らなかった。
「勘違いも甚だしいな。俺が従者になったのは姫を《天の姫》に殺させないためだ。拒むのが姫の意思なら好きにさせればいい」
咲希はきっと、桜祈が従者に拘ったわけを当てられる。稀紗羅や慧斗とは根本的に食い違う理由を答えられる。
従者を拒んだ咲希ならば。
「無駄口を叩きに来たのか?」
出しっぱなしにしていた闇を眼下に投下した桜祈はそれまでの重苦しいやり取りを払拭するように時雨に寄り添う天海を見下す。
この幼馴染コンビが訪れるのは何か火急の要件がある時か、重要な伝言がある時だけだ。特に天海は攻撃手段をいっさい持たないので好んで人里には出てこない。
何か相手側に動きがあったのかと見下したまま返答を待つ桜祈に、ぱんっと手を打ち合わせた天海が忘れていましたと頬をほころばす。
「《天の姫》側のナオさんの承認において社に封印されていた武具の呪が解呪されたそうです。それにより《地の姫》側の時雨と私――天海が聖戦の開戦を祝う祝詞をあげました」
「――予想よりも早いな」
「はい。まだ姫様方には武具の説明までされていないだろうとは思ったのですが、ナオさんが「神託を賜れた日からあまり日数を開けても偉大なる方々のお怒りを買う」とおっしゃられたので」
なので仕方なく、と微笑みを崩さずに言ってのけた天海が時雨を仰ぐ。彼女のしでかした行為に非難を示せば一瞬で能力を行使しただろう少年は、依然として氷のように動じない桜祈に不満げに目を細めた。
武具――それは神代の時代から伝わる神聖な武器のことだ。遙か昔の因果の始まりに実在した初代の姫と従者が使ったものだと言われており、正しい使い方をすればその威力は世界ひとつ滅ぼせるほどだと言われている。実際に、今存在する海はその武器の余波でできたクレーターに水の神が力を注いだものだと言われている。
その武器も争いが終結した際に、平和な世の中にあっては毒にしかならないと《時の大神》の息子ーー《時空の大神》によって封印され、永らく沈黙を守ってきた。だが運命が動き出した今こそ封印を解くべきだと誰からともなく言い出したのが発端となり、神託を下ろす役割を担った者にして時の力を受け継ぐ者――静谷ナオが彼らの言い分にも一理あると認め解呪したのだ。
それをもって武器を封印していた社の守人の家系に生まれた天海が巫として、その守護役を担っている時雨が補佐役として聖戦への祝詞をあげて天と地の双方の勢力に開戦を祝ったということは、もう既に従者以外の者たちも行動を許されているということだ。
その行動を時雨は悔いるつもりはない。天海が悩んで決めたことに文句は言わないと決めている。
不満があるとすれば、従者であれば一秒でも先送りにして欲しいと望んでいる宣誓に対して桜祈の反応が薄すぎることだ。《地の姫》ではなく天海を優先した時雨が注意できた立場ではないが、怒りも何もしないのは逆に従者としての資質に疑問が生じる。
「……明朝、取りに向かう。それまで管理しておけ」
時雨の射るような眼差しを一身に受けていた桜祈はそれを黙殺すると天海にそっけなく言い放つ。
はい。と天海が返事をする頃にはとっくに眼下に戻されていた桜祈の意識に顔を見合わせたふたりはお辞儀をするとそっとその場を離れたのだった。