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かくして舞台の幕はあがる


 世界に朝焼けを捧げる太陽の訪れとともに、夜を優しく照らし出していた月が徐々に身を隠していく時刻。

 まばらに人が行き交う駅の改札口を、ふたりの少女が通っていた。その歩調は殆ど同じで、本来なら何かしらの会話が交わされていてもおかしくない距離だ。しかし、ふたりの間に会話はなかった。目の間に広がる坂道の前で、一瞬、瓜二つなお互いの顔を見合わせて、肩を竦めただけだった。

 少女の名前は、神凪千尋かんなぎちひろ神凪咲希かんなぎさき衣吹学院いぶきがくいんという私立高校に通う、高校一年生の双子の姉妹である。二卵性双生児ではあるが、陽に焼けていない象牙の肌も、黒く濡れた大きな双眸も、整った目鼻立ちも、微妙な違いこそあるものの見分けられない者がいたとしても不思議ではないほどよく似ていた。それを当事者である姉妹も理解していたため、入学した当初から姉である千尋は髪をひとつに束ね、妹である咲希はふたつに束ねていた。せめてクラスの人たちには、先生方には見分けてもらいたいと言う、ささやかな希望で始めた些細な決まり事だ。この効果は絶大で、特に何の対策もしていなかった中学在学時代に比べると、間違えられる回数は格段に減った。

「毎度ながら嫌になる」

 坂道を見ていた咲希が、仄かに幼さが感じられる声で、小さくぼやいた。とうに慣例化している、それでいて珍しく本気で嫌そうに吐露された愚痴に、千尋が澄んだ声をたてて笑う。

「人通りが少ないだけマシだと思うけど」

「それはそうなんだけど」

 高校に登下校するうえで最大の敵である坂との付き合いも、そろそろ一年が経とうとしている。慣れるどころかますます嫌気が差すのは、急な勾配のせいだろう。人通りが少ない時間帯のために自分たちのペースを乱すことなく登れるのはよかったが、それも足に蓄積される疲労とはまた別の話である。

 溜息をひとつ、どちらからともなく吐き出して、示し合わせたように殆ど同時に止めていた歩を進め始めた。

 神凪家の双子姉妹の朝は早い。区域の違う私立高校に通っているのもあるが、単純に、迅速な行動を好んでいるからでもある。満員電車が嫌だ、は言い訳に過ぎないと果たして本人たちが気づいているのかは別として、今日もいつもの通りの時間に家を出た。

 そっくりな顔立ちをしたふたりが道路を歩いても、この時間帯ならあからさまに振り返る通行人はいない。そしてその事実は、似ている、ということに複雑な感情を抱いている千尋と咲希にとってありがたいことだった。

 いまさら人に騒がれなくなったからと言って、似ているという現実がどうこうなるわけではない。一分でも長く睡眠時間を確保した方が良いのだともわかっている。それでも、早起きして通学することは譲れなかった。何ということもない。つまところ、千尋も咲希もむやみやたらに双子だ何だと騒がれるのが煩わしいだけなのだ。

「…………ちょっとだけ、暑いかも」

「そう?あんたの体感温度は相も変わらず異常なことで」

 歩く足を休めるでもなく二月の冬空を見上げて忌々しげにつぶやいた咲希に、飄々とした調子で返した千尋があくびを噛み殺しながら空を仰いだ。

 改札口でもそうだったが、外にいる間、基本的にふたりは会話を交わさない。興味のあることや趣味について共通項は多くても、それは家で話せば済む話。それ以外――たとえば今の気分だとか意見だとか、そういったことを戯れ以外で口に出すことはほとんどないと言ってよかった。長い時間を同じように過ごしてきたからか、喋らなくてもお互いに言いたいことがわかるから必要がないのだ。

 だから、その日は珍しいと言えた。

 咲希が本気で愚痴をこぼしたのも、それに千尋が答えたのも。

 晴れ晴れとした青空が頭上を覆うのを無言で見上げていた千尋は、ふと何気なく後ろを振り返った。不思議そうにその視線を追った咲希は、空っぽの道路を見つめる千尋に息を吐き出す。

「何?どうかした?」

「……何か、いた?」

「いや、疑問で返されても」

 わかるわけない。そう紡ぎかけた咲希が思いとどまったように言葉を飲み込み、鬱陶しそうに視界に入った前髪を払う。

「まぁ、そだね。いたかもね」

「いつもの勘?」

「にもならないもの。あてずっぽう」

 視線を感じたと言ったのだとニュアンスからふんだ咲希の適当な受け答えに、しかし気分を害することなく聞いていた千尋は僅かに笑った。

 からかうような、それでいて面白くなさそうな様子とは裏腹に前に戻された視線には、底冷えのする凄みが宿っている。それを認めた咲希は苦笑を浮かべた。

 気に入らない者、気に入る者。その線引きがしっかりとしている千尋。誰が見ていたのかは知らないが明らかに後者に入ったのがわかった咲希は心の中で手を合わせる。

 もし千尋に好意を持っていたのなら気の毒に、とその不運さを憐れむことしか咲希にはできない。もっとも、その場合は影からこっそりストーカの様に眺めていたのだから自業自得だと思わないでもなかったが。

「さて、じゃあ登りますか」

「しんどいけどね」

 止まっていた足を動かして、それ以降は特に言葉を交わすでもなく黙々と坂道を登っていく。二対の目は、もう後ろを振り返ることはしなかった。



       ******



 この時はまだ、いつもと変わらない日常が続くと思っていた。うっとうしくなるぐらい退屈で変わり映えのない、同時に愛しいばかりの平々凡々な日常が続くと思っていた。

 普遍などないよ、と笑いながら。

 日常に飽きた、と文句を言いながら。

 たぶん、誰よりも普通を願っていた。

 そんな高校一年目の冬の終わりに起こった、悲劇の幕開け。




******




 放課後。

 登校時とは違い、夕焼けに染まる道を千尋はひとりで歩いていた。いつもなら一緒に下校するようにと口うるさく母親に言われているので咲希と帰るのだが、生徒会での仕事が終わっていなかったらしく時間がかかるから先に帰れと言われたのだ。もともとすぐに帰路へつけないようなら置いていくつもりだったので、連絡ミスの指摘だけをした千尋はあっさりと待つのをやめて帰路についた。

 久しぶりにひとりで歩く通い慣れた道は、未知のものに思えた。鳥の鳴く声が響くだけで人通りはなく、まるで世界に独りきりになったかのような覚束なさを思い起こさせる。そしてそれは、不思議なことに朝方視線を感じた辺りに近づくにつれて強くなった。

 明瞭にならない感情に、次第に不愉快さが募った。思わず違う道を通って帰ろうか、と普段なら浮かばない発想が千尋の頭に浮かんだ。

 逡巡したのは、時間にして一秒に満たない程度。だが、その一秒が命運をわけた。

「こんにちは」

 優しげな声が、前方からかけられた。誰に向けられたのかわからないものの、人通りのない坂道だ。恐らく自分だろうと顔を上げた千尋は、面識のない少年ふたりと青年が数メートル先からそれぞれ視線を投じてきているのに気づき眉を顰める。

 少年たちが着ているのは千尋と同じ学校の制服だ。指定のネクタイピンの色からひとりは二学年上か来年入学のひとつ下、もうひとりは同学年だと推測できたが、どちらも見覚えがない。青年に関して言えばもっと手がかりはない。総じて何かのタレントかと疑うぐらい目鼻立ちの整ったタイプの違う美形、としか判断ができなかった。

 学校で噂に訊く美形は同じ学年と年上がひとりずつだったはずだ。同学年の方は咲希と同じクラスで千尋とは委員会で面識がある。年上の方は冷酷を絵に描いたような美貌だと聞いた。だから、彼らが噂の主では断じてない。

 少年ふたりは転校生、だろう。たぶん。転校生にしたって随分と季節外れのため、自信はないが、心当たりはそれぐらいだ。

 さぞかしもてるだろう文句なしの美貌を前に、しかし千尋の心は弾まなかった。世間一般にもてようが、騒がれるほどの美形だろうが、千尋からしたらあまり関わり合いになりたくない人種なのだ。

 もてるということは目立つということ。騒がれるということは話題の渦中にいる存在だということ。

 そんな者たちと接点を持っても、千尋には何の得もない。

 胸の内でそんなことを考えているとは微塵も考えさせない微笑を浮かべながら、さりげなく千尋は三人から距離をとった。

「私に何か?」

 言外に「君たちは誰?」と滲ませたよそよそしい声音に、身をすくませていた年下の少年がひらりとてのひらを差し出す。

「僕は、氷哉夜翅です」

「…………こおりや、やはね」

 初めまして、と何故か泣きそうな顔をして少年――夜翅が手を出した。

 意味が解せず、名前をおうむ返しに繰り返した千尋だったが、唐突に握手を求められているのだと気づいてその手を握り返した。見た目に反して意外にも硬い掌はいくつもの修羅場を知っていそうだ。何となく、そんなファンタジーめいた思考が千尋の頭をよぎる。

「オレは神谷玲かみやあきら。よろしく、綺麗な姫君」

「――――姫?」

「そう、あんたのことだよ」

 いつの間に近くまで来ていたのか。不意に肩を引っ張られて抱き寄せられた腕の中、耳を疑う呼称をかけられた千尋は突き飛ばすのも忘れて玲と名乗った少年を見上げる。

 意味深く意地悪にくすぐる声に潜む底知れない感情が向けられているのが自分であるということに、いまいち実感がわかない。というか言葉が胡散臭い上にうすら寒い。

 とりあえずとばかりにするりとその腕の中から逃れた千尋は、いまだ名乗らない青年を鋭い目で射抜いた。

 くすりと青年が笑い声を漏らして大仰なしぐさでお辞儀をした。深々とした、最敬礼。

「姫、私は汀透みぎわとおるです」

 お前も姫呼びか。

 以後お見知りおきを、と締めくくった透に突っ込みたい気持ちを全力で抑えた千尋は愛想笑いをやめて目を細める。

「――じゃあ、次。私に何が言いたいんですか」

 はっきりとした甘さのない声の質問に、すぐに返答は返らなかった。言いたくないとばかりに落ちた沈黙に千尋は鞄を地面に置くと待つ体制に入る。

「ええと、言いにくいんだけどね」

 やがて代表するように夜翅が困った風に首を傾げ、瞳を曇らせた。深く吸い込まれてしまいそうな澄んだ眼差しが悲しげな光を灯して揺れる。痛ましげに染まったその双眸に浮かぶ確かな謝罪の念に、不思議と警戒はわかなかった。嘘を言おうとしている、とも思わなかった。

 しかし、決して好ましい内容でもないのだと、慌てて自らに言い聞かせた千尋は視線を逸らすと唇を噛み締める。

 見ず知らずの人間がいったい何を言おうとしているのか、正直予測はつかない。ただ、どうしてだか、聞きたくないと反射的にそう思った。

 聞いてしまえば、今日には戻れない。昨日までの時間は流れない。

 勘の鈍い千尋にもはっきりとわかる。それぐらい強く嫌な予感を抱き、だが千尋は逸らしていた視線を躊躇いもなくまっすぐに戻した。

 ひゅう、と感心したように玲が口笛を吹く。

「ふふっ、お前みたいな女、オレは好きだよ。強く、気高く、優しい」

「……戯言を聞く気分ではないけど?」

「いいね、その目。星屑を散りばめた瞳だ」

 人の話を聞いているのかいないのか、マイペースに戯れの言葉をささやいて玲が微笑む。もし、今その微笑みを見たのが千尋ではなく人の美醜に興味のある者だったならば、恐らくその妖艶さに魅せられていただろう。

 それぐらい、文句なく美しい微笑みだった。

「玲、それぐらいに」

 それまで成り行きを見守っていた透が一歩前に出る。ゆるく束ねられた髪がふわりと一瞬風に乗り、浮世離れした印象を強める。

 ぞくり、と千尋の肌が泡立った。それは何の根拠もない直感に過ぎなかったが、強制力を持って体を巡る。

 怖い人、と抑揚に欠けた声音で言ったのが届いたのか、穏やかな笑みを浮かべた透がそっと千尋の頬に触れ――顎をつかむと無理矢理上向ける。

 完璧な笑みを保った顔の中、人の良さそうな目だけが笑っていなかった。

「敵対して下さい、姫。あなたの妹とその従者と。命を賭けて」

「――え?」

 とっさに払いのけようと動いていた千尋の手が空中で止まる。切れ長の瞳が信じられない言葉を耳にして、恐怖からではなく意味を理解し損ねた幼子のように小刻みに震えた。

 それを目にした夜翅がつらそうに視線を逸らした。あれだけ妖艶に微笑んでいた玲の顔からも笑みが消え失せる。

 透の言葉を、否定する者はいなかった。質の悪いことを、と笑い飛ばす者もいなかった。

 それができるはずのふたりは黙り込んで、ただ千尋を見ていた。

 呆気にとられて停止した思考のまま見返す千尋に透が残酷にも繰り返す。

「敵対して下さい、姫。あなたの妹とその従者と。命を賭けて」

 それがあなたの役目だと。

 不可解な言葉を添えて。




***




 そして、千尋が一方的な要求を迫られていたそのころ。

「お迎えにあがりました、姫」

「――は?」

 残っていた雑務を終えて靴箱から靴を取り出そうとしていた咲希は、いきなり横合いからかけられた突拍子もない言葉にぽかんと口を開けていた。まじまじと大きな目で見降ろした先には、何の冗談なのか片膝をつく青年がいて面食らう。

 ご丁寧にも恭しく俯いているためしっかりとは見えないが、綺麗な顔立ちをしているのは長い前髪の下から僅かに覗くパーツでわかった。瓏々と澱まず響く声は耳に心地よく、なじみのある音にすら感じられる。

 感じられるが、それは安心する理由にならない。

「…………」

 無言のまま、すっと片足を引いた咲希は凍りついた表情で青年を見下ろした。

 見覚えがないのだ。少なくとも咲希の記憶の中にこのような男の情報はない。もし会ったことがあるのなら――仮にその姿形を忘れていたとしても――特徴的な姫という呼び方をする変わり者として記憶にいるはずだ。

 変質者か、不審者か、人違いか。いずれにせよ、警戒に値する人物なのは疑う余地もない。

 咲希が纏う張りつめた空気に気が付いたのか、それとも何か言葉が返されるのを待っていたのか。恭しく跪いたまま、青年が何の前触れもなく顔を上げた。

 姫、失礼を。と直前に許しを乞う言葉が聞こえた気もしたが、気のせいだろうと判じて反応を返すことはしなかった。

 青年の誠実さを秘めた静謐な瞳と咲希の冷え切った瞳が真っ向からぶつかった。ぴりっとひりついた空気が肌を撫でる。産毛がぶわりと逆だった。

 一瞬だけ、何かが青年の瞳に重なった気がしたが、はっきりと掴む前に霧散してしまう。

「……誰?というか、まず立ってくれません?」

 どれぐらいの時間がそのまま過ぎただろう。恐らく数秒か数分なのだろうが、永遠のように長く感じられた沈黙の末に、咲希はゆっくりと口を開いた。同時にそれまで醸し出されていた剣呑な雰囲気が消失する。残ったのは若干の警戒を秘めた刺々しさだけで、青年に対する敵意は根こそぎ消えていた。

 心境に変化が生じたわけではない。見覚えのない青年が不審人物なのは確かなことなのだ。それでも、咲希は何の根拠もなくただ信じた。

 青年の目に浮かんでいた誠実な光と嘘偽りのない彩りが、悪人のものではないということを。

 さらに青年が咲希に害をなすことはないだろうということを。

 本当に、何の根拠も理由もなく、直感で、無条件に信じたのだ。

 そうとは知らない青年は、悪目立ちを嫌う咲希の勧めに数瞬迷いを見せた。何度か咲希の顔と自らを見やり、葛藤している様子だった。

「立って。早く」

「しかし、」

 しかしも何もない。女子高生に跪く青年の姿の異質さを重々承知している咲希は、なるべく早く目の前の青年に立ってほしいだけだ。

 やがて咲希の睥睨の視線からそのことを察したのか、軽く頭を下げてから青年は立ち上がった。

 そうして見ると、随分と背が高い。今の日本人男性の平均より五センチ以上は上だろう。

白濱慧斗しらはまけいとと申します、姫」

 青年――慧斗が名乗った。姫、という呼称に咲希の頬が引き攣る。

「……いろいろ物申したいことはあるけど、とりあえず、どうして咲希を姫と呼ぶ?人違いではない?」

「はい。幾星霜いくせいそうの時が過ぎ、記憶が錆びれた歯車に変貌しようとも過つことは有り得ません。全ては御身が姫であるが故に」

 ひとかけらの逡巡もなく返された回りくどい返答に、咲希は頭が痛むのを自覚した。

 どうやら慧斗にとって咲希は間違えようもなく姫と呼ぶべき対象らしい。だが、今の時代、ごくごく一般的な家庭で生活してきた者が姫のはずがない。それに、姫と言う呼び方が文字通りの意味ではなかったとしても、大仰すぎる呼称を呼ばれる心当たりが咲希にもないのだ。

 本来ならにべもなく人違いだと言ってしまいたいところだったが、慧斗の顔を見て諦めた。ひたむきに据えられる誠実そうな目が、それを口にするのをはばからせた。違うと言っても、違わないと返されるだけなのが目に見えていたのもある。どちらにしても、何をもって姫と定義して呼ぶのか不明である以上、簡単に否定してしまうのは間違っている気がした。それに、いたずらに人を傷つける必要もない。

 さて、どうしたものかと目を伏せた咲希は、靴が廊下を打つ音を聞きとがめてはっと反射的にそちらを見やる。

 氷の美貌、と表現するにふさわしい冷徹そうな印象の生徒がすぐ近くの靴箱にもたれかかっていた。

 ネクタイピンの色から先輩にあたる人だと見て取った咲希は、今の常識はずれな会話の応酬を聞かれたのではと身構える。

 真っ向から視線がぶつかった。その瞬間、やはりさきほどと同じように心の琴線に何かが引っ掛かった気がしたが、雲をつかむのと大差なくすぐにその感覚もなくなった。

 誰?と慧斗にした問いを再び重ねるべきかどうか思案した咲希だったが、それよりも先にその生徒の陰からもうひとり出てきたのを見て取り、それが顔見知りであるのを認めると今度こそすべての警戒を消した。

「蓮咲」

「……悪い」

 困惑が伝わったのか、同じクラスの蓮咲稀紗羅はすさききさらが相変わらず直立不動な慧斗と冷ややかにたたずむ先輩生徒を見比べる。その端正な顔は仕方のないやつらだと物語っていた。

「なんだ、蓮咲の知り合い?」

「……お前な、訊きたいのはそれじゃないだろ?」

 胡乱げに問いかけた咲希に稀紗羅が腕を組むと目を閉じてため息混じりに切り捨てる。張りつめた空気がなくなってもなお無駄な問いを続けるのかと言いたげな声音に咲希は肩を竦めた。

 知り合いなのかなど、問うべくもなくわかるものだ。苛立つ気持ちもわからないでもない。

「おい、お前」

 口を噤み視線を逸らした咲希を低く艶のある声が上から目線で呼ぶ。有無を言わせない力強さに嫌々顔を向けた咲希は、何、とぶっきらぼうに吐き捨てた。

「どこまで知っている」

「……何を?」

 主語のない意味不明な質問に咲希は疑問符を返す。

 姫と呼ばれる理由なのか、彼らにまつわることなのか、それともこれからのことなのか。それさえも咲希にはわからない。わかる術がない。

 だから一つだけ答えを返すとしたら、何もわからないが適切だった。

桜祈おうき、そいつは何も知らない」

 助け舟なのか稀紗羅が口を挟んだ。

 桜祈と呼ばれた先輩が無言で稀紗羅を射抜く。その目に宿る背筋が凍えるほどの冷たさは氷点下よりも低い。向けられたのが自分ではないと言うのに、咲希は気が気ではなかった。

 とは言え、怖くはなかった。

 むしょうに苦しく、哀しいだけだった。

「こいつの姉も、何も知らないよ」

「……待って。あいつも関係あるわけ?」

 姉、という言葉に反応して稀紗羅を睨みつけた咲希の前に桜祈が滑り込む。いつの間につかまれたのか捉えられた左腕が鈍く痛んだ。

 苦悶に微かに顔をゆがめた咲希を暖かみのない目で見据えた桜祈が酷薄に言う。

「お前が何を思っているかは関係ない。姉を敵に回す覚悟さえあればな」

「……ほんとに待って。初めから話して。何の話?」

「知る必要のないことだ」

 言いたいことだけを言って手を振りほどいた桜祈が稀紗羅と慧斗に一瞥をくれる。たたらを踏むのを何とかこらえた咲希は異変を感じて周囲を見渡した。

 慧斗がすっとその横に並ぶ。

「姫、御安心を。明日が来るまでは、誰も手出しはできない」

「いや、だから」

 本当に何の話だと何度目になるのか数えるのも億劫になりながら懲りずに繰り返した咲希の頭に稀紗羅の手が乗る。

「説明してやるよ。いいな、桜祈」

「……好きにしろ」

 ただし、訊いたら今度こそ戻れないからな。

 厳しく言い渡す声が、無人の廊下に木霊した。


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