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伊崎久蔵(80)の最後の記憶



──親が決めた事ですから悪いも良しもありません。

華やかに粧し込んだ女がそう儂に告げる。その顔にはただただ諦めのみが浮かんでおった。


女房の███はとても控え目な女であった。男の三歩後ろを歩く様な女よりも更に奥ゆかしく儂の言葉に逆らわない女。儂や儂の親の言う事には全て従う⋯まるで奴隷かの様な振る舞いがどうも心地悪く一度尋ねた事があった。

「嫁いだ身ですから、嫁いだ先の家に尽くさねばなりません。」

初めて顔を合わせた時より変わらぬ全てを諦めた表情。口元だけは柔く弧を描いているのがこいつなりの取り繕いなのだろうが、⋯あまりにも分かり易過ぎる。こんな女と生涯を共にせねばならんのか、そう親父に叫びたくなったが拳しか飛んでこないのは目に見えて分かっていただけに現状を受け止める事しか出来んかった。


夫婦となって二年目の晩。村内の会合帰り、煽られるままに酒を飲んで帰宅し玄関の戸に手を掛けた時だった。擦り戸越しに見える一つの人影と微かに聞こえてくるの███の声に手を止め耳を澄ませてみれば、女房の声しか聞こえない事と玄関に黒電話が置いてある事で通話中だと悟る。大方実家と電話をしているのだろう、あの仏頂面な女が実家ではどんな様相を見せるのか──そんな好奇心が湧いてきたのは酔いのせいか。伸ばし掛けた手を下ろしてそのまま███の声に耳を傾けてみた。

「──そう、昭一さんと結婚するの。⋯おめでとう。お姉ちゃんの分まで幸せになってね。」

聞いた事も無い声色で柔く語り掛ける女房の言葉から辿るに、恐らく妹が結婚するのだろう。相手は隣の地区にある農家の長男坊、男前だが誠実な男だと村中で評判の良い奴だ。そんな男を射止める妹を持つとはこいつも鼻高々だろう、やがて聞こえる受話器を置く音に通話が終わった事を悟って再び戸に手を掛けようとした──が、同時に聞こえる声にまた戸を開けるのを阻まれてしまった。

「⋯⋯っく、⋯ふ⋯⋯⋯ぅ⋯!」

嗚咽と共に黒くぼやけた人影が小さい塊となる。その小さい塊が嗚咽混じりに吐き出したのだ。

────昭一さん、と。

否が応でも腑に落ちてしまった。こいつは昭一が好きだったのだと。好きな男を諦めて知らない男へ嫁ぐ絶望であのような諦めた顔をしていたのだ。酔いどころか脳味噌まで冷めていく感覚になってそこからの記憶はない。気付けば朝、納屋で寝るんじゃねえと親父に蹴り起こされていた。

家に援助をする代わりに███を嫁にと親父が持ち掛けたと知ったのはその日の晩酌中、酔いに任せて何の気無しに親父の口から放たれた言葉からだった。何故あいつを選んだのか──親父は上機嫌にこう言った。

「器量も良く言葉も少ない。跡取りを産ませるには丁度良いだろうからな。」

それから生涯を終えるまで、あいつへの罪悪感だけを胸に抱いて生きていた。




「───久蔵さん!久蔵さん!」

遠くに聞こえるサイレンの音にも負けない位に煩い███の声。出会って七十年弱、初めてこいつが声を張っているのを聞く。

ドクドクと頭の後ろが熱く脈打ち、瞼も重くて開けられん。妙に周囲も騒がしい。はて、儂は今何をしておったか───思考も纏まらない。ただただ女房が喚いているのが聞こえる。

「久蔵さん!ねえ、久蔵さ、」

ぶつん。

テレビが切れたように伊崎久蔵の記憶はそこで途切れた。



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