無用な糸切り鋏 〜愛されなかった聖女の選択〜
お姫様に憧れた。
もちろん、本気でお姫様になりたいわけではない。
子どもの憧れといったところか。愛らしい姿に、華やかなドレス。多くの人に愛されるお姫様は、幼心に魅力的に映った。
絵本やアニメで見るお姫様はどれも可愛くて。こんな風になれたらいいな、って考えた。それだけのこと。
大きくなって、そんな空想をすることもなくなったけれど。
それでも、お姫様への憧れはあった。
「ローラ、私が愛しているのは君だけだよ」
「殿下……! 私も、あなただけをずっとお慕いしています」
王城の隅、人気のない庭。外れに位置するこの場所は、人の立ち入りがほぼ無い場所だ。普段出入りするのは私くらいだろうか。
一般人に過ぎなかった私には、覚えなければならないことが多すぎて。令嬢としてのマナーを叩きこまれる毎日だった。これも愛する人との未来のためと、歯を食いしばった数は数え切れない。
そんな私にとって、人気のない庭は気分転換にピッタリな場所で、足繁く通っていた。
それも、今日で終わりとなるだろう。
「でも殿下、あなたはサクラ様と結ばれなければ」
「ローラ……分かっているよ。国のために、君を諦めなければならないことは」
それでも、自分の気持ちに嘘はつけない。そう告げる殿下に、ローラ嬢は涙を浮かべる。
強く抱きしめ合う二人は、まるで映画のような美しさだ。
愛し合う二人が、悲しくも引き裂かれる。それを憂う姿に、映画なら感動できたかもしれない。
これが、映画だったなら。
ゆっくりと足を下げ、背を向ける。かつての戦闘訓練が活きているのだろう。足音一つ立てず、私はその場を後にした。
頭の中は真っ白で。それでも動く身体に笑いがこみ上げる。
こんなときくらい、普通の女の子らしくいられれば良かったのに。
極力足音を殺し、私は一人自室へ戻った。
幸い、今日の予定は全て終わっている。あとは自習をするだけで、来客対応はない。
侍女へしばらく一人にしてほしいと伝えると、彼女は微笑んで頷いた。日頃詰め込みすぎているからか、「たまにはゆっくりとお休みください」と気を遣われたほどだ。
一人きりになった部屋で、私は床にうずくまる。
あぁ、なんて馬鹿だったのだろう。愛する人との未来のため、なんて。そんなもの、彼は望んでいなかったのに。
頬を温かな液体が滑り落ちる。とめどなく溢れるソレに、視界はいつの間にか歪んでいた。
「……っ!」
堪えきれない涙に反し、押し殺す声。泣き声一つ上げない自分に、冷静な頭が滑稽だと嘲笑う。
この世界に来る前なら、当たり前に泣けただろう。声を堪えることもなく、みっともなく泣けたのだ。
真っ白な頭で身体を動かすことも、声を押し殺して泣くことも、普通なら必要ない。
この世界に来なければ、私は普通の女の子でいられたのだ。
私は元々、この世界の人間ではなかった。違う世界の日本という国に生まれた、ごく普通の女子高生。それが私だ。
そんな私が異なる世界へ来たのは、この国の人に召喚されたからだ。「国を救ってくれ」そんな願いに導かれ、私はこの地へ足を踏み入れた。
魔族に狙われていたこの国は、聖女という存在を求めていた。魔族が嫌う、光魔法の使い手。それが聖女だ。
この世界に光属性を使える人間はおらず、聖女は異世界から召喚するのが習わしらしい。
常であれば自国の人間で防衛するのだが、ここ数年魔族の動きが活発化していた。騎士たちや一般の民にも被害が及ぶ状況となり、この国の王は聖女召喚を決めたらしい。
そして召喚されたのが私、水瀬桜だった。
いきなり訳の分からない場所に連れてこられて、国を救ってくれと言われて。最初は酷く混乱した。家に帰して欲しいとも告げた。
それでも、帰る方法は存在しないことを知り、私は愕然とするしかなかった。
もう二度と、家族には会えない。友人にも会えないし、通い始めたばかりの高校にも行けない。
私が一体何をしたというのだ。そんな気持ちでふさぎ込んでいたとき。私へ優しく接してくれたのが、この国の王子、クリストフ殿下だ。
まずは話をしよう、そう言ってお茶に誘ってくれた。私の何気ない話を聞いてくれて、彼は楽しそうに微笑んでくれた。
実際、興味深いことはあったのだろう。学校のことや、私が住んでいた場所のこと。彼はたくさん質問をした。それに答えているうちに、自然と肩の力が抜けたのを覚えている。
そんな日々を続けて、一ヶ月ほどが経っただろうか。殿下がこの国のことを話してくれた。どれほどひどい状況下にあるのかを。
その上で、頭を下げられた。どうか力を貸して欲しい、そう言って。
そのときの私の驚きは言葉で表すことができない。一国の王子に頭を下げられるなど、まずありえないこと。ただの女子高生だった私には、荷が重すぎた。
何とか頭を上げてもらい、協力を申し出た。
ただの小娘に偉い人が頭を下げねばならぬ状態。どれほどひっ迫した状況なのかは、私でも分かった。このとき、どうせ帰れぬのならと腹をくくったのだ。
「ありがとう」そう言って微笑んだ彼が美しくて、私はその微笑みに見惚れた。
これが、初めてこの世界の人をまともに見た瞬間だったと思う。故郷への未練に、私はずっと現実から目を逸らしていたから。
そうして始まった魔族討伐。
とはいえ、いきなり敵陣に向かうことはできない。私は戦闘など出来やしないのだ。当然、訓練が必要だった。
基本的な立ち回りから、光魔法の訓練。やるべきことは多岐に亘った。
最初は、武器を持つことすら困難だった。扱い方も分からず、ただ重みに振り回される毎日。
それでも何とか形になったのは、10ヶ月ほどの月日が経った頃だろうか。
訓練がひと通り終わり、いざ旅立ちのとき。メンバーは王国騎士の精鋭と、王子。それに雇い入れた冒険者だった。
冒険者の名前はクロード。肩下くらいまで伸ばされた黒髪に、親近感を覚えた。日本を思わせる色に、郷愁が湧いたのだ。
「お前が聖女か? まだ子どもじゃねぇか」
眉を顰めて言うクロードに、騎士たちが無礼だと咎める。私としては、苦笑するしかなかった。事実だからだ。
そのときの私は16歳。日本でも未成年の歳。子どもと言われても仕方なかった。
クロードはとても強く、旅慣れしていた。土地勘もあり、彼の機転に助けられたことは数え切れない。
訓練したとはいえ、戦いに不慣れな私。最初の内は、敵に武器を構えることすらできなかった。
そんな私を、叱り飛ばしたのはクロードだ。「死にたいのか」その一言は、私の胸を抉った。
死にたくない。ただその一心で、私は敵へ武器を構える。魔力が集まり、光の刃が敵を襲った。
初めて、命を奪った。
その日の夜、周囲から少しだけ離れて、私は夜空を見上げていた。
そんな私に、声をかけたのはクロードだった。背中合わせで座り、ゆっくりと口を開いた。
「泣いていい」その言葉に、涙腺が緩んだのを覚えている。「怖いのは当たり前だ、相手だって生きているんだから」クロードの言葉は、的確に私の胸を打った。
「命を奪うことは怖いことだ。それが分かるなら、お前は正常だよ」
その言葉を最後に、私は泣き崩れた。きっと、声を上げて泣いたのはあれが最後だった。ただの子どものように、怖いと泣きじゃくったのだ。
クロードは口こそ悪いが、決して悪人ではなかった。気がつけば、兄妹のような間柄になっていた。何度も叱られたけれど、こちらが態度の悪さを注意することもあった。
クロードと喧嘩したり、クリストフ殿下と微笑み合ったり、みんなで火を囲んだり。辛いことも多い旅だったけれど、楽しいこともあった。
そんな旅も、先月幕を閉じた。魔族の群れを倒し、拠点を叩いたのである。
魔族自体はまだ世界中にいるけれど、国の安全は確保できるようになった。一度手痛くやられた国に、すぐに手を出すことはないだろう。聖女という抑止力もいる。その安堵からか、私たちの帰還に国を挙げてお祝いがなされた。
祝いの場で明かされたのは、私とクリストフ殿下の婚姻だった。寝耳に水だったのでとても驚いたのを覚えている。
この世界に来たばかりの頃、優しくしてくれたのは殿下だった。旅の間も、ずっと私を気にかけて優しくしてくれた。
そんな彼に、私はいつの間にか恋に落ちていた。だからこそ、その発表は嬉しくて。好きな人と結ばれるのだと舞い上がる気持ちだった。
殿下へ視線を送ると、彼は穏やかに微笑んでくれた。婚姻に異を唱えることもなかった。彼も同じ気持ちだったのだと、喜んだものだ。恐怖に立ち向かった末に掴んだ、運命の相手だと思えた。
子どもだった私は、何も見えていなかったのだ。
――コツン
何かが当たる音がして、顔を上げる。室内に異変はない。ドアのノック音ともまた違っていた。
気のせいか? そう思うも、冷静な頭がそれを否定する。
音が聞こえるのは部屋の奥、窓の方からだ。
ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開く。そこには、ここにいるはずのない人物がいた。
「クロード!?」
私は慌てて窓を開ける。彼が窓の外にしゃがみ込んでいたのだ。
おそらく、周囲からバレないようにするためだ。男性が窓に立っていれば、さすがに目立ってしまう。
理由は不明だが、王城へ忍び込むくらいだ。何かしら理由があるはず。
褒められたことではないと知りながらも、私はクロードを部屋へ招き入れた。
「やっぱり予想通りだったか」
室内に入ったクロードは、開口一番そう呟いた。こちらが問い返す間もなく、彼の指が私の目元を拭う。
それに、涙を拭き忘れていたことを思い出した。
「だから言っただろう。王子様へ恋なんて、やめておけってな」
「クロード……」
彼の言葉に、私は唇を噛む。
彼の言うとおりだ。彼はずっと、私に忠告していた。
旅の間で、彼は私がクリストフ殿下に恋心を抱いていると気付いた。その際に言われたのだ。住む世界も価値観も、何もかも違う相手と幸せになれるのか、と。
「馬鹿だな、お前は」
クロードはそう言って、私の髪を梳いた。旅の間ですっかり慣れた行為に、私の涙腺が緩む。ぽたぽたと流れる涙は、あれほど泣いたというのにまだ涸れそうもない。
「大方、公爵家のローラ嬢と仲良くしてるとこでも見たんだろ」
「……知ってたの?」
そう尋ねる私に、クロードは苦く笑う。あの二人は婚約者だったんだよ、そう言う彼はどこか言い難そうにしていた。
「悪かったな。先に言ってやれなくて」
「……いいの。だって、私のためでしょう」
クロードが目を丸める。どうやら、私の返事に驚いているらしい。失礼な話だ。私だって、彼の良いところくらい知っている。
「私がクリストフ殿下を好きだったから。だから黙っていてくれたんでしょう?」
傷つくことになると分かっていたから、彼は口を閉ざしたのだ。
それでも、こうして謝罪するのを見るに、相当悩んだのだろう。後で傷つくくらいならと、話そうとした日もあったのかもしれない。
「分かってるよ。だって、仲間のことだもん」
一年以上、共に旅をした仲間なのだ。その人の性格くらい、ちゃんと理解している。
彼は皮肉屋で口も悪いけれど、人を傷つけるような人間ではない。誰かのために心を砕ける人なのだ。
「本当に馬鹿だな、お前」
「ちょ! なんてこと言うの!」
こっちがフォローしたというのに! そんな気持ちで彼を見上げ、息をのんだ。彼が酷く傷ついたような、今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見ていたからだ。
「お前は子どもだったんだ。今だって、まだ子どもだ。大人になるには早すぎる」
彼の手が私の肩に落ちる。そっと添えられた手は、いつもと変わらない頼りがいのある大きな手だ。
「もっと怒って良かったんだ。勝手にこの世界へ連れてこられたんだろう。
理不尽だって、戦いたくなんかないって、怖いんだって、言ってよかった。泣いたって、良かっただろ」
彼の言葉に、私は唇を噛む。それはずっと、心の奥に隠していたこと。言いたくて、でも、口にしてはならなかった言葉だった。
「もう良いんだ。お前はよくやった。
怖い思いを抱えて、必死で戦って。戦場ではどれだけ怖くとも、涙一つこぼさなかった。本当なら、何一つ知らなくて良いことだったのに。
逃がしてやれなくて、悪かった」
彼の言葉の一つ一つが、私の心を溶かしていく。
いつだってそうだった。彼は私を叱り飛ばしはするけれど、それは私の命を守るためで。本当は、私が戦わされる状況に、不快感を示していた。
初めて会ったとき、私を見て眉を顰めたのはそれが理由だったのだろう。
「このまま結婚して、王子妃になって。お前は幸せになれるのか? この国が望むままに生きて、幸せだと笑えるか?」
その言葉が、引き金だった。
ずっと目を逸らしてきたこと。殿下とローズ嬢のやり取りを見て、それでも考えないようにしていたこと。
それが、彼の言葉に引きずり出される。
「なれない……」
声が震える。嗚咽の混じる声は、お世辞にも美しいとは言えなくて。涙を流すローズ嬢は美しかったのに、私との違いを思い知らされる。
「し、あわせに、なんか……っ、なれないよ……!」
恋した人は、私を想ってはくれなくて。愛した故郷には帰れなくて。ただ言われるままに、愛のない結婚をする。そんなの、幸せになれるはずがない。
「わたし、いやだ。このままなんて、いやだよ……!」
涙に邪魔され、言葉が詰まる。それでも、今だけは。全てを出し切ってしまいたかった。弱さも未熟さも認めてくれる、彼がいる今だけは。
「なら逃げるぞ」
彼の言葉に、私はぴたりと口を閉ざす。音としては聞き取れているのに、理解ができなかった。
「逃げる……?」
「そう、逃げるんだ」
逃げるって、どこに? 私には帰る場所も、住む場所もないのに。そんな気持ちで彼を見上げる。
視界の先には、真剣な彼の瞳があった。
「場所なんかどこでもいい。国に定住しなければ、生きていけないわけじゃない。
お前が望むなら、俺みたいに冒険者になればいい。幸か不幸か、技術は十分にある」
魔族を打倒するため、戦闘技術は身につけた。旅に必要な知識だって、普通の女性よりはある。
たしかに、冒険者として生きることもできるだろう。高望みさえしなければ、やっていける。
「戦うことが嫌ならば、どこか遠い場所で自由に暮らせばいい。そこまで連れていってやるくらい、大した手間でもない」
そう言うと、彼は私の両肩を緩くつかむ。腰を落とし、私と目線を合わせた。
真剣な瞳とぶつかる。彼の瞳には、涙に濡れた私が映っていた。
「選ぶんだ、自分で。
今度こそ、自分の生きたい道を選べばいい」
お前の人生だ。その言葉が、私の胸に突き刺さる。
私の人生、そうだったはずなのに、いつの間にか自分で選べなくなっていた。
もう、選んでいいのか。国のためとか、誰かのためでなく、私の人生を。降ってわいた幸運を待つのではなく、自分で幸せを掴んでいいのか。
「私、」
許されるならば、私は。
「私、自分で選びたい」
与えられた人生を進むのではなく、私自身の意志で。
「どこで生きるのか、何をして生きるのか。……誰と、生きるのかも。自分で選びたい!」
声に力がこもる。こんなにはっきりと自己主張したのは、いつぶりだろうか。
じんわりと涙がこみ上げる。私、まだ選べるんだ。自分の道を、自分で。
涙を拭い、前を向く。
そこには、明るい顔で笑うクロードの姿があった。
風が通り抜ける。海の上にいるからだろうか。潮の香りが鼻をくすぐる。
雲一つない空の下、船は穏やかに海を渡っていた。
「ここにいたのか」
「クロード」
背後から聞こえた声に振り返る。私の動きに合わせるように、髪が靡いた。軽くなった髪は、軽やかに風に舞っている。
「おー、随分頭軽そうだな」
「間違ってはないけど……髪が軽いって言えないの?」
私が馬鹿みたいじゃない! そう抗議する私に、クロードはにやりと笑う。こういう皮肉屋なところが、彼らしいといえば彼らしいのだが。
「髪型一つで随分印象が変わるもんだな」
「まぁね。女の子って、そういうもんでしょ」
背中まであった髪は、肩のラインで切り揃えられている。王城にいたときは、短くするのは認められなかった。髪が短いのは平民のみだとか。
聖女として、王子妃として願われていたら、決してできない髪型だ。
「後悔は無いか?」
そう問いかける彼に、微笑んで頷く。後悔などない。だって、私は理解したから。
「私ね、お姫様に憧れてたんだ」
甲板の手すりに背を預ける。本のページをめくるように、記憶を辿りはじめた。
「可愛くて、綺麗で、華やかなドレスを着て、多くの人に愛される。そんなお姫様に憧れていた。
ううん、正確に言えばそう思っていた、かな」
「そう思っていた?」
繰り返す彼に、静かに頷く。私は、何も分かっていなかった。
「でも、違った。現実はそうじゃなかった。どんなに綺麗な格好をしても、周囲に大切にされても、私幸せじゃなかったもの」
王子妃になるからと、相応しい格好をさせてもらった。聖女として、多くの人が大切にしてくれた。王子妃に迎えるという発表も、ほとんどの人が好意的に受け取ってくれたのだ。
それなのに、
「全然、幸せじゃなかった。結局ね、私の想像するお姫様って、花嫁さんだったのよ」
「花嫁?」
「そう。国中から大切にされるお姫様じゃない。親しい人に祝福されて、たった一人の愛する人と歩いて行く。そんなお姫様。
結婚式に華やかなドレスを着るでしょう? 子どもの頃さ、お姫様みたいだなって思ったのを覚えてる。
私の望むお姫様は、そっちだったんだ」
どれだけ周囲から大切にされても、たった一人、夫となる人に愛されなければ幸せじゃない。
貴族からすれば何を馬鹿なことをと思うかもしれないが、私には無理だった。
愛のない結婚が幸せだなんて、そんな価値観持っていないのだから。
「結局、住む世界が違う。それだけのことだったんだよね。
殿下はきっと、受け入れた。国のために愛する人と離れることを。切り裂かれそうな思いを抱えて、それでも認めたんだと思う。それが最善だって」
けれど、私はそれができない。そんな教育など受けていないのだ。受け入れられないのは当然だった。
「私は好きな人と結婚したいし、自分のことを愛してほしい。他の誰かが心の中にいるのは嫌だって思う。
そもそもの話、向いてなかったんだね、貴族の暮らしというものに」
慣れない習慣。身につけるべき教養や、立ち居振る舞い。彼の隣に立つからと必死で学んだけれど、それも意味がなかった。
ただの付け焼き刃でしかなかった。根本的な価値観を理解できないままの、ハリボテだ。それが如実に現れたのが、今回の一件だろう。
「だから後悔はしないよ。幸せになるために、私はこの道を選んだのだから」
国を出たことは、少し申し訳ないけれど。
そう言う私に、クロードはため息を吐く。がしがしと頭をかき、呆れたように口を開いた。
「お前が謝ることじゃねぇ。子ども一人に全てを背負わせる方がどうかしている。
魔族の群れも倒し、拠点も叩いたんだ。国の窮地は救っただろう。その上でまだ小娘に頼るのはおかしい。何のために庶民が税金払ってるんだっつー話だ」
騎士でもなんでもいるだろ。そう言う彼に、くすりと笑う。
彼はずっと、大人として私を守ろうとしてくれていた。未熟なまま戦場に立つ私を叱り、生きてあの国へ戻らせた。
それだけじゃない。私が不幸になるとみるや、こうして手を貸してくれた。ちゃんと幸せになれと、背を叩いてくれるのだ。
「間違えてたんだなぁ」
「あ?」
首を横に振って笑う。これを口にするのは、はばかられた。何でもないよ、そう言ってくるりと背を翻す。
視線の先は、どこまでも続く青だ。
恋する人を間違えた。それに尽きるのだ。殿下ではなく、もっと違う人ならば。価値観を同じくする人ならば、ぶつかり合いながらもやっていけただろう。
住む世界が違う、価値観が違う。その大きさを痛感させられた。自分が何も分かっていなかったと知り、何だか笑えてくる。
クロードの言うとおり、私はまだ子どもだったのだ。相手の立場も、価値観も、住む世界の差も、何も分からないお子様だった。
「よし! これから頑張りますかー!」
「お? 何かいきなりやる気だな?」
空回りするなよ、そう言う彼は意地悪な笑みを浮かべている。それに「誰がするか!」と目を吊り上げて返した。
数拍の間が空いて、二人で声を上げて笑う。まるで旅をしていた頃に戻ったようだ。何やかんやと言い合い、ふざけて笑う。
ここにはもう、微笑んでくれた殿下はいないけれど。それで良い。それが良いのだ。
「まずは美食の国、グランベルクに出発だね!」
「色気より食い気とはこのことだな」
食いすぎて太るなよ、と釘を刺すクロードに、私はぐっと息を詰まらせる。やけ食いに走ろうしたのがバレているようだ。
「だ、大丈夫だよ。ほら、戦闘で体力使うし、旅するし?」
「旅がダイエット感覚かお前は」
全く、とため息を吐く彼に、頬をかいて笑う。失恋の痛みを消すには美味しいものだろう。初めての失恋だし、効果のほどは分からないけれど。
「美味しいもの食べてー、旅をしてー、いつか運命の人に会えますよーに!」
「運命の人ねぇ……たしか、赤い糸だったか?」
かつて彼に話したことがある。運命の赤い糸についてだ。雑談のネタくらいに話したことだったけど、彼は覚えていたらしい。
「そうだよ。運命の赤い糸! 本当にあったら素敵だよね」
「お前、本当にそう言うところ子どもだよな」
呆れたように言う彼は、どうやら信じていないらしい。かくいう私も、心から信じているわけではないが。
しかし、普通口にはしないだろう。情緒というものがないのか、この男には。
「クロードはモテなそうだよね」
「ぁあ?」
額に青筋を浮かべる彼を見て、私は「やばっ」と声を漏らす。これは面倒くさくなるパターンだ。対処法はただ一つ、逃げの一手である。
「失礼しまーす!」
「おい待てサクラ!」
甲板を蹴って扉へ向かう。とりあえずほとぼり冷めるまで放置しよう。
背を押すように吹く潮風に、私はゆっくりと口角を上げる。身軽だ。何にも縛られることのない、自由の身。どこへでも行ける、そんな気がした。
船の遥か後方には、置いてきたあの国が見える。一歩足を踏み出せば、こんなに簡単に離れられる場所だった。
だって、赤い糸は繋がっていない。糸切り鋏すら不要な関係だったのだから。