第一話 狐につままれたような
冬の寒さは過ぎ、そろそろ春が来るだろうという三月上旬。西の空が赤く染まり、夜のとばりが下りるだろう。真冬と比べて日が長くなり夕焼け空が拝めると、春の訪れを実感する。
自室でゆっくり動画サイトの動物ビデオを見ていたら、来客の知らせが耳に届く。
ピンポーン
高校一年生の笹原司が住んでいる家のインターホンが鳴る。来客だ。しかし、何かネットで注文した覚えはないし、両親や姉からも何も聞いていない。土曜の夕方の時間に誰かが来る覚えはないので、新聞の勧誘か宗教か……と考えたところでもう一度ノックの音がした。
ピンポーンピンポーン
空耳かと思ったが、どうやら我が家の来客で間違いないらしい。居留守を決め込もうかとも考えたが、宅配便だとしたら再配達の申し込みも面倒だ。
不幸にも、両親も姉も外出中。留守番を任され、現在家には司一人。
仕方なしに腰を上げ、足音を立てずに玄関までたどり着く。ゆっくりと覗き穴から外の様子をうかがってみる。
(……女性?)
魚眼レンズにより歪んだ世界の端っこに人影が見える。ただ、来客の立ち位置が悪く、レンズの端っこぎりぎりにしか映っていない。かろうじて肩よりも伸びた茶髪から、女性かもしれないというところまではわかった。
右肩と髪しか映っていない以上、どんな人間がどんな用事でやってきたのかわからない。やはりここは居留守を決め込むべきか……。
ピンポーンピンポーンピンポーン
回数が増えている。居留守は許されないらしい。
「はい。でまーす」
しぶしぶドアを開けてみた。
そこにいたのは一人の女の子。
歳はおそらく司と離れていない。ニット帽をかぶり、風にさらさら揺れる髪は腰まで伸びている。茶色のダッフルコートを着込んでいるが、それでも少し寒いらしい。両手を合わせ、口の前で擦って暖を取っている。
くりっとした愛らしい目は右へ左へ泳いでいて、不安を隠せていない。
「あ、あの笹原司さんですか?」
「あ、はい」
厚着の女の子に対し、暖房の効いた部屋でぬくぬくしていた司は現在薄着だ。ドアを開けた途端、春といえど冷たい空気に晒され顔をしかめる。
なんで俺の名前知っているんだ?
彼女の一言目に不信感を抱いたが、とりあえず用件を聞く。
「えっと私、天河美也孤です!」
「はい」
「十六歳です!」
「はい」
同い年か。それがなぜ自分の家を訪れたか、理由は皆目見当がつかない。
美也孤は両手をこすり合わせ、目を右へ左へ行ったり来たり。何を話したいのかわからないが、とにかく緊張だけは伝わってきた。「えーっと」や「あー……」とつぶやいたり、ぼそぼそ独り言を言うだけで会話が一歩も進まない。
司としてもいい加減、薄着で外にいるのも億劫になってきた。寒い。
「あの、天河さん?」
「は、はい! はい! なんでしょう!」
「いや、『なんでしょう?』はこちらのセリフですが……どういったご用件で?」
「あ、あのあの。えっと、私、来月からあなたと同じ高校に通います」
歳どころか高校まで同じとは。こんなにかわいい女の子と同じ学校に通えるのか……とぼんやり考える。
「そうですか。俺は笹原司です」
「はい。知っています」
……だから何で知っているんだ。
美少女に名前と顔を覚えられてうれしい気持ちがある半面、不信感も募っていく。
いい加減寒さが我慢できなくなってきた。返事も適当なものになってくる。
女の子は背筋をピンッと伸ばして、司の目をまっすぐ見た。
「私、あなたのことが好きです! 恋人としてお付き合いしてください!」
すさまじいお辞儀とともに叫び声かと思うほどの声量で伝えられる気持ち。
告白だ。
勘違いの余地のない明白な告白だ。
疑問と驚きで置いていかれる司をよそに、当の本人はやり切ったかのようなすがすがしい顔をしていた。
だが……
「えっと、すみません。できません」
「えっ」
突然の告白に思考停止する中、司は反射的に断りの文句を口にした。
「え、あれ。おかしいですね。聞き間違い?」
「あ、声小さかったですかね。できません」
「あぇ……?」
顔を上げた彼女の眼にじわっと涙がたまっていくのが見える。今にもこぼれてしまいそうだ。
司も男だ。こんなにかわいい、しかも司のタイプに限りなく近い女の子でもある。正直、告白はうれしいし、諸手を挙げてぜひ受けたいところだが理性がストップをかけた。
「あの、俺は君のこと全然知らないし、そもそもなんで俺の名前知ってるの?」
怪しい。突然美少女が現れて自分に告白する。まともな人間ならここでストップがかかるに十分怪しい状況。それが彼の理性を働かせた。
司の人生、彼女のような女の子に関わる機会はなかった。小学生、中学生時代とさかのぼっても彼女の顔に一致するような人物はいない。さすがに幼稚園の記憶を求められると自信はなくなってくるが、おそらくなかったと思う。
それなのに、彼女は司の顔と名前を知っている。自分は彼女を知らないのに、彼女は自分のことを知っているというのは、ひどく気持ち悪い感覚があった。
「え、あ、そうでした。初対面ですよね。でも私たち初対面じゃないんです!」
「あ、それはすみません。どこかでお会いしたことが?」
「はい! 司さんが中学生のとき、通学路の近くの神社で!」
「あー、あの神社かー……え、あの神社?」
言われた神社は確かに覚えがある。司は中学生の時、学校からの帰り道でよく神社に寄っていた。コンビニによっておやつを買い、神社で食べていたり。急な雨が降ったときは雨宿りで利用したり。試験前はお参りをしたものだ。
「あの神社は無人だったような……天河さんに会った覚えはないような」
司の記憶では神社は無人で、参拝客も司は見たことがなかった。無人で人気のない神社だからこそ、司の秘密の休憩場所のようなところだったのだ。
「あそこは俺以外に人は見たことないぞ。いたのはたまに出てくる野良狐くらいで」
「はい! 私はその狐です!」
「……ん?」
ちょっと何言っているかよくわからなかった。
いま一度、彼女の言葉を頭で反芻するが、やっぱりよくわからない。
「何度か魚肉ソーセージをもらった狐です!」
「ちょっとよくわからないです」
「思い出しましたか!」と言わんばかりの嬉しそうな顔で自身の正体を告白する天河美也孤と名乗る美少女。
そう、美少女なのだ。
狐ではない。
目の前にいるのは人間の女の子で狐ではないのだ。
「君は人間では?」
「でも狐でした!」
「……なるほど。わかった」
これ宗教勧誘だ。
狐が人間になる? そんなトンチキな超常現象なんてありえない。つまり、彼女は俺を何らかの宗教に勧誘するためにここにやってきたのだろう。
告白してまで勧誘するとはタチが悪い。純情な思春期男子の心をもてあそばれるところだった。
「宗教には興味ないんで、では」
「あ、まってまって閉めないで! もっと話を聞いてください! いいえ聞くべきです!」
「興味ないです他を当たってください」
そっと閉めようとしたドアを両手で止められる。おお、思ったより力強い。
彼女の言ったことはすべて本当だ。あの神社に司が通っていたのは確かにその通りだ。野良狐に会ったことあるし、魚肉ソーセージも何度かあげたことある。事実だが、宗教勧誘にはこれ以上付き合ってられない。
「どこで見てたか知りませんが、深くは追及しません。お引き取りください」
「待ってくださいお願いします! 信じてないですね! ホントです! ホントに狐なんです!」
若干の恐怖にかられながら扉を閉めようとするも、力が強い強い。ぐぐぐっと徐々に開けられ、家に引きこもるという手は封じられた。
「聞いてください! ホントなんです!」
「わかりましたわかりました。俺は疲れているんで今日はここで」
「あー、それは信じていない顔ですね! いま証拠見せますからドア閉めないでください!」
美也孤は両手の代わりに足をドアストッパーとして、かぶっていたニット帽を脱ぎ去った。
ぴょこん
妙な擬音が聞こえた気がした。
ニット帽から解放され、現れたのは耳。
耳である。
形を見るに、おそらく狐耳。いわゆるケモミミ。
きれいな三角形が髪の隙間からまっすぐ上に伸びている。
「……おおぉぅ」
「ふふん、どうです。本物ですよ。これでさすがに信じたでしょうっひゃぁ⁉」
もふもふもふもふ。
右手を伸ばし狐耳に触れる。外側を掌でそっと撫でる。次いで、耳の外と内の境目を人差し指でつーっとなぞっていく。最後に根もをを指先でやさしく揉んでみる。
「ひゃ、やぁ……ちょ、くすぐったい……ふあぁッ⁉」
司はほとんど無意識に手を動かしていた。右耳を一通りなでると、今度はそのまま左耳をなでる。根元から先端までまんべんなく、撫でて揉んでなぞっていく。時に強く時に弱く、緩急をつけながら確かめるように丹念に。耳の外側はさわさわと毛並みに逆らわず、耳の縁は早すぎず遅すぎず、一番刺激が伝わりやすい速度でなぞる。根元は撫でるというより指の腹で軽く押すように刺激を与えていく。
「ちょ、もういいでしょ……はぅ! ひゃああぁぁ……」
美也孤は体を震わせ、時折かすれたような声を出すのみで司に撫でられ続けた。逃げようにも耳から伝わる刺激が首を通り、背中を走り抜け、足に力が入らなくなったのだ。
やがて美也孤は耐えきれなくなって床にぺたんと座り込んだ。そこでようやく司も我に返った。
「あ、おい大丈夫か? ごめん、急に撫でまわしたりして」
「はぁ、いえ……大丈夫です。……それにちょっと気持ちよかったですし。はふぅ」
美也孤はふらつきながらもなんとか立ち上がる。肩で息をし呼吸を整えるが、そのたびに先ほどの余韻が首筋を走り、背中がこわばってしまう。
「はぁ、はぁ……すー……はー……」
大きく深呼吸し、ようやく落ち着けたようだ。それでも、頬から首まで真っ赤に火照った熱はしばらく収まりそうにない。開いた口からは熱い吐息が漏れ、濡れた舌をちらちらと覗かせていた。
冷静さを取り戻したようでトロンッととろけかけた瞳からの熱い視線に、司は思わずドキッとした。
「はー……はえ? どうしました?」
「あ、いや、えっとなんだっけ?」
「えっとなんでしたっけ……そう! 私が狐だって話ですよ! 信じてもらえましたね!」
そうだった忘れてた。
司の手に残る感触は本物だ。作りものじゃない柔らかな感触と生きもの特有の暖かさが確かにあった。
「あぁ、確かに本物っぽい感触だった」
「『ぽい』じゃないです。本物です!」
「ということは、本当に狐……?」
「はい、狐から神通力より化成しました。天河美也孤です!」
強調するように両掌を狐耳に当てて改めて自己紹介。
信じる……信じるべきなのか?
確かに狐耳のような感触はあった。本物っぽかった。
けど、だとしてもだ。冷静に考えてみろ。
狐が人間になるなんてあり得ない。
本物っぽいというだけで、実は何かしら細工したものかもしれない。
「いや信じられない」
「なんでぇ⁉」
「どうせなにか仕込みがあるんだろう。そもそも狐が人間になったなんて話自体ムチャクチャすぎる」
「それは……そうかもしれませんけど、ウソのようなホントの話です!」
「それ、詐欺師の常套句だな」
「狐が化けるなんて昔話でよくあるじゃないですか」
「それはフィクションじゃないか」
美也孤自身も自分の言っていることが信じられないだろうということは自覚しているようだ。「ホントなのに」と後付けされた声は小さくすぼんでいった。
しゅんと肩を落とす美也孤を見て、さすがにいたたまれなくなった司は頭を掻く。
すると、美也狐は何かひらめいたのか「あっ」と声を上げ、にまぁ~と口角を上げた。
「わかりましたわかりました。つまり司さんは照れているんですね!」
「は?」
「知っていますよ。私みたいなケモミミの超絶美少女が目の前にいるのでドキドキしているんですね! 当然ですね! 仕方ないです!」
「え、いやそんなことないが……」
「ウソおっしゃい! 私は司さんの性癖を把握しています。本当は私のこと超絶ストライクなんでしょう?」
「な――ッ⁉ 何を根拠に」
「司さんが中学の頃はケモミミヒロインが出るライトノベルを好んで読んでいたことは知っていますよ! なかでも、私のように狐っ娘が好きなんでしょう?」
「なんで知っているんだよ⁉」
司は中学時代に通っていた神社でよくライトノベルを読んでいた。内容は様々だったが、美也孤の指摘通りケモミミヒロインが出てくるものも多く読んでいた。少しだけ、ほんの少しだけケモミミ物が多かったかもしれないが。
「私が神社にいた狐だからですよ。これで信じましたね!」
「いや信じるとか信じない以前に、名前や住所どころか性癖まで知られているなんて普通に怖いんだけど……」
自信満々なドヤ顔をする狐耳美少女にドキドキどころか、警戒の意味で鼓動が早くなる。家族にも友達にもばらしていないのにどこで知ったというのか。
かといって、本当に狐が人間に化けたと信じるも無理がある。さすがにこの世の常識を逸脱しすぎだと司は思うのだ。
もう考えることも疲れてきた。この美少女が本物の狐か、宗教勧誘か詐欺師かを考えるよりも、早くこの場から逃げ出したい。
すると、司の頭に少し意地悪な質問がよぎった。アイデアとしては無理があるかもしれないが、これを突き通してみようと試みる。
「んー、わかった。じゃあ身分証見せてよ。そしたら宗教勧誘とかじゃないってわかるし、不審者扱いしないからさ」
「え? 身分証」
「うん。学生証かな? 前の学校のでも良いよ。持ってなかったら健康保険証でもいい」
「え、え? えと……」
「顔写真付きが一番いいけど。あ、もしあったら名刺とかのほうがいいかな。学生だからないとは思うけど」
「あ、あぅ……」
宗教関係ならばそれに類する資料や名刺を出してくるだろう。それを出してきたのであれば確定だ。さっさとおかえり願えばよい。なんの企みのないただの女の子とわかるのであれば、ゆっくり話を聞けばいい。いや話を聞くのも突拍子もないおとぎ話をされるのも困るが……。
だが、美也孤は司から目をそらし、口をごにょごにょ動かすだけ。
「えっと、私……」
「もしかして、もってないの?」
「はい、こないだ化成したばっかりなので、そういった書類は持ってなくて」
「その設定いいから。さすがに学生証は持ち歩いているでしょ?」
「設定じゃないです! ホントに狐だったんです!」
「えぇ……」
「それに、持って来てないじゃなくて、ほんとに持ってないんです」
じゃあ本当に狐なのか。彼女の顔はうそをついているように見えない。もしかして、まさかのまさかのことなのだろうか。
信じられないし、信じたくもない。かといって、これをそのまま彼女に言ったところで話は先に進まないことは見えている。
そろそろ本気で暖房の効いた部屋に戻りたいと考えていたら、名案が浮かんだ。
「うーん、じゃあ本当に狐だったとして」
「はい! 信じてくれましたか!」
「うん、まぁ。本当に狐だとしたら、健康診断の診断書を持ってきてほしい」
「……はい?」
彼女を本当に狐だと仮定する。すると、浮かび上がるは野生動物が保有する病気や寄生虫の懸念。野生動物であるならば気にするべき問題だ。もっとも、エキノコックスはほとんど緯度の高い北海道か東北で確認される寄生虫で、ここではその心配は少ない。少しどころかかなり意地悪なツッコミだとは司自身も思っているが、もう疲れた。立ち話にも寒さにも限界が近づいてきた彼は、話を無理にでも切り上げに行く。
「いや、これまで野生で生きてきたわけでしょ? 野生動物っていろんな病気を持っている可能性があるって聞くし、動物を保護したら動物病院に診てもらうことが大事って聞いたことあるし」
「私はもう人間です! 動物病院にはお世話になりません!」
「いやでも狐って」
「この! かわいい! 美少女を見て! 人間じゃないっていうんですか⁉」
「狐って」
「『元』狐です! 今はちゃんとした人間です! 狐耳はあるけど!」
ビシッと指さすはもふもふな狐耳。そこだけ見れば狐だが、彼女は見た目人間の女の子。では人間なのかと聞かれれば『元狐』という枕詞が付く。
野生動物から病気をもらう話はよく聞く。特に狐で有名なのはエキノコックスだ。万が一感染し、発症したら手術しなければならない。
「だとしてもだ。元でも野生動物であるならばこっちもそれなりの対応をしないといけない」
「人に向かって「病気じゃないか?」なんて失礼すぎます!」
「それは君が元狐だって言うからだろう」
「ぐぬぬぬぬ……」
設定のあらを突かれ、彼女は何も言い返せず歯噛みをするばかり。
「さぁ、話は終わりです。帰って帰って」
「まってまってまって。私、帰る家ないの。突然で申し訳ないけど、泊めてほしいなーなんて……」
「身分不詳なうえに住所不定と来たか」
「ぬぐっ、言葉にトゲがある気がします」
「さすがに住所不定はうそだろ」
「だって“元”狐だし」
その設定はずっと生かす気なのか。ここまでくるとその根性に感心する。
「だめだ。住所不定ときて、なおさら不審感が増したぞ」
「ホントに泊まるとこなくて困っているんです! こんな寒空の下、か弱い女の子を一人にする気ですか⁉」
「他を頼れ」
「人間の知り合いなんて司さんしかいないです!」
突然のぼっち宣言され、さすがに司も何だか可哀そうに思えてきた。
「そういわれてもダメだ。だいたい、今までどこで寝泊まりしてたんだよ」
「ええっと、件の神社で寝泊まりしてました」
「終電の心配どころか歩いていける距離だな。ちょっと時間はかかるかもしれないが、まだ日は出てるから大丈夫だな」
「うええぇえぇ⁉」
「さすがに不審者が過ぎる。次は身分証をもって出直してこい」
バタンッ
返事を待たず、司はドアを閉めた。鍵をかけ、チェーンをかけることも忘れない。そして。家の窓を全て閉め、これにもカギをかける。
『司さーん。お願いですから中に入れてくださーい。寒いのいやぁ』
ドア越しに叫び声が聞こえるが、司は一切合切の無視を決めた。
今時、この現代日本で身分証無し、住所不定、知り合いゼロの十六歳の女の子なんているわけがない。いたとしても、司の知り合いにそんな女の子はいない。噂すら聞いたことない。
『入れてくださーい。お願いぃ……お願いします……えぐ……』
暖房の効いた部屋でほっと一息していると、窓の外で美也孤がべそをかきながら去っていくのが見えた。