後編
付き合わないか。
その言葉は、いつも私と相手の友人の関係を絶ってしまう、呪いの言葉だ。
完全に停止してしまった私に、ちょっと困ったように浩介は優しく語りかける。
「正しくは、俺と家族にならないか?…かな」
「かぞく…?」
「そう、家族。恋人の先にある、家族っていう関係」
何もかもが唐突すぎて思考が追いつかない。でも決して急かしはせず、浩介はゆっくりと私が答えを出すのを待っていてくれた。
なんて答えればいいのか分からず沈黙を保っていると、浩介はぽつりと呟く。
「俺は美里とは違う価値観を持っていて、いわゆる一般的な恋愛観を持ってる。だから好きな人とは手を繋ぎたいし、キスもしたい。一緒になりたいと思う」
じゃあ、なんで付き合わないかなんて言ったの!
そう言おうとした私に、浩介は片手で待てとジェスチャーをする。
「好きなだけなら、俺も自分の欲を優先してたかもしれない。だけど、俺は美里のことを愛してるんだと思う。自分が美里に触れたいと思う以上に、美里の価値観を尊重したい。触れなくてもいい、人生を一緒に歩んで行きたいんだ」
こんな風に言ってくれるなんて、思わなかった。嬉しくて、目頭が熱くなる。
だけど、まだ怖い。過去の経験から、その言葉をすんなり受け入れることが出来ない。
なんとか時間を稼ぎたくて、気になった点を聞いてみることにした。
「……好きと愛してるって、何が違うの」
「何かで見たんだ。…花が好きだと言う場合、ただ花を摘むだろう。だが花を愛していれば、世話をし、毎日水をやるだろう…ってな。そういう違いだよ」
「……」
「納得できるまで、何でも聞いてくれ。焦らなくていい。今日答えを出さなくてもいい。俺は、美里の意思を尊重するよ。…だから泣くな」
気づかぬうちに、どうやら私は泣いていたらしい。一度泣いていると知ってしまうと歯止めがきかず、涙はとめどなく溢れた。
今まで押し込めていた思いは涙と嗚咽に形を変え、溢れ出る。
絶対にないと思っていた未来の提示に、様々な感情が入り混じってもう自分が何を思っているかも分からない。
言葉にならないって、こういうことを言うのかな。
私の左手をそっと温かな体温が包む。手の方を見れば、浩介がそっと触れていた。慈愛に満ちた表情には、優しさと温かさを感じる。
左手に触れる体温は、他人に触られて不快感を感じるものではなく、両親に手を握ってもらった時のような、とても安心できる温度だった。
どれくらいそうしていたのだろう。
青かった空は、今や夕方から夜になろうと色を徐々に濃く暗く変えている。
「酷い顔だな」
「……誰のせいだと」
「俺のせい?」
「もちろんだ」
「ごめん」
全然ごめんなんて思ってないような声で言い、笑った。私もそれにつられて笑う。
「…来週の休みまで、色々考えたい」
「いいよ、いつまでも待つ」
「ありがとう」
本当はもっと悩みたい気もしたが、期限を決めないと際限なく悩み続けそうだったのでやめておく。
触れていた手が離れ、少しの寂しさと心細さを覚える。自分がこんな風に思うときがくるとは。
「よーし、じゃあ飯でも食って帰りますかね。お互い明日から仕事だしな」
「そうしようか。あ、夕飯は奢らせてね」
「はいはい。律儀だなぁ」
「奢られっぱなしって、誰かに借りを作ってるみたいで好きじゃないんだよね」
「それ、分かるかも」
「夕飯どうする?」
「昼はラーメンで、昨日は居酒屋か…ファミレスでも行く?」
「昨日奢られた分と釣り合いが取れない気がする」
「じゃあ満足するまで来週の食事も奢ってくれればいい」
「そうする。ファミレス行くか」
「よし、行くかー」
2人でベンチから立ち上がり、近くにあるファミレスに向かう。
他愛ないことを話しながらも思考は別のところにあり、心ここに在らずな感じだったけれど、浩介は気にしていないようだった。
ファミレスで夕飯を済ませ、来週の休みに遊ぶ約束(返事をする約束ともいう)をしてそれぞれの家に帰った。
どこかぼーっとしたままお風呂に入り、明日の為に早めに布団に入る。
色々考えたいことはあったが、その日は疲れてすぐに寝てしまった。
◇
私も浩介も土日祝日休みなので基本的に休みが同じだ。
先週の土曜は先輩との友情崩壊、日曜日は浩介からの家族になろう提案と慌ただしい休日だった。
次の休みに会う約束なのだが、土曜は浩介に予定があるとのことで、私には一週間の猶予があった。
あれから毎日考える暇があれば考え続け、仕事のときは無になってやり過ごしていたが、気付いたらもう土曜日だ。
家の中にずっといたら悶々と考え続け、答えなんか出ない気がして素早く着替えてアパートを出る。
たまに行くチェーン店のカフェに行き、アイスティーを頼んだ。狭い店内のそのカフェは二階建てで、どちらも禁煙になっている。一階は人が多くて落ち着かないので、二階に逃げ込んだ。二階は比較的席が空いていたので窓側の端の席に座る。
土曜日なのでどこも混んでいたが、やっと座れたのでホッとした。
どうやらもう16時近いようで、少し人波が引いたらしい。有難い。
いつもはストレートにガムシロップを入れるのだが、今日はなんだかそのまま飲みたい気分だったので何も入れずにそのまま飲む。
少し苦い気がしたが、その方が頭が冴えて考え事をするには適している気がした。
窓の外を見れば、各々の目的地へと向かう人たちが人混みの間を縫って、忙しなく歩いている。空はまだ青さを残しつつも、少しずつ青さを失っていた。
少し苦い口内も、青さを失っていく空も、何処と無く今の私の気持ちのようだ。
浩介は本当に、私と付き合うつもりなのだろうか。
そして家族にならないかということは、結婚まで考えているんだろうか。
だけど、それは本当に?
疑ってかかる自分に嫌気が差すが、こうでもしないと色々と信じられない。
だって私の恋愛に対する価値観・考え方は、失った友人たちの誰にも理解を得られなかった。
恋愛感情なんて持ったことはない。性行為は子供を産むための行為にしか思えない。
愛の証明の最もらしい理由とされるセックスは好ましくない。むしろセックスなんて糞食らえ。
そんな風に思っていることを元友人達にオブラートに何重にも包んで伝えると、元友人の中の一人には、
「お前は異常だ」
とまで言われた。
そのとき初めて自分は普通ではない、異常な考えを持っているんだと認識した。
そんな異常者である自分の考え方を尊重してくれるなどという、うまい話が本当にあるのか。そんな風に思ってしまうのは、今までの経験からして自然なことだった。
でもそのうまい話が嬉しかったのは事実で、私たちの関係の形が変われど、これからも一緒に居られるかもしれない。
その可能性が提示された事実は、友人たちを悉く失って深く傷付いた私の心に、一縷の光が射したかのようだった。
私は浩介を、失いたくはない。
それは今までの友人たちに思った想いより、強い想いだった。
恋情とは違うけれど、でも好きなのは事実で。
上手く言葉がまとまらないが、失いたくはないと思う心は、はっきりとそこに存在していた。
次の日、また駅で待ち合わせていつものラーメン屋に入った。
「すみません、塩ラーメン一つ」
「…私も塩ラーメンで」
驚いたような顔をした浩介。
それはそうだろう。私は基本的にこれと決めたらそればかりになるので、決めたもの以外を頼むのは自分で言うのもなんたが、大変珍しい。
「なんかあったのか?いいのか、塩ラーメンで」
ただ塩ラーメンを頼んだだけなのに、大袈裟すぎる。
そう思いつつも、今日塩ラーメンを頼んだのは大きな決意の表れでもあるので、そういった意味では浩介は鋭いと言えるかもしれない。
「いいんだ、塩ラーメンで。たまには、浩介が推してるラーメンを食べてみようかと」
小さくて聞き取りづらいような声で呟くと、浩介はとても嬉しそうに破顔した。
「俺も次は醤油ラーメン食べるかな」
「なんで?」
「俺も美里が美味しいと思うものを、共有したいなと思って」
眩しいくらいの笑顔でそう答える彼に、私は何も答えなかった。
答えられなかった、と言うのが正しいけど。
互いにそれ以上は言葉を交わさず、黙々とラーメンを啜る。
温かい気持ちになって食べたラーメンは、大好きな醤油ラーメンより美味しく感じられた気がした。
先週と同じ公園に行き、同じベンチに座る。いつもは気楽なはずの浩介の隣は、今日はとても緊張する。
浩介は核心には触れずに、他愛ない話をそれとなく振ってくれている。恐らく私が話すのを待っててくれているのだろう。
私は心の準備をしながら、どのタイミングで話すべきかと時を見計らっていた。
ふと目線の先に、仲の良さそうなカップルがいるのに気が付いた。
そのカップルは人目も憚らずにイチャイチャとしている。しばらく見つめていると、二人は急にキスをした。
人目を気にしない豪胆さに驚き、呆然としていると浩介の苦笑した声が耳に届く。
「すげぇカップルだなぁ」
「…世のカップルは皆ああしなきゃいかんのか?」
「いや、あれは一部だから。皆がああじゃないから安心しなさい」
「あれが一般的とか言われたら、私は一生結婚もお付き合いもしないで死んでいくつもりだったわ」
「だと思ったよ。安心しろ、あれは一部だ」
「そうか」
「そうだ」
ぷつりと会話が途切れ、人々の喧騒だけが公園の中に響き渡る。
イチャついていたカップルは何処かに行ってしまい、観察するものがなくなった私は空を見上げた。
「ねぇ、浩介」
「ん?なんだ?」
「私はあのカップルたちみたいに、浩介とキスができるか分からない」
「うん」
「浩介が想ってくれても、同じ熱量を返してあげられない」
「うん」
「セックスなんて糞食らえって思ってるから、自分の子供が欲しいとでも思わない限り、きっとそういう行為には応えてあげられない」
「うん」
「…それでも……それでも、いいの?」
こんな試すようなことを問いかけるなんて最低だと思う。
でも、それでも聞いておきたいんだ。
怖くて目が合わせられず、じっと澄み渡る青空を見つめる。
少しの間の後、手を優しく握られ思わず視線を浩介に向けると、とても慈愛に満ちた顔の浩介がそこにいた。
「いいんだ、それで。そういうとこ全部含めて美里で、そんな美里を好きになったんだ。情熱的な愛情はもちろん、あったら嬉しいとは思う。だけど別にそれを必要とはしてない。俺が求めるのは美里に俺の今後の人生、ずっと隣を一緒に歩いて欲しいってことだ。ただ、それだけだよ」
きっと、本当は違う。浩介だって所謂普通の男性だ。
本人も言っていたけど、好きな人には触れたいだろう。でもそれを飲み込んで、私の価値観を優先してくれているのだろう。
ずっと一緒に居るためには、妥協しなければいけないことが沢山あると思う。そしてこういう価値観の相違も、妥協しなければいけないことの一つ。
歩み寄りが、一緒にいるために大切なことなのだろう。
浩介は私という頑固で駄目なものは一切駄目という、妥協を知らない人間のために、歩み寄ってくれているんだ。
だからこそ私は浩介に、真摯に包み隠さず自分の気持ちを伝えよう。
浩介の少し茶色っぽい目を、しっかりと見つめて答える。
「私も…浩介の好きとは違うけれど、浩介が好きだ。ずっと一緒にいたい。私は未だに恋愛なんてわかんない。誰かと人生を共に過ごすってことも、こんなんだから考えたことなくてよく分かってない。嫌なことは強要されたくないし、ある意味だいぶ我儘だ。だけど…それでもいいなら、浩介と、家族になりたい」
色々考えたけど、やっぱり分からないことが多くて大した答えは出なかった。
だから私の今の心境を、震える声で包み隠さず曝け出した。
浩介はこの答えに、なんと答えるのだろうか。
じっと見つめ合っていると、浩介の目が細められて嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、美里!きっと美里のことだから、このことはだいぶ悩んだんだろうなって思ってる。それでもその気持ちを、真っ直ぐ俺に伝えてくれた。俺は今、すっげぇ嬉しい!」
子供のようにはしゃいで、急に抱きしめてきた。それでも不愉快にならないのは、なんの下心も感じられず、純粋な気持ちから思わず出てしまった行動だと思えるものがあったからだろう。
「本当はさ、今日断られるんじゃないかと思ってたんだ。急に俺の気持ちを伝えたし、誰とも付き合うつもりはなさそうだったから。なのに、俺と付き合うという選択をしてくれたことが、すげぇ嬉しい」
「私は…浩介を、大切な友人を失いたくなかったんだ」
「それでもいい。理由がどうであれ、一緒にいてくれるんだろ?」
「まぁ…うん…」
小さく呟くと、ぎゅっと抱きしめる力がほんの少し強まった。
しばらくして腕の中から解放されると、浩介は真剣な目で私の目をじっと見つめて、口を開いた。
「改めて言わせてくれ。俺と家族になってほしい」
「…はい」
私たちはこうして、今後の人生を一緒に歩んでいくパートナーとなった。
◇
あれからもう、5年になる。
私たちは一緒に暮らしていく上で、結婚という制度を利用することにした。
家族として法的に認められて周囲に認識されることで助かることが多いようで、そういった形をとることにしたのだ。
利用できる制度は利用したほうがいいのは事実で、私も素直に結婚を受け入れた。
浩介は書類上私の夫となったが、私にとっては親友という感覚は変わらない。妻になったという実感もなく、結婚前と対して変わらぬ暮らしをしている。
子供はおらず、変わったことといえば2人で新しいアパートに引っ越したことぐらいだろうか。
家に入ってほしいなどとは言われず、仕事も続けていいと言われたので私は続けることを選択した。
書類上の夫婦になっても私の生活が変わることはほとんどなく、その事実が安心感を与えてくれる。
付き合うことになってから一度も行為を求められたことはないし、子供が欲しいとも言われていない。
私という人間に、浩介はとても配慮してくれているようだ。
私は結婚したらそういう行為に応えなくてはいけないかもしれないと心配していたが、それは今のところ無駄な心配に終わっている。
浩介の家族にも、私の家族にも孫はまだかとせっつかれているが、いつも上手く躱してくれる浩介には感謝しかない。
私と浩介との価値観の違いから色々抱える悩みもあるだろうに、行動で結婚前に言っていたことを示してくれているのが嬉しくて、最近少し泣いた。
私と同じような感覚を持つ人に出会ったことがないのでわからないが、少なからず同じような価値観を持つ人はいるとは思う。
そしてその中でも、私は恵まれた環境下にいるのだろう。
浩介がいなかったら、わたしはきっとずっと一人で老後の心配をしながら過ごしていただろう。そして周囲との感覚の違いに、大いに苦しんだことだろう。
そうならずに済んだ、浩介という一人の人間との縁の巡り合わせに感謝しかない。
どうか私と同じように苦しんでいる人たちが、苦しみを抱えなくていい世の中になって欲しい。
幸せを噛み締めながらも心の片隅でいつも思うのは、そればかりだ。