中編
次の日、案外ケロリと起きてなんの後遺症もなかった私は思っていたより酒に強いのかもしれない。絶対二日酔いになると思ったのに。
時計の針が示す時刻は9時17分。駅は近いし余裕を持って準備できるので、のんびりと支度を始める。
しゃかしゃかと歯ブラシを動かしていると、ふと昨日の醜態を思い出す。
あれは本当に酷かった。あんな風になったのは初めてだ。今日は浩介に開口一番謝らなくちゃ。
口の中をゆすいで顔を洗い、スキンケアをして日焼け止めまで塗る。
そこまできてパジャマのままなのを思い出し、ホームセンターで安く購入したタンスの中から服を漁る。
今日は浩介と会うから気を遣わず服を選べるので、いつもは時間のかかる服選びもすんなり決まった。
梅雨が明けたばかりの7月は暑いのでTシャツに七分丈のジーパン、羽織りものはUVカット加工のパーカーである。
脱いだパジャマを洗濯機に入れ、電源を押して回しておく。やれるうちにやらないと洗濯物はどんどん溜まっていくから、本当に油断ならない。
椅子に座り、化粧ポーチから化粧品を取り出す。いつものフルメイクとは違い、今日は日焼け止めの上にフェイスパウダーを塗り、眉を描くだけで済ませた。
中学の頃からの友人だから素顔を知っている相手なので、そこまで化粧をしなくて済むのは有り難い。面倒なことは嫌いなのだ。
昨日家事を何一つやらずに寝てしまったので、残っている家事を済ませ、洗濯機が回り終わったら洗濯物を干した。
全て家事を終え、時計を見れば10時40分くらいになっていたのでちょうどいいかと戸締りをする。
玄関には休日にしか出番のない、気に入っている地味なサンダル。安価で買ったのに履きやすくて足を痛めない、優秀な奴だ。
ちょっとだけテンションが上がり、鍵をかけて家を出た。
駅に向かいながら、ちょっとずつ昨日の醜態を思い出す。
酔っ払って普段浩介にも言わないでいた自分の思いを吐き出してしまった。
めんどくさい奴だと思われただろうか。変わった奴だと思われただろうか。
他の人にはそんな風に思われても全然構わないのに、浩介にそんな風に思われるのは嫌だと身勝手に思ってしまう。
やっぱり浩介が好きだ。でも、みんなの言う好きじゃない。
ため息が溢れた。普段からため息が多い方だとは思うけれど、昨日の出来事はため息を加速させる。
もしため息に形があったならば、私はため息で埋め尽くされていただろう。
そんなことを考えていると、いつの間にか駅に着いていた。
だいたい待ち合わせのときは駅の中にあるカフェの前と決まっているのでそこに行くと、もう浩介は来ていた。
私に気づくと、彼は手を控えめに上げる。なので私も彼に習って手を上げた。
「おはよ。今日は大丈夫か?」
「おはよー。大丈夫だよ。昨日はご迷惑をお掛けしました。そして色々ごめん」
「気にすんな」
「ありがと。そして私自身は全然元気よ。自分で言うのもなんだけど、ケロリとしてる」
「みたいだな」
本当になんともない様子の私に、浩介は苦笑している。
そういえば今日は何して遊ぶんだろうか。何もプランを聞いていないので聞いてみることにする。
「ほんで今日はどっか行くの?」
「んー考え中」
「考えて誘ったんじゃないんかーい」
「ノリで」
「ノリか」
「ノリだ」
相変わらずテキトーな男である。
浩介と遊ぶときはノープランスタイルが多いので、いつもその日の気分で何処かに行くことが多い。
恐らく今日もいつもと同じだろうと思っていると、浩介が「あ、そうだ」と呟く。
「飯食べたら美里が振られた公園行こうぜ」
「なんでわざわざ昨日悲しい事件があった場所に」
「あそこ緑が多いから涼しいし、美里あそこの公園好きだろ」
「…まぁ好きですけど」
「じゃあ決まり」
まぁいいか、浩介となら。
そんな風に思いながら、二人で近くの美味しいラーメン屋に入った。
綺麗とは言えないが、汚くもない店内が妙に落ち着くそのラーメン屋は、醤油ラーメンが美味い。さっぱりしつつも癖になる味付けで、たまには別のラーメンを頼んでみようと思いつつも、いつも同じ醤油ラーメンを頼んでしまう。
浩介は塩ラーメン推しなので塩ラーメンを頼んでいた。私はいつもの醤油ラーメンを頼む。
「また醤油か。塩が美味しいのに」
「何を言う。醤油が美味いんだぞ。浩介こそまた塩ラーメンか」
「ここは塩が一番美味い」
「いや、醤油だね」
「いや、塩だ」
「醤油だ」
塩vs醤油戦争をしていると、同じタイミングでラーメンが机に置かれた。
「「いただきます」」
ラーメンが来たら会話は不要。互いに黙々とラーメンを啜った。
好きなものを食べるときに余計なことを喋らないとこも、好きだ。
私と浩介は色々なことの価値観がとても似ている。だからこそ、異性の友人であってもこうして関係が続いているのかもしれない。
いつか浩介に彼女が出来たら、こうして一緒にラーメンを食べることは、もう叶わなくなる。
そうしたら、私は…。
「おい、どうした?」
いつの間にか食べる手が止まっていたらしく、浩介が怪訝そうな面持ちでこちらを見ている。
「ん、なんでもない。ちょっと考え事してた」
「そっか」
また無言でラーメンを食べ始める。
あまり深追いしてこないとこも、好きだ。
なんだか胸が苦しくなってきて、いつもより味気ない醤油ラーメンを啜った。
ラーメンを食べ終え、公園に向かう。互いの推しラーメンの美味しさについて語りながら歩いていると、あっという間に着いてしまった。
休日なのでそれなりに賑わう公園に着くと、昨日の苦い出来事を思い出す。相当渋い顔をしていたのか、浩介が堪え切れないといった様子で笑った。
「そんな顔しなくても」
「どんな顔してる?」
「嫌だなぁって顔に書いてある感じ」
「そんなつもりないんだけどなぁ」
空いていたベンチに2人で座る。子供たちは遊具の近くで遊んでいるので、私たちがいる所は比較的人が少ない。いるのは大人、それも何故かカップルばかりだ。
手を繋いで仲よさそうなカップルが、私たちの目の前を通過していく。微笑ましいなと思っていると、浩介が口を開く。
「あんな風に手を繋ぐのは、理解できない?」
突然の質問に少し面食らったが、これは昨日の続きなのだろうと、質問に答えることにした。
「んー…理解はできる。安心感を求めるなら、他人の体温に直に触れるのが一番手っ取り早いと思うから。だけど、自分が安心感を得たいと思ってやるかと考えれば、選ばない選択肢かなと思う」
「愛しいと思うと触れたくなったりしないのか?」
「んー?んー…分からんでもない。犬や猫には可愛いと思ったら触れたくはなるな」
「人間には?」
「思ったことないな。…でも、家族と手を繋いだり、ハグするのは安心できる。だからそういった意味でするのなら、分かる」
「なるほどなー。それ以上のことは、理解できないんだっけ?」
意外とグイグイ聞いてくることに驚きつつも、誰かに言う機会も持てずにずっと口を閉ざして過ごしてきた私には、答えないという選択肢はなかった。
きっと、ずっと誰かに話したかったんだと思う。
「うん。キスも軽いものならまぁ可愛い動物にしたくなるから分かるけど、深いのは理解できない。互いの唾液が絡むことを考えただけで、割とおえってなる。性行為も同様かな。あと私は根本的に、性欲を発散する方法として、他者で発散するというのがよく分からない。そんなの自己処理してくれとしか、思えない」
「愛してる、好きって気持ちを行動に表したものが性行為だとは考えられない?」
否定しないで純粋に疑問に思って聞いてきてくれることに、感動する。
色々と質問されると、今まで思っていたことが少しずつ言語化され、考えが形になっていく。
まさかこの機会に自分の考えを見つめ直すことになるとは思わなかった。
こんな機会はそうそう訪れることではないと思うし、はなから否定せずに話を聞いてくれることが本当に有難い。
「んーそうだね…。私はさ、性行為は愛情表現の手段の一つだということは理解してるよ。恋人のコミュニケーションの一つだと。ただ、私はそういったコミュニケーションを好まないだけ。愛情を伝える手段として、私は性行為より、話をしたい。そういうタイプなんだ」
「コミュニケーションの一つか…」
考えをまとめていて、自分が何を望んでいたのかを初めて知った。
そうか、私は話をすることで、言葉で愛情を表現したいタイプなのか。
「性行為だって人によって捉え方が違うし、その人がどういうものだと認識しているかによって行為の意味が変わるから、そんな曖昧なものより言語化して確かにしたい。性行為は性欲を解消するもの、スポーツ、寂しさを埋めるもの。私にとっては、子供を産むためにする行為で、性欲を発散させたり、愛の証明として行う行為ではない」
「相手がしたいと思う性行為の理由と、自分が考える性行為の意味が違うから、価値観の相違を感じて告白されても付き合わないのか?」
「そうだよ。だって好きだからしたいって言われても、私はしたいと思わないから。最初から求めるものが違うんだから、例え付き合ったとしても、そんな歪な関係は長くは続かない。いずれ別れるよ。だから最初から断っておくんだ。お互いが傷つかない、無駄な時間を消費しない為にもね」
「なるほど…」
ちょっと考え込むようにしている浩介の顔はしかめっ面になっている。
真剣に考えてくれているんだろう。本当にいい奴だなぁ。
ああ、好きだなって思うのに。どうして私はみんなと同じじゃないんだろう。
異性の友人というのは、恋人がどちらかにできたら脆く崩れ去る。相手の恋人に配慮して一緒に遊びに行けなくなり、いつしか疎遠になってしまう。
みんなと同じなら、この曖昧でいつまで続くか分からない不安定な異性の友人という関係を、恋人という確固とした関係で続けていけるのに。
恋愛至上主義なんて嫌いだ。
鬱々とした気持ちの今の私には、見上げた視界に広がる爽やかな青い空が憎いなぁ。
そんなことを思っていると、隣から声が掛かる。
「なぁ、美里」
「うん?」
浩介の方を振り向くと、いつもはしない真剣な顔をした友人がいた。
「俺と、付き合わないか?」
私と友人の関係に、亀裂が走った瞬間だった。