前編
社会人二年目の夏、久しぶりに会おうと大学の先輩から連絡があった。どうせ休みはいつも寝てるか趣味に没頭してるかだ。たまには普段会わない友人と会うのもいいかと思い、了承の連絡を入れた。
そして約束の日時に指定した場所で会い、ブラブラと普段行かないようなカフェに行ってみたり、最近行く機会がめっきり減った映画館で先輩の希望の陳腐な恋愛映画を観てみたりしていた。
たまに会わない人と会うのもまぁまぁ楽しいな、などと思いながらゆるい時間を過ごしていた。
だけどその楽しさをぶち壊してくれたのは、なんと先輩であった。映画館に着き、普通に映画を楽しもうとしていたのに、何故か先輩は手を握ってきた。
何だこいつ。そう思って先輩の方を見れば、
「手を握ってもいい?」
と言ってきた。
いや、もうお前握ってんじゃん。手を握る前に事前に了承得てからにしろよ。
流石に先輩にそんなことを言えるほど肝が据わってない私は、言葉を飲み込んで先輩から目を逸らした。
「先輩は人肌恋しいんですか」
スクリーンを見ながら、そんなことしか言えなかった。拒否できない自分がムカつく。
「ママみてー!あの人たち手をつないでるよ!」
「こら、ゆうこちゃん!」
映画館でさっきからキャーキャー騒いでいた躾のなってない糞ガキは、純粋に疑問を口にした様子だったが、腹立たしいことこの上ない。
私は手を繋ぎたくて繋いでるわけじゃない。ただ断る方法が思いつかなくてこうなってしまっただけだ。
結局先輩は映画が終わるまで、緊張から出たであろう手汗が滲むその手をずっと私に絡めたままだった。
映画館を出てからは互いに感想を言い合う訳でもなく、かろうじて目的地を定めてからは無言で黙々と歩いていた。ちなみに先輩の見たかった映画は全然面白くなかった。
到着したのは私がよく散歩しにくる、お気に入りの公園だ。公園内を2人で無言で歩く。気まずい。とても気まずい。
この空気をどうしたらいいのか分からず、でも私から話を切り出すのはめんどくさくて流れに身を任せていると、耐えきれなくなった先輩が沈黙を破った。
「あのさ!…俺、あの…」
嫌な予感がひしひしとするその言葉に、私は思わず舌打ちをしそうになる。
先輩は言葉を詰まらせながらも、決意を秘めた顔で再び口を開く。
「俺…美里ちゃんのことが、好きなんだ!付き合ってくれ!」
どうして、こうなってしまうのだろう。
私は以前、同じような状況に陥ったときに言った言葉を、そのまま口から無感情に吐き出した。
「…ごめんなさい。お付き合いは、できません」
「彼氏がいるの…か?」
「いや、別にそういうわけでは…」
「なら、なんで!?」
心が凍っていくようだ。思わず無表情になってしまったが、誰にも責められまい。
「私は特に恋人の必要性を感じていないからです」
「彼氏がいないなら俺と付き合ってくれてもいいじゃんか!」
なんだその謎理論。先輩はもう少しまともな人だと思っていたが、どうやら私の思い違いだったようだ。
「…ごめんなさい」
「……俺のこと嫌いなの?」
今の件で嫌いになりそうです、なんて言えたらいいが流石にそれはやめておく。
「別に嫌いではないです」
「…もしかして、レズビアン?」
おい、どうしてそうなる。仮にそうだとしても、だいぶ失礼な問いかけだ。ほんと頭にくる。なんでこんな人のこと友人だと思ってたんだろう。
「…先輩とは決定的に価値観が合わないようです。もし今付き合ったとしても、きっとすぐ別れることになりますよ」
「そんなの付き合ってみなきゃ分からないだろ!」
「現時点でこんなに意見が一致しないのに、どうして分からないと言えるんですか?現状から見える未来に、先輩が望む関係性は存在しないと思いますよ」
「なんでそんなに悲観的な未来しか描けないんだ!」
「私が恋愛関係を望んでいないからです」
面倒になってくる。いつまでこれは続くんだろう。たぶん先輩が納得するまでだろうなぁ。
「…以前付き合ってた彼氏となんかあって、トラウマでもあるのか?」
「いえ、特にないですし、そもそも誰とも付き合ったことないです」
「じゃあ付き合ってくれても…」
どうしてもそっちに持って行きたいらしい。
いい加減疲れてきたのでこっちも切り札を出そう。まぁ切り札というか、ただの本心なんだけど。
「……そういえば先輩、数ヶ月前に彼女と別れたそうですね」
「え?ああ、そうだけど」
「セックスしたいだけなら、他を当たってください」
私からこんな言葉が出てくるとは思わなかったのか、先輩は唖然としている。
私は性というものから遠いところにいるらしく、色気とかもないので勝手に清純派みたいに思われることが多いらしい。
なので今口にした言葉の意味と見た目の乖離に多大な違和感を覚えて混乱しているのかもしれない。
「先輩、私はね、セックスというものに子供を産む以外の生産性を感じないんですよ。好きだからしたい、愛してるからその証に。そういうのが、全く理解できない。だから、先輩とはうまくやっていけませんよって言っているんです。分かりましたか?」
この公園の池にいる鯉みたいに口をぱくぱくと開閉する先輩は、壊れたオモチャみたいだ。
しばらくそうしていたあと、先輩は何も言わずにどこかへ行ってしまった。ひとり取り残された私は、慣れた足取りで家へ帰るために静かに駅に向かう。
やっぱりこうなったか。
悲しさより、諦めの方が大きかった。幾度も同じことがあれば、同じことで悲しんでばかりいられない。そんな自分が嫌だった。
どうして、こうなってしまうんだろう。
私はまた一人、友人を失った。
◇
「…ってなことが今日あったんだよ!」
だんっ!と机にレモンサワーのグラスを叩きつける。
普段お酒を嗜む方ではないのだが、昼間のことがあって飲まなきゃやってられない気分だった。
「そうか…」
私の向かいに座って静かに梅酒を飲むのは、長い付き合いの友人である。
「やっぱ男なんて嫌いだ」
「俺も男だけど…」
「浩介は別枠だ。男の友人の中でも特別だから」
「…それはどうも。でもその言い方、人によっては勘違いするからやめなさい」
「大丈夫、浩介にしか言わない」
「…はぁ」
溜め息をつかれたが、いつものことなので気にしない。
私の目の前でちびちびとビールを飲む男は、工藤浩介という。中学生時代に仲良くなり、そこから友人になるのはあっという間だった。学生時代はよく遊び、社会人になってからもアパートが割と近所ということもあってこうしてたまに二人で飲んでいる。
彼は私が昔から恋愛とは程遠いところで生きてきたことを知っている人だ。だからこそ、こんなことを話している。替えの利かない、とても貴重な友人だ。
勢いで酒を5杯くらい飲んだ頃には思考がまとまらず散乱し、考えてから口にするということができなくなった。
口から出てくるのは、いつものようにオブラートに包んで取り繕った言葉ではなく、普段から心の中で思っている本心。
「どうしてこの世の中は、恋愛至上主義なんだろう。恋愛をしない人間に人権は存在しないのかよ」
「いつの世も、マイノリティは肩身が狭いものなんじゃないか」
「なんて残酷な世の中だ。生まれる時代を間違えたか。もっと先の、あるかはわからないけど恋愛しない人にも人権が認められた時代に生まれたかった。みんながみんな、恋愛至上主義じゃなかったら私は友人を失わずに済んだのに。まぁ先輩のあの発言や謎理論を知った今ではら結局いつか友人関係は終わりを迎えていたとは思うけど」
そんな私に都合のいい、理想の世の中が実現するなんて思っちゃいない。それでも、夢くらいはみたい。
「…そういえば、美里はなんで恋愛感情向けられんのが嫌なんだっけ?」
「まず第一に、同じだけの気持ちを返せないから。同じ熱量、同じ種類の愛情を返してあげられないのはこちらとしても心苦しい。そして第二に、性的欲求を向けられても困るから。私は今まで生きてきて、誰にもそういう欲求が向いたことがない」
そう、私は所謂恋愛的な意味で誰も好きになったことがないし、性的欲求が他者に向いたことがない。
昔は異性を全く好きにならないので自分が同性愛者なのではないかと疑ったが、同性を好きになる気配もないのでどうやらそうではないらしいと数年前に気づいた。
私は好きな人は沢山いるけれど、誰も恋愛対象として好きになったことなどない。私はそれを、淡々と受け入れた。
「私は性的欲求が誰か対象となる相手に向くその気持ちが分からない。それに加え、私はそういう行為に子供を産む以外の意味を見出せない。粘膜接触なんて不潔だと思ってしまうから気持ち悪く感じる。それらの理由から、性行為を強要されるのが嫌なの。キスは唇と唇の粘膜接触としか思わないし、手を繋ぐのも子供が親の体温に触れて安心感を求めるのと同じようにしか思わない。一般的な恋愛マインドを持つ人とは絶望的なほど価値観が合わない。だから恋愛感情向けられても、困るんだよ。私の考えと相手の考えが違いすぎて、噛み合わないんだ。相手の恋愛観を押し付けられると苦しくなるし、自分が欠陥だらけの人間だと突きつけられるみたいで、泣きたくなるんだ」
価値観の違いで、何人異性の友人を失ったんだろう。過去の友人たちを思い出すと、酒がとても苦く不味いように感じられた。
「どうしてセックスが恋や愛の証明なんだ。愛情の形がセックスだっていうなら、お前ら家族とも友人ともセックスするのかよ。どうして恋愛限定でセックスが必ずセットなんだ。私は好きは、全部一緒だ。だから分けて考えられない。…恋愛は性欲の詩的表現だって誰かが言ったけど、なら私は一生恋愛なんて理解できなくていい。…恋愛が性欲とセットじゃなかったら、恋人というものを体験してみるのも悪くないと思えるのに。セックスなんて糞食らえ」
こんなこと普段は言えない。間違いなく私は頭のヤバいやつ認定されるだろうし、理解されない。
酒の力を借りて、色々と溜め込んでいた思いが溢れてくる。苦しい、泣きそうだ。
「私は…どうしてみんなと同じように生まれてこれなかったんだろう。私は欠陥のある、冷徹な人間なのかな。人として大事なものが、欠けているのかな」
「そんな風に自分を卑下するな。みんながみんな、同じような考え方を持って生きているわけじゃない。だから特別美里がおかしい訳じゃない。美里は美里、他の人は他の人だ」
「浩介…ありがとう。きっと私が普通だったら、浩介のこと好きになってただろうなぁ」
「お前は間違いなく普通だから、お願いだからそんな風にいうなよ…」
そう言って悲しそうな顔をする友人は、本当に優しい人だ。
私は浩介が好きだ。ただし、それは同じ人間として魅力的という意味でだ。それなりに信頼関係を構築してきたし、家族みたいに思えることもある。もちろん友人に対する友情もある。
だけど、こんなに好きなのに恋愛感情(性的に惹かれる上で生まれる愛情と捉えている)だけはない。みんなが言うような気持ちを抱けない。彼に対してドキドキしない。キスしたいなんて、手を繋ぎたいなんて思わない。彼とセックスしたいと、全く思えない。
この人を、好きになれたらいいのに。
浩介となら、今後の人生を一緒に歩んでいきたいと思える。だけど彼は普通の人だから、恋人に…家族になるには恋愛感情が必要になる。性欲を向けられたら、それに応えなきゃいけなくなる。
ああ、なんて苦しいんだろう。
皆と同じなら、こんなに悩まなくて済んだのに。
俯いてグラスの中のレモンサワーに発生する気泡を眺めていると、落ち着いた青いチェックのハンカチが視界を遮る。
「…え?」
「涙拭けよ。頬、流れてるぞ」
どうやら私は泣いていたようだ。
情けないことに、色々溜まっていたものを吐き出して、それと一緒に涙も溢れてきてしまったらしい。普段は泣いたりしないのに。今日は酒を飲みすぎたかもしれない。
「…ありがとう」
そのままハンカチを受け取り、涙を拭った。私の吐き出した思いを受け止めてもらえたようで、またぽろりと涙が出る。
しばらく沈黙を保ったまま、深夜の居酒屋の賑やかさだけが耳に届く。
次の日が仕事のときはもう少し早く切り上げるのだけど、幸い明日は2人とも休みなので今日は夜更けまで飲んでいる。
だからこんなに色々吐き出してしまったのか、昼間のことが堪えて吐き出してしまったのか。酔った頭の私には、もはや分かりはしない。
「……なぁ、明日なんか用事ある?」
「え?特になかったと思うけど…」
ふて寝してようと企んでいたくらいで、明日はフリーだったはず。
浩介がこんなことを聞いてくるのは珍しく、少し戸惑う。
「じゃあ、明日遊ばないか?」
突然の誘いに、思わずしょぼしょぼになった目を瞬かせる。
最近は飲みに行きはしても、休日に二人で遊ぶなんてなかった。どうしたのだろう。
「別にいいけど…」
「よし、じゃあ決まりな。駅前に11時集合でいいか?」
「うん…」
「じゃあそれで。よし、今日はそろそろ切り上げるか。美里は飲みすぎだ、このくらいにしとくのがいい。いいな?」
「ハイ」
促されるままに従う。酔っていて頭が上手く回らないのが憎らしい。酒はあんまり飲むもんじゃないな。
「その前にお手洗い行ってくる…」
「おお、行ってこい」
よぼよぼと立ち上がり、覚束ない足取りでお手洗いへ向かった。
用をたし、手を洗って鏡を見ると、そこには酷い顔をした女がいた。血の気の引いた青白い顔色をした、恋の一つもできない冷徹な女。
その女が憔悴した様子で私を見つめている。
「飲みすぎたか…」
人は見てはいけないものを見たとき、冷静になれるらしい。酔いが少し覚めた気がした。
席へ戻るともう会計は済まされた後らしく、浩介は帰る準備万端である。
「え!?いくらだった!?ごめん、払う払う」
「いや、今日はいいよ。奢る」
「私は割り勘主義だぞぉ!絶対半分払うぞぉ!」
「はいはい、じゃあ明日なんか奢って」
「かしこまりぃ!」
「本当に酔ってんな…」
ゲームや読書で朝日を迎えてしまった日のようなテンションになっている気がするが、気にしない。なんか急に気分が良くなってきたからだ。
顔を洗ったときに色々一緒に洗い落としたのかもしれない。いいことだ。
「よーし!コースケくん帰ろうぜぇ!」
「はいはい」
「はい、は一回だぞぉ!」
「はーい」
「伸ばすなぁ!」
この後のことはあまり覚えていない。かなり酔っていたのだろう、記憶が朧げだ。
浩介がうちのボロアパートまで送り届けてくれて、部屋に着いたらそのまま寝てしまったようなきがする。
そこで私のその日の記憶は、途絶えてしまっていた。